対 想 2
「先生、診て貰いに来ましたっ」
化野の家を訪れてセキはそう言った。そんな彼女を庇うように、後ろにはセイゴが居て、ふたりの子まで一緒に来ている。
「ひとりで平気、って言ったんですけど」
困ったように言いながら、セキは幸せそうだった。勿論セイゴも、子供たちも。化野は快く皆を迎え、奥の間まであがって貰って、診察するより先に、まずは話を聞くらしい。
それとは入れ違うように、ギンコは縁側から外へ出た。靴を履いて化野を振り向き、ちょっと出てくるよと伝えれば、何の疑問も不安も浮かべず、化野はただ、あぁ、と言った。ゆっくり坂を下りながら、ギンコは静かに自分の手首を見下ろす。
白い肌に、うっすらと、蝶。そうと分かって見なければ、それとわからないほどの。
渡守りとして島を出る前、ヌシに「挨拶」に行った時からそこにある印だった。島へ帰れば消えるものだと白也は確かに言ったのに、戻ってきて何日も過ぎた今も、まだ消えていない。どころか、時々皮膚の下で羽ばたくような気配さえさせる。
「ギンコさん、どうなさいました? わざわざこんなところまで来て下さって」
「ヌシ様に、会いにきた。今更だが、そういえば戻った挨拶なり、守護してくれた礼なりするべきなのかと」
「あ…。えぇ、それは、そうですね」
歯切れの悪い言い方に、ギンコが問う表情になる。白也は短い逡巡のあと、言葉を選ぶようにしてこう言ったのだ。
「あの…こんなことを言うと、変に思われるかもしれませんが…。貴方が渡守りに発つ前と、戻ってきた時とのことを目の当たりにして、なんだかギンコさんがまるで、ヌシ様そのものか、ヌシ様と同等の存在の様に思えてしまって。だから、ギンコさんがヌシ様に、ご挨拶にいらっしゃる必要は、ないものと思って」
ギンコは目を見開いて、一瞬強く息を吸い込んだ。そのまま少し大きな声でものを言いそうになって、それを押し留め、それでも少し上擦った声で言った。
「ヌシ様はヌシ様だろう。俺はただの島民だよ。しかも一番新参の」
「そう…。そう、ですよね。すみません、神官の私がこんなことを言ってしまって。では、ご案内します」
すみません、と詫びておきながら、白也はギンコのうしろを歩いた。たぶん無意識のことなのだろう。
石が敷き詰められたヌシの場所、その中央でギンコが足を止めると、待つほどもなく彼の手首から蝶が飛び立つ。一羽ではなく十数羽の蝶が、ひらひらと彼の周囲を舞い、そして平たい石の上に一羽ずつ舞い降り、そこに吸い込まれるように消えていった。
ギンコはヌシに礼を言うでもなく、石の上に膝をつくでもなく、ましてや頭を垂れることなどしなかった。淡々と蝶の姿を見て、全部が終わった後、白也を振り向いて尋ねた。
「これは、いつもと何も変わりが無いか…?」
「え?」
「白也が渡守りだった時や、その前やもっと前の渡守りの記録と、同じだったかい?」
「えぇ、そうですね、多分、何も」
戸惑いながらそう答えた白也の前で、ギンコは微かに項垂れ、押し殺すような長い溜息をついたのだ。
「…なら、いいんだ。島で、もしも何か異変が起こったら、その時はすぐに教えてくれ、神官殿」
そう言い置いて、ギンコは白也のすぐ横を擦り抜けるようにして彼と擦れ違う。その横顔が青ざめ、固く強張っているように見えて、白也はギンコを案じたが、声を掛けることは出来なかった。
異変? 異変、とは、いったい…?
いつの間にか、淡い靄が立ち込めている。濃淡の分かるようなむらのある霧が、そこから見える島の陸地の遠くを、ぼんやりと霞ませていた。
パラパラと、イサは手帳のページをめくっていた。書いてあることを読んでいるわけじゃない。ただ手が暇で、丁度手元にある手帳を弄っているだけだった。
「ナキ島、島のヌシ、タツミ爺、それから…俺ら」
はー…、と溜息をひとつ、深く長く吐いて、髪を片手でくしゃくしゃと混ぜてから、イサは今度は意識して、手帳の最初のページを開く。
そこに描いてある、薄れて消えかけのような、ひとりの男の姿を見た。鉛筆でさらさらと書いたような、ラフなデッサンみたいなものだったけど、その線の一本一本に、どれだけ気持ちが籠っているか、イサは知っている。
探して探して、そして出会えて、気持ちが通じて、一緒に生きていける場所が見つかって、ほんとに良かったって、嘘じゃなくて強がりでもなくて、ギンコの為にそう思うけど。もし…
「…ギンコのせいで、あの島が『崩壊』したら」
タツミの言ってたことが、イサの意識にずっと引っ掛かっている。だってイサはずっと前から、ギンコの中に別の蟲が居るのを知っていた。真っ黒い眼窩の奥と、そしてもうひとつ。ギンコの体も、命も、存在ごと、ずっとずっと支配している蟲がいるのだ。
刻の蝶。
あまり詳しいことは分らないけれど、刻の蝶は、ヌシじゃない。だけど、あんなちっぽけな島ひとつを総べるヌシよりも、刻の蝶の方がずっと力のある存在だと感じる。少なくとも二百年か、それ以上を生き続け、ギンコを不老不死の存在に変え、それだけじゃなく、きっと、別のことへも影響を及ぼしているのだ。
でなけりゃ、あんなことが、ずっと起こり続けるわけがない。あいつは死んでも、死んでも、死んでも、また同じ姿でこの世に…。
「あ…。何、考えてんだろ、俺」
ぱたん、と手帳を閉じて、イサは畳の床に立ち上った。必要最小限を詰めたバッグに、スマホを嫌々突っ込むと、閉じていた障子を開いて、廊下を行った奥の部屋に顔を出す。
「爺様、ちょっと俺、出掛けてくっから」
「…どこへじゃ?」
湯呑みを両手で包んで、大きな卓にひとりついていた小柄な老人が、短くそれだけを問い返した。
「ええっと…。どこ行きたいんだろ、わかんないや。とにかく、ちょっと行ってくるっ」
「………タツミに、よろしくな」
老人がそう言った頃は、イサは既に外だった。
香りのよい、けれど既に冷めている茶を、老人は静かに啜る。それからふと視線を上げると、窓辺にひとつだけ置かれた鉢植えを見た。鉢から溢れて、零れるように繁った薬草が、陽の光を浴びていた。
「今度は、どんな色かしら」
毎日毎日少しずつ、膨らんでくる腹を撫でながら、セキがそう言った。
「色も気になるけど、男の子かなぁ、女の子かなぁ」
「今度は弟がいいよっ」
「あたしは妹がいいなぁ」
セイゴが言い、子供たちはまだ答えの分かりようのないそれを当てようと、一つずつ交互に声を上げている。
「名前決めるのが、また大変だけどなぁ。今から色が分かればゆっくり考えるけど、生まれてからじゃないと、ヌシ様は『花』を見せて下さらないし」
「どんな色でも、男の子でも、女の子でもね。きっと幸せになれるよ。ずっとこの島で皆で暮らすんだもの。名前はみんなで考えましょうね」
夫の顔を、子どもたちの顔を眺め、それからセキはヌシの居場所の方を見た。
ヌシ様、
どうぞこれからも、
皆を見守って下さい。
私たち家族を、
島のみんなのことを。
眩しいくらいとてもいい天気だ。そのせいか、遠くが霞んでしまうくらいに、本当にいい天気だった。
続
やたらとシーンが飛ぶ話になってしまいました。それに、いろいろ進めたいことにちょっとずつ手を付けたので、大層わかりにくいかもしれません。先の先まで見据えて書くのって、苦手で(連載なんだから出来なきゃ困るのよぉぉぉぉ(>_<)。
でもなんとなく、イサが書けて楽しかったなぁ。報われない恋をしているイサ。なのにギンコの為に何でもしてやりたいと思っているイサ。先生も負けてちゃ駄目だよぉ、ってちょっと思う。でも彼も大変よね。出生は普通じゃないけど、一番普通のヒトなのかもしれない。そう考えると、充分頑張っているのよね。
誰が一番頑張っていて、そして報われないか、って、ギンコなんだろうけどね…。あぁ…。次も頑張って書くよ、ギンコ…。
2017/05/13