対 想   16




「……随分経ったな」

 運転手がハンドルを軽く叩きながらそう言った。車が動かなくなって、既に一時間。空はもうかなり明るい。視野の遠くまでずっと並んでいる車の遠く、ちらちらと赤い灯かりが揺らめくのは、事故処理車と救急車、だろうか。

 イサやギンコの座席のいくつか後ろから、前方をずっと見ていた化野が、気になって仕方ないと言ったように、立ち上がって前へと出てきた。

「救急が動かない。もしかしたら、安易には動かせないような怪我人がいたりるのかもしれないよ。大丈夫だろうか」

 化野の言葉に、ギンコがゆっくりと顔を上げた。何か言いたげに唇が震えて、結局は何も言えない。イサが変わりに化野の肩を掴み、元の席の方へと戻らせようとしながら、短く言った。

「そんなこと、考えたって意味ないよ」
「え。でも」

 でも、と化野は言うのだ。続くのだろう言葉は、聞かずとも分かる。医者の手がもしも足りないなら。俺で役に立つのなら。そういうつもりなのだろう口を、眼差しだけでイサは止めさせた。

「意味ないよ、先生。あんたはあの島の医者だった。そうして今だって、此処に居る全員にとっての医者だ。それ以外のものにはなれないし、ならせないから」
「…イサ。だが」

 でももだがもない、さらに言葉を重ねようとしたイサの体が、ゆら。と揺れた。化野の体も揺れて、彼は座席に尻を落とした。バスが動いたのだ。事故処理の作業員が前の方から、路肩を走って近付いてきて、一台一台の車に簡単な説明をしていく。車上のメガホンからも聞こえる割れた声。今回の事故で怪我人は居ないこと、事故処理は終わったことなどを告げていた。

「よし、流れが速いぞ! 少しでも後れを取り戻したいな」

 運転席の男はそう言った。焦る様に進んでいく沢山の車の、その流れに混じってスピードを上げる。イサは化野の前に立って、彼を静かに見下ろしながら人差し指を立ててると、その指で化野の胸をぐい、と刺した。

「…分かってないようだから、あとでよく教えてやるよ。先にこれだけは言っとくけど、あんた自身の正義に照らして、身勝手な行動をしたら、此処に居る全員を危険に晒す」

 極小さな声でそれだけを告げると、イサは前の席へと戻った。ギンコは項垂れていたが、震える声がイサに詫びを言ったようだった。

 イサは時計の差す時刻を凝視する。地図を開いて、少しでも早く移動できる経路を考え直そうとする。でも今走っている道がどう考えても最良だ。事故のせいで一時間を越えたロスが発生し、予定を取り戻すのはもう不可能だ。

 電車の始発よりかなり前に着きたかった駅に、実際に付くのは、丁度始発に重なる時間。あえてもう少しゆっくり進んで、始発と次の電車の間を狙うとしても、駅付近には人がいる可能性が高い。こうなると、田舎で人が少ないのは帰って災いだ。人混みがあるのなら、数十人がそこに混じっても、殆ど目立たないだろうが…。

「…くそ……」

 思わず零れたイサの悪態を聞きながら、広げたままの地図の上にギンコが視線を落した。

「この山、全体がタツミの土地なんだろう…?」
「そうだよ、今は名義が俺だけど」
「なら、この中ならば『ヌシ』の力が及ぶと考えられないか。新しい『ヌシ』の影響力がどれほどか分からないが、ここ」

 ギンコの指が山を囲う線を、じりじりとなぞって行く。

「この線の内側は『ヌシ』の土地だろう。…民は守られるんじゃ…?」
「そう…だな。あぁでもっ、未開拓の山だぜ? 館と温室の周り以外、タツミは手を付けていなかった筈だ。赤ん坊も子供もいる、年寄りだっているし、幾らなんでも危険…」

 ギンコが今度は視線を上げて、間近からイサの目を覗き込む。

「どちらの『危険』を選ぶかだ。ただ、俺なら…」
「……そうだな。分ければいい」

 ほんの数秒の逡巡のあと、イサは席から腰を浮かせて、後ろへと声を掛けた。

「爺さま、それから白也。此処へ来てくれ。相談がある」

 イサとギンコと爺様と、そして白也。四人で額を突き合わせるように、小声で話しあったのは、まず「どう其処へ辿り着くか」と言う事。ギンコの案を選ぶにしても、全員で未開拓の山中を行くのは難しい。誰なら山を行けるか、行けないかを話し合った。

「まず、セキさんと子供たちは無理でしょう? あと、最年長の二人にも、多分きついですよね。旦那さんは少し脚が悪いし」
「赤ん坊と母親と、あと女の子二人か。ならセイゴさんもこっちへ入れたらいいね。一家族一緒のが見られても違和感がない。それからあっちの老夫婦か。足して七人。あと、案内には俺が行こうと思うから」

 イサは爺様へと聞いた。

「爺様、山行きの先導を、ギンコと。任せていい?」

 爺様はにいやりと笑って答えた。

「山も歩けん年寄りへ混ぜられたら、しばらくお前さんとは口を聞かんことにしようかと思っとった。任せろ、イサ。まだまだ現役じゃで」

 つられて笑ったイサの眼差しが、その後瞬時に深くなる。イサは二つほど後ろの席に居るまま、こちらの様子を心配そうに窺っている化野と目を合わせた。

「先生、あんたも、こっち側だ。赤ん坊と年寄りがいるから、念の為医者が来てくれた方がいい」

 道の無い山を行く一行に、怪我人の出る可能性だって低くは無い。本当ならどちらにも医者がいて欲しかったけれど、山に行く方にはギンコも爺様もいる。怪我の手当くらいならば出来る筈だし、それに、イサが化野を自分の居る側に付けたのは、別の意味があった。

 新しいヌシの土地に入る前に、言い渡すこと。分からせておかねばならない事。

「あんたに選択権はないけどさ。いいね?」

 話の全部は聞こえていないが、化野には頷くことしか出来なかった。

 そしてバスは予定の経路を大きく変える。タツミの館のある側とは逆の、山の裏側へと一旦回り込み。路線バスやJRも近くを通らない、人家の一つも近くには無い、山と山の間の車道でバスは停まった。

 其処へ来るまでの間に、イサは全員に話をしていた。

 さっきの事故で時間を随分無駄にしてしまった。だから目立たずに全員で動くのは不可能になった。

 あなたたちの新しい土地、けして人に見つかってはならない土地を、危険に晒さないためにも、みんなをもう一度二つに分ける。若いもの、体の元気なものは、そこから未開拓の山を歩いて貰う。赤ん坊のいる一家と、一番年のいったご夫婦だけは、山は無理だから別の道を行く。

 勿論、目的地はひとつだ。ひとりも欠けず、何の危険にも合わずに、無事に全員が辿り着けるよう、新しいヌシ様に祈ってくれ。

 不思議な程、誰も騒ぎはしなかった。あるものは仲間と視線を交わし、そうでないものは目を閉じて、祈っていた。



 
 
「じゃあ、な、化野」
「ギ、ギンコ…」
「なんて顔してんだよ、離れないって誓ってくれたろ?」

 どちらからともなく、二人は手を重ねて、そのまま手のひらを滑らせると、互いの手首を強く握り合った。それを見て、山を行く面々のそれぞれが、ここでいったん分かれる仲間の肩を叩き、背を撫でて、数時間後の再会を心で誓い合う。全員の想いが、直に心に響くようだった。

 ヌシ様、どうか、どうか。
 私たちを、お守りください。

 そしてバスは、セキたち一家と老夫婦と、イサと化野だけをのせて再び走り出す。向かっているのは香谷町という小さな町だ。小さいわりに人口のやや多い町。ほどほどに人が多く、ほどほどに人が少なく、それ故、駅に見知らぬ人間が紛れても目立たない。寧ろ紛れ込みやすい。そしてその路線の終点が、目的の土地のある駅である。

「セキさん、あと三十分もしたら、このバスは降りてしまうから、お乳は上げておいて貰えると助かるけど」
「あ、はい。分りました。上の子たちも、ちょっと前まで良く寝てたので、大丈夫。いい? ユキ、クミ。お父さんの手をしっかり握って、離れないのよ!」 
 
 イサが視線を老夫婦へやると、二人も手をしっかりと取り合って、覚悟を決めているようだった。セキたち一家は、今まで島の外へ出たことが無かった。だから初めて見るものへ、心を揺らさないようにする覚悟がいる。この老夫婦は、数十年前まで「こちら」に居たから、戻ろうと思えば戻れるなどと、思わないようにする覚悟がいる。

 家族と夫婦をバスの後ろの席に集めて、一番前の席にはイサと、そして化野が、通路を挟んで、左右に。イサは一つ息を吐くと、低い声で静かに、化野の名を呼んだ。
 
「黙って聞いてて。質問は受け付けない。これは決まったことで、何一つ変えようがないからだ。

 化野、あんたは、島から新しい土地へと移っていく彼ら全員にとっての、唯一の医者だ。彼らのことだけしか考えてはいけない。それ以外のことは、考えたって無駄だし意味はない。あんたは『外』の人間を救えない。『外』へは出られない。そして『中』の人間を救うために『外』へ出ることも許されない。島に居た短い間。大きな病気や大怪我をしたものが居なかったようだから、ぴんと来ないかもしれないけどね。

 例えば、後ろに居る老夫婦のどちらかが、大病を患ったとするよね? だからって彼らの土地から『外』へと連れ出して、最先端の治療をしてやるのは不可能だ。赤ん坊が急に意識混濁になったとするよね? 医療ヘリを呼んで『中』へ来てもらう? それも出来ないよ。

 此処まで言えば分かるだろう? 今の医療を知っているあんたの考えだったら、どれもこれも救えるだろう命を、諦める覚悟が、あんたには必要なんだよ」

 化野はイサの言葉を、ただ、じっと聞いていた。何も言わなかったのは、喉が引き連れて声が出なかったからだ。それも分っていて、イサは哀れむように笑った。

「その時に、辛いだろうことは察する。…よかったね、化野。ギンコは不老不死だから、あいつだけはあんたの前で死ぬことは無いよ。でもギンコは可哀想だ。現代医療の届かない閉じた土地で、あんたがもしも死に掛けたら…」
「…っ、ぅ…」

 化野が一度きり、小さな嗚咽を零した。イサは聞かないふりをした。そして一つだけ、イサは彼には伝えなかった。


 もしも。
 もしも化野がギンコの前で死に掛けたら。
 俺は、いったいどうするだろう。
 たった今、化野に言い渡した禁忌を、
 自ら破るのだろうか。
 誰を、何を犠牲にしても。
 例え地獄に、落ちるのだとしても。


 山間の車道の横に、いつの間にか単線の線路が寄り添う。擦れ違った錆色の電車が、ガタンゴトトンと乱れた音を連れて、遠ざかって行った。




続 












 一ヵ月以上の間を空けまして、大変反省するところであります。事故による渋滞、のまんまでどんだけ皆を待たせるの、っていう。そして再会したと思ったら、また過酷っっっ。でもほら、ヌシ様がきっとお守りくださるから…っ。

 そして今回はまたまた、化野を苛めてしまいました。でも分かって欲しいんですよ。島暮らしじゃなくなっても変わらないのだと言う事。現代医療を諦める、と言う事。イサも言っていましたが、辛いでしょうね、本当に。

 だけれど化野が揺らぐことで、人々も揺らぐのです。もしかして助かるの? 死にたくない、死なせたくない、って思ってもいいの? そんなふう、叶うはずの無い希望を持たせないことも、ここで医療を行う化野の務めなのでした。次回は多分、化野の覚悟が分かる回!

 頑張りますっ。



2018.03.18