対 想 3
イサは電車に揺られていた。何処かに行く用事なんか何も無くて、なのに気付いたら彼は其処を目指していた。化野が記憶を失くした場所。彼がそれまでの人生から、ぷつりと切り離された場所である。窓の外を流れる風景を眺めながら、少しばかり恐ろしい想像をする。
記憶喪失の原因がもしも万が一、
あの土地そのものにあったら、
こうやって足を運んだ俺も突然、
すべての記憶を無くしたり、
とか…さ。
「……うわ、ぞっとしないなぁ」
その駅までは、まだ三十分もかかるだろうか。やることもないし、寝ておくか、と窓の方へと身を寄せて目を閉じようとしたその時。
「すみません、ここ、よろしいでしょうか」
「…どうぞ」
顔も向けずに返事をしたイサ。彼に声を掛けた女も、ろくにイサの方を見ていず、斜め前に座った後は、自分が手にしているものばかりを眺めている。二つ折になる定期入れの、内側になったところを、じっと。
少し寝ようとしていたのに、知らない他人に座られて、正直眠気は飛んでしまった。それでも出来れば寝ようと、暫く閉じていた目を終いには開けて、イサはちらりと女を見て、すぐに何かを感じた。暫し見つめ、言葉になりそうだった声を、堪える。
「え…っ。…あなた」
イサが堪えたというのに、ふと顔を上げた女がそう言って、瞬時に、しまったという顔になった。
「…あー。どうも」
僅かに逡巡したのちイサは言った。首の後ろを掻いて、ぐっと落とした小声になり、彼は女に話しかける。
「まぁ、いいけど。俺が言わなきゃいいことだし」
「…すっ、すみません、まさかこんなところで会うなんて」
「珍しいね? あそこで働いてる人たちは、殆ど外に出ないって聞いたけど?」
彼女はタツミのところで働いている女だった。厨房に二人居たうちのひとりだ。本当に、そんな人間とこんなところで会おうとは、だ。ナキ島程じゃないにしろ、タツミの居るあの場所だって、秘められた特別な土地だ。
だからあそこで働くものは、秘密保持の為に滅多に外に出ないし、あの土地を訪ねてきた人間と、余所で偶然会ったとしても、それを表に出してはならない筈なのだった。
とにかく、そんな女が今イサの目の前で、はっきりと赤くした目元を隠して俯いている。
「…何か、どうしてもな用事?」
つい、そう聞いた。でもこんな不躾に聞かれ、相手は当然濁すだろうと思った。なのに彼女は答えた。もしかしたら、イサの言葉が叱責に聞こえたのかもしれなかった。
「父の、命日なんです。今からお墓参りに」
「そっか。孝行なんだね。じゃあさっきずっと見てたのは、お父さんの写真?」
「…いいえ、これは…」
そこまで言って、彼女は、もう一度顔を上げた。イサをひたと見据え、縋るような顔になる。
「あ、あの。いきなりですみません。あなたのこと、前に聞きました。困ったことがあれば相談に乗ってくれるって。あそこで働いてる人も、助けて貰ったことがあるとか、そんな話を。お願いです。もしも、この人を何処かで見かけることがあったら」
「どの人?」
聞くべきじゃなかったのだ、本当は。最初から、互いに知らぬ振りを通すべきだったし、イサも彼女に問いなど放つべきではなかった。見た途端に、イサは息を止めた。
「……兄なんです、私の。父が他界する一年前に失踪しました。私の生家は小さな開業医で、父と母と私と、それから…」
女の声は、イサの意識からどんどん遠くなる。聞く必要はない。何故ならそのすべてを、彼は既に知っているのだ。
小さな医院での医療ミス。その事実が世に知られれば、閉院するしかなくなる。その医院しか頼るもののない、何人もの患者が投げ出されてしまう。
なんとか示談にして貰うべく、亡くなった患者の遺族と、医院との話し合いが始まり、その時たまたま離れた土地に居たその医院の長男は、急いで戻ってこようとしていた筈だった。
だが、彼は途中で忽然と姿を消したのである。頼りの息子は居なくなったが、医院と遺族との示談は、長い話し合いの末になんとか成立。けれど心労と過労の為、病に倒れた院長が急死。結局医院は閉院となる。
投げ出された患者たちの行き先が、なんとかすべて決まったあと、ずっと堪えていたように、院長の彼の妻も亡くなったのだった。その後、ひとり残されたはずの院長の娘のその後を、イサたちは調べなかった。必要がないと思ったからだ。
そう。女がイサに見せた写真には、化野が映っていたのである。
「わかった。覚えとくし、もしも見掛けたら教えるよ」
それだけを言って、イサは堪え切れずに席を立った。ここで下りるから、と口走って、下りるしかなくなってしまって、誰も居ないホームでベンチに座り、イサは力なく苦笑いした。
運命だか偶然だかしらないけどさ、
勘弁して欲しいよ。
こんなこと、
ギンコに知られるわけにいかない。
勿論、化野にも。
「……記憶にない過去なんて、ただの重荷だ」
酷い言いざまだと分かっていて、わざと声に出して言った。あぁ、そういえば、話の最後に彼女はなんて言っていたろうか。兄は居なくなり両親は死んで、仕事も家も失くし、死に場所を探して彷徨っていて、タツミに拾われたと、そう…。
イサの目の前に、ギンコの顔が浮かんだ。哀しんでいる顔、泣いている顔、笑っている顔、幸せそうな顔。
「何があったって、俺はギンコの味方だよ」
考えてみたらこんな言葉、今までだって何度も呟いていた。誰かの犠牲の上に、ギンコの幸せが築けるというのなら、イサは例え誰だって、犠牲の下敷きにするだろう。けれどそうでもしなければ、仮初にも幸せになれないギンコの運命が、イサにはただただ、哀しい。
その時、ポケットでいきなり、ケータイが震えた。忌々しげに唇を歪め、下らない用だったら承知しない、とイサは棘のある声で電話に出た。電話の相手は仲間だった。そして内容も下らなくはなかった。
「イサ。『タツミ』から連絡があった。『温室がおかしい、可能な限り、すぐ来てくれ』と言ってる」
「おかしい、ってどういうこと? 他に何か言ってなかった?」
食い下がると、電話の向こうで相手が言った。島のことも、タツミの温室のことも知らない人間なのだから、しかたないが、酷く困惑した声だった。
「『蝶が、少しずつ増えている』と」
「すこぶる順調だよ。予定通り、あと十日というところだろう」
化野が言うと、セキは衣服を整えながら嬉しげに微笑んだ。彼女が子を授かってから、今日で恐らく十月、セキの三人目の子供は、まだ母親の腹の中だというのに、時間や約束を守ろうとするいい子であるらしい。
「いよいよなのね。女の子かなぁ、男の子かなぁ。どっちでも幸せだから、早く会いたい。早くみんなに会わせたい」
「何か気になることはないか? 体のことでも、なんでも」
「ううん、ちょっとだけ眩暈がするけど、大丈夫。三人目ですもん、不安なんかないわ。ちゃんと丈夫な可愛い子を産みます」
「頼もしいお母さんで、お腹の赤ちゃんも安心だな」
セイゴに守られながら、セキが帰っていったあと、ふと化野は思った。そういえば三日ぐらい前だったか、シオツグは眩暈が続くと言ってたな。それに、ミツは寝起きに決まってふらつくとか。二人には薬を処方し、その後の様子をまだ聞いてなかった。この頃、明け方の霧が濃いので、気圧が少し関係しているのかもしれない。
「薬は効いたと思うが、往診、言ってみるか」
呟いて、立ち上がる時、僅かだが目の前が揺れた気がした。すぐに違和感は消えたので、化野はそれを眩暈だとも思わなかった。
セキの往診の間、家から出てその辺を散歩していたギンコが、そろそろ戻ってくる頃だ。もう昼になるから、往診に出るのは、ギンコと昼飯を食べた後でもよかろうと、化野は土間へと下りていく。昨日もらった焼き魚と、大根の煮たのがまだある。冷や飯もあるから、茶漬けでもしようか。
湯を沸かす音と混じって、外から鳥の声がする。海辺からの風が庭までやんわりと届くのだろう。窓から入る潮の香りが心地よい。小さく聞こえる誰か里人の声も、穏やかで優しく思えた。散歩から帰ったギンコが、戻ったぞ、という声が聞こえる。
今日も島は、平和だった。
終
なんかまた、書いていく要素を増やしてしまったのですが、イサの方でも何かが動いて欲しかったので、ちょっと入れましたよ。ちょっとじゃないかもしれない? でも、だからと言って、流れか変わるわけではない筈なので、落ち着いて書こうと思います。
気になるのはタツミからイサへの伝言ですね。何が起こっているのだろうか…。
次のお話では、多分、セキに赤ちゃんが生まれていますよ。名前を付けるシーンまではちょっと届かないかもしれません。ではっ、また次回っっ。
2017/06/04