対 想   14




「行ってしまったな」
「…えぇ」

 遠ざかる舟の姿を、見えなくなるまで見送って。そして人々は自分たちの島の姿を振り向く。これまで通り、何ひとつ変わらない島の形。島の空気。残る側だったことを、心から幸せだと思っているけれど、不安の一つもないわけじゃない。

「これから、私たち、どうやって…」

 誰かがそう言った言葉に被せるように、カズアキは言ったのだ。

「まず何をしなければならないか、皆で考えてみましょう。残された畑のこと、漁の舟のことも。あぁ、そうだ。皆さんが残して行ってくれた食べ物がどれだけ、何があるのかはすぐにも見ておかないと、無駄にしてしまいますよね」

 彼の提案はもっともだった。ヌシ様がすべてをなんとかしてくださる、と、安堵していても大丈夫なのかもしれなかったが、今ある食べ物や、今まで育てていた作物、わずかだが生簀に泳がせている魚などを、放って置くなど有り得ないことだろう。

 カズアキがそのまま中心となり、それへタダハルが補助する形で、様々なことが決められていく。皆もすぐにも顔を上げ、それぞれで意見を出し合った。頭を使うのが苦手な数人は、その分力仕事が得意だったり、家の中の仕事が手早かったりして、あぶれるものなど一人もいない。

「すげぇなぁ」
「んん? 何がだい?」
「考えてみたら、みんなの体を診てくれる医者も、頭使ってくれる先生もいるじゃねぇか、畑仕事が上手いヤツ、漁が出来るヤツ、家の簡単な修繕くらいならなんだってってヤツも」

 作業の手を止めずに、そんなことを話しているものがいる。

「あぁ、ほんとだね。こうして見ると、心配なんかいらないやねぇ」
「そうだよ、俺らは大丈夫さぁ」

 そんな彼らが立ち働くのを、静かに歩きながらタツミは眺めている。数十年ぶりの島の姿を、ひとつひとつ思い出すように。爺さんは休んでなよと言われ、それなら、と、そんな気になった。

 彼は歩いている。島の土を踏みながら。その頭上では空が、ゆっくりと姿を変えて行った。青から、ごく浅い青紫へ。まだ夕には早い。これは夕焼けの色ではない。勿論朝焼けでもない。こんなに明るいのに、さっきまで空に見えていた筈の太陽が、どこにも見えなかった。

 そうか。
 もうここは「異なる世界」か。
 あちらへはけして行けない、
 けして戻れない。
 そして誰も来られない、
 切り離された空間。

 風もある、海を見れば波もある。太陽が空になくとも、作物は燦々と光を浴びていた。不思議な気持ちだったが、怖いとは思わなかった。

「タツミ兄様」

 高台まで来た頃、後ろから誰かが追ってきたことに気付いていた。名を、あまりにも懐かしい呼び方で呼ばれ、振り向くと、しゃんと背筋を伸ばしてそこに立つ、美しい女が居た。老いても、変わらず美しいと、タツミは思う。

「タツミでいい。兄様、なんぞ今更妙な感じがするでな」
「でも、それこそ呼び慣れない」
「慣れろ。この先、気の遠くなるほど、ずっと共に過ごすんじゃからな」

「兄様に、また会えるとは思わなかった」

 タツミの言葉など、聞こえていなかったように、ミツは話した。遠い過去のこと、それから今までに、この島であったこと。嬉しかったこと、哀しかったこと、幸せだったこと、辛いこと。長い話だった。タツミは島を見下ろしながら、その言葉を聞いていた。

 聞いていて、その話が終わったら、自分の今までも少し話して聞かそうかと思っていた。けれどもそれは出来そうもなかった。おぼろぼんやり、タツミは気付いたのだ。

 消えていく。
 あぁ、消えていくのだ。
 島の外の、記憶が。
 頭の中から、心の中から。

 多分、島に今残っている誰もがそうなのだろうと想像出来た。島を出たことのないものも同じだ、今まで見聞きしてきて、知識として得た外の世界のことも、すべて忘れていく。島が全てになる。他の場所など、この世の何処にも無いのだと。

「ミツ」
「え? 何、兄様」
「…此処に帰って来られて、良かったよ」

 ミツは目を見開いて、少女のように小首を傾げる。

「帰って…?」
「いいや、何でもない。いいんじゃ」

 愛しい女の記憶からさえ、消えてしまう運命からは逃れられた。そしてこれからはずっと、共に。タツミは出来る限り遠くを見て、その方向へと小さな声で呟く。

 ありがとう、ハタリ、イサ。
 そしてギンコ。お前にも、
 ちゃんと礼を言いたかったよ。

 呟きを終えた途端に、その想いすら、灰のように脆く崩れて、消えた。
 



 漁船の船長は、底抜けに陽気で気さくな男だった。見るからに不審な人々の群へ、奇異の視線ひとつ向けることなく、朗らかに話し掛けてくる。

「あんたらが何処の誰かとか、俺ぁどうでもいいんだ。人助けが出来て報酬も貰えて、嬉しいことしかねぇよ。それにな。あんたら全員、蟲のこと分ってるって聞いた。実は俺ぁ見えてんだ。でも誰にも言えねぇで来たもんだからさ。今日まで生きて来て、こんな気の楽なことはねえや」

 彼は前々からイサとは懇意であるらしい。船の中には大小のコンテナが幾つか。中身は古着と食べ物だ。男女に分かれてそれらを受け取り、本土を歩いても目立たない洋服に着替え、腹の空いているものは腹ごしらえをする。

 漁船は漁小島から離れ、本土の影も見えない場所に暫し停留した。そのまま夜を待ち、深夜、今では使われていない漁港に、こっそりと入港する。そこは寂れた田舎で、民家すら遠く離れて人の気配ひとつなかったが、よくよく目を凝らすと、バスが一台停まっている。そのバスは、灯かりを付けないまま、静かに彼らへと近付いてきた。

 彼らは漁船を下り、名残り惜しむ船長とはそこで別れて、今度は車中の人となるのだ。

「…でっかい船にクルマに、見たことないものばかりだよ」
「そうよね、ほんとに。さっきの食べ物とか、私びっくりしちゃって」

 子供たちが騒がないように、漁船の上で一生懸命言い含めていたセイゴとセキだったが、自分たちだって実は騒ぎたい程驚いていた。それへイサが、そんな大したもんでもないよ、と淡々とした声で言っている。

「さぁ、乗って。潰れたバス会社で放置されてた元路線バスを、安く借りて動かしてるんだ。広さは充分だけど、万が一途中で動かなくなったら大変なんでね。夜が明ける前には目的地へ着いていなくちゃ」

 全員が聞き分けよく、騒がずバスに乗り込む。薄汚れた座席に一人残らず座ると、それはまるで奇妙な深夜のツアーのようだ。赤ん坊を除けば、皆一睡もしていないが、イサとしてみたら、正直眠っていて欲しいところだった。

 漁船で食べたコンビニの弁当や菓子パンも、ペットボトルの飲み物も、これから移動する間に見る者の殆どが、彼らには縁の薄いものであり続ける。そうでなくてはならない。

 島とは違う外の世界のことを、何も見ない、何も知らない。思い出さない。彼らには本当はその方がいいのだ。『外』の世界で生きてみたいなんて、もしも憧れられられたりしたら、きっといつか均衡が崩れてしまうから。

 座りもせず、そうやって気を張って周囲へ目を配らせている彼へと、誰かの声が掛かる。

「イサ」

 前の座席に座っていた爺様が、イサの腕を掴んで、無理にでもあいている座席に座らせた。

「一時間でいいから、寝とけ。お前さん、何日もろくに寝てないだろう。そろそろ高速に乗るし、そう心配せんでも何も起こらんよ。代わりに儂とギンコと、あとそっちの医者の先生で皆のことを見ておくからの」
「けど」
「いいから」

 重ねて言われて、イサは座らされた座席から窓辺の方へと体をずらし、ちらりとギンコの方を見た。

「じゃあ、ここ、ギンコが座ってくれる? 誰かが隣居た方が、安心して寝られそうだから」
「わかった」

 そうして隣へ来たギンコに、イサは真上を指差して見せた。真っ暗な車内、時折外の明かりが入り込んで、一瞬明るくなるだけの。けれど、イサの指差した場所に何があるのか、ギンコには分かった。

「今更だけど、悪かったよ。あんまり強引なことしたから、お前の大事なもの、置いて行かせちまったよな。その上、今日まで渡しそびれてた」

 それは島へ荷を運ぶための舟に、置き去りになってしまったギンコのバッグだった。正直ギンコは忘れていた。そのバッグのことも、中に入っているもののことも。

「見たのか」
「悪い」
「いいさ、別に。お前に隠してることなんか、そうはない」

 網棚からそれを下ろして、膝の上に置き、ファスナーを開くと、中に入っているのは小さな手帳。ぱらぱらと捲って迷いなく開くのは、鉛筆書きの絵のあるページ。

「…懐かしい。随分久し振りに見た気がするよ」

 ギンコはそれを大事そうに胸ポケットへ入れて、黙って前を向いていた。イサはやがて浅い眠りに落ちる寸前、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、ギンコにだけ話し掛ける。

「目的地はお前もよく知っている場所だよ、ギンコ。分かってたかい?」
「…だと思っていた。いいから、イサ、もう眠れ」













 
移動が大変、ですよね。島から其処へと、虚穴でも通じていればよかったのに、とかとか。いや、隔絶されていてこそだったから、そんなわけにもいかないか。ともあれ、行くべき場所に、順調に向かっている皆なので、イサもギンコや爺様がいう通り、今のうちに眠っておくとよいのです。

 でも心配事があるから、なかなか眠る気になれなかったんだと思います。彼には、連れて来た島人を居るべき場所に収める、っていう大役があるけど、それ以外にも…ねっ。

 次回はきっと「その場所」に辿り着けると思うので、惑は書くのが難しくも楽しみなのでした。ががが、頑張りますっ。



18.01.27