対 想 17
そう大きな街ではないのに、相変わらず駅構内は混んでいた。都市方面へと向かう路線が一本、ここで重なっているからだ。がやがやと煩いぐらいの人の声と、秩序薄く絡まるような人混みの様に、イサは小さく頷いた。
これぐらいがかえっていい。たかが七〜八人の自分たちを、誰も気にしないだろう。人々も駅員も、目を素通りさせることに慣れている。
「いい? 子供の手は離さないでいて。ご夫婦も、支える振りでいいから、互いに触れてて。目的の電車が来るまで待って乗り込んでしまうまでだから、常にお互いを気にしていて欲しいんだ。はぐれちまうのだけ、心配だからさ」
入って真っ直ぐ行くとトイレがある。そのトイレの手前にあるベンチと自販機のあたりにいるように、とみんなに指示しておいて、イサはひとり改札付近へと進んだ。カードなんて気の利いたものは持ってきてないから、人数分の切符を買ってしまわなければ。
何度も使った経過駅だけれど、間違えないように切符を購入し、皆へと指示した場所へ自分も行こうとした、その時だった。
「イサさん」
呼び止める声。聞き覚えのある、女の。振り向く前に誰なのか分かって、イサの血は、すうっ、と冷えた。
なんで? どうしてだ?
こんなところに何故今?
どうする? 逃げるか?
無視するか?
いいや、駄目だ。
「……なんであんた、今頃こんなとこにいるの」
「待ってたんです。あの場所に行くのならこの駅を使っているだろうし、此処なら離れていて、迷惑をかけないと思って。だから、時間がある時は私、ずっと此処で。…ひとこと、貴方に、お礼が言いたくて」
「…へぇ…」
だから女は嫌いだ。このままじゃ気が済まないからとか、そんな下らない自分本位の理由で、他者の邪魔をする。イクノ。ことさらこの女には、苛立ちを感じるのだ。こいつさえいなければ、とさえイサは思ってしまう。まるで逆恨みのように。
「別に礼なんか言われたくないけど。何、手短にしてくれる? こっちは急いでるんだよ」
「あ、ごめんなさい。でも、あの。本当に、ありがとうございました。イサさんには、私、背中を押して貰えたから、やっと前を向いて生きられるって。過去はもう忘れます。父や母や私が苦しかった時に、兄が傍に居てくれなかったことを、恨むのも、もうやめて、最初から兄なんかいなかった、って、そう思うことにするわ」
下らない。関係ない。
もうこれきりにしてくれ。
言葉にしてしまいそうな感情を捻じ伏せて、イサはひらひらと手を振った。さっさと居なくなってくれ。それを表すあからさまな態度にも、イクノはめげず、深く頭を下げてからやっと背中を向けてくれた。そうして彼女は、都心へと向かう電車のホームの方に向かい、人混みに紛れて視野から消えた。
イサは忌々しげに舌打ちをして、そうして踵を返し、その瞬間に今度は身体ごと凍ったのだ。ぶち当たりそうなほど間近に、化野が立って居たのである。
「…ッ…!」
「子供たちが喉が乾いたって言うんだが。きっと緊張からだ。自販機で、甘いジュースか何か買っ……。イサ? ど、どうしたんだ? 真っ青だぞ」
「……あんた、いつから、其処に…?」
「いつ、って? あぁ、なんだか人と話しているようだったから、今の今までこの柱の後ろに居たが。邪魔しちゃいけないかと思って。何か、深刻な話だったのか? そんな、気分が悪くなるほどの…?」
詰めていた息を細く吐いて、イサは化野の顔を見た。普通の顔だ。いつも通り。ただ、喉が乾いたという子供の秘めた精神状態を、案じているだろうだけの。
喉が乾いたって?
こっちだってだよ。
あぁ、
まるで焼け付くようだ。
どくん、どくんとイサの胸で心臓が暴れている。聞かない方がいいのだろう、聞くだけでリスクは跳ね上がるだろう。それが分かっていてそれでも、確かめずには居られなかった。
「あんたさ。俺と話してた相手の顔、見た?」
「え? いや、あんまり…。まぁ。若い女性だった、とか、髪を結んでて…。そう、なんとなく、看護士とか、そういう仕事をしてる女性かな、と、立ち居ぶるまいが…。ただ、そのぐらいで」
「………」
随分きっちり見てんじゃねぇか。
なのに思い出さないのか。
血をわけた自分の妹なのに?
記憶喪失、なんてのは、
そういうもんか、そういう…。
座り込んでしまいそうなほど安堵して、柱に肩で寄り掛かり、イサは項垂れた。
その耳に、列車が出発する時の音が響く。正確にはドアが閉じる時のメロディが。そして数秒後には、電車の走り去るやや遠い音と振動。振り向いて表示を見れば、都心行きの電車がまさに今、この駅を出ていったのだ、とわかった。
「化野、今のさ…あんたの、」
妹
「だよ」
そこだけ息の声で、イサは言った。聞こえないと思ったのに、化野は目を見開いた。イサにも自分が何故、その事実を言ったのか分からない。本当に想い出していないかを試したのか、寧ろ己の運命を試したのか。いや、違う。
化野の覚悟を、試した、のだ
「あんたの血を分けた、今じゃあ唯一の肉親。…あんた記憶を失くしてるだろ? だから、失くした記憶の、中の」
イサは微動だにしない化野の顔を眺めていた。その体を辿るように、彼の視線は下へ。首を通り、胸を通り、地面についている足へと。化野の体は、動かなかった。追い駆けようともしていない。
「…ほら」
「え?」
「飲み物代。子供二人でジュース一本でいいだろ? 俺にはブラックの缶コーヒーを買っといて。あと他のみんなも何か飲みたいんだったら、買っていいからさ。それからこっち、全員分の切符。悪いけど、改札の通り方も、皆にレクチャーしといて」
そう告げれば、化野は大事そうに切符を受け取り、すぐに背中を向けて、みんなの待つ方へと戻っていく。その迷いの見えない背を見て、イサは臓腑から細く息を吐いた。まだ少し体が震えていて、顔色も多分良くないから、ほんのちょっと、此処で落ち着いてから戻るべきだろうと、ベンチに座る。
やがて時間が来て、彼は皆と合流し、問題なく全員が目的のローカル線に乗ったあと。空いている車内で、座らずに吊革につかまったままの化野が、ひとつ離れて立つイサにこう言ったのだ。
「……ギンコに出会う前の過去は、俺には…要らないんだよ、何一つ」
「は、ちゃんと分かってんじゃん」
カタタン、コトン。
「…早く」
けれど、列車の音の響く中、化野の声は震えていたのではないだろうか。吊革に掴まった手首に、額を付けて、彼はじっと目を閉じている。
「早く、会いたいよ…ギンコに…」
カタタン、コトトン。
妙に軽い音を立てて、電車は進む。折り返し運転のこの車両は、化野を含む彼らにとって、片道だけの電車。そして、生涯二度と乗らないだろう電車であった。
「綺麗だね」
道無き道を行く途中、一人が顔を上げてそう言った。そのすぐ後ろにいる一人も、足場の悪さに文句を言わず、目を細めて嬉しげに言う。
「あぁ、ほんとうだ。俺らを導いてくれてるんだよな」
色とりどりの沢山の蝶たちが、ひらひらと、美しい翅を翻して、薄暗い山中に灯す灯かりのように、標のように。それは山へ入ってからずっとだった。だから皆は少しの不安もなく、一歩一歩を踏み締めて進んでいく。
転んで怪我をしたものがいた。息が上がって苦しいものもいた。けれど不平にも不満にもならない。ヌシ様が見ていてくれるから、みっともないところなんか、見せたくない。
「ねぇ、あの一番先頭を行く蝶」
「うん? あぁ」
「なんて美しいんだろ。真っ白くて、ほんの少し青白い光を纏っていてさ。呼吸するみたいに、時々ゆっくり浅い緑に…」
「白也のじゃねぇか、白いし」
きっとそうだな、と頷き合う面々に、白也は違うなどと言いはしなかったが、彼自身酷く見惚れていた。あまりにも、この世のものとも思えないような美しさに。
若いものと同じほど、いや、それよりも歩き達者なぐらいに進んでいた爺様が、木の枝に手を添えて、先をじいっと見据えていた。
「おぉ、早い早い、もう着いたようじゃぞ」
爺様はそう言って、草と木々に塞がれて見えるその先を指差す。皆が目を凝らすと、まるで保護色のように風景に埋もれた建物がなんとか見える。まるで異空間でも抜けてきたように、予想よりもずっと早くて、皆は嬉しげに声を上げた。
「あぁ、あそこが私たちの…!」
「これから、暮らす土地」
「やっと…! ヌシ様、ありがとうございます」
その声を合図にしたように、蝶たちはすうっ、と溶けるように姿を消していった。
続
化野が…思ったより意思強くなくて、お前……って正直なってますが、それもこれも私のお話の流れの作り方が甘かったのかだ、と反省しており。しかし願っていた通り強くあってくれなかったのだから「あぁ、そうか、そうなんだね」としか思いようがなく。色々不安ですっっ。バックヤードでギンコさんにお詫びしておきますっっっ。
「……いいさ、慣れてるよ…」
てな感じに、痛みを抱えた顔で言ってくれそうで、申し訳なさマックス。でもな、それでもな、彼はあなただけのものだよ、それがこの世界の核であり、真実だよ。
などと言いながら、17話のお届けですっ。
18.04.30