対 想   13




 まだ、夜明け前である。浜では誰もが、言葉少なであった。

 砂浜に寄せられた小舟は三つ。元々島にある大小二つと、イサ達が今回のってきた、更に大きめのものが一つ。それぞれに、ぎりぎり乗れる人数を考えてみたが、一度ではどうしても無理だった。

「…皆、もうお別れは済ませたね」

 島に、そして島に残る家族や友人に。

 無言で頷く人々は、どこか淋しげに笑んでいた。見送る人々の顔は、ひとりひとり、いっそ清々しいほどで、その対比がイサの目に映っている。宴の中できっと、それぞれが短い言葉を交わしたろう。ヌシに気兼ねして、ぎりぎりまで言えなかった言葉、言葉。

 元気でね。 
 どうか幸せに。
 ありがとう。

 …さよなら。

 サナミは島を離れる人々の姿を見つめながら、隣に居るタダハルの手をとって、強く握っていた。そんな二人のすぐ後ろで、カズアキは凪のような微笑みを浮かべている。

 彼は夕べ、タツミと少し話をした。この島で、昔何があったのかを、ほんの少し。



 こんな老いぼれが言うても、だがなぁ。
 してはならない恋をしていたのさ、人生をかけて。
 儂の恋は、愛しい相手の傍から離れる恋じゃったよ。 
 離れることで、ようやっと心を押し殺しておける。
 そうして、遠くから守れればいい、とな。

 それ以上詳しくは語られなかったが、恐らくそれは、実の妹を愛した禁忌。血を分けた彼の妹は、あまりにも無邪気まま、周りに居るすべての男たちの心を掻き乱した。そんな彼女を、それらの男たちの居る場所から切り離し、この島に逃がさねばならないほど。

 そうしなければ、きっと、何人もが血を流しただろう。

 タツミは遠くを見る目をして、そっと笑った。何十年もの時が過ぎ、この島で再会した、愛しい相手の声を、姿を、静かに静かに受け止めながら、確かに幸福そうに笑っていた。年月が自分に、こうして穏やかに笑っていられる今をくれたのだと。 
 
 恋とは難儀なものじゃな…。
 お前さんのは、そんな儂の生き方よりも、
 ずっと、苦しいかも知れんぞ。

 ほんの短い時間で、そうやって言い当てられてしまっても、カズアキの心は澄んでいた。そういえば、いつぞや、化野にも"思われ"た。彼女と自分とが、似合いだ、と。本当にそうなら素直に嬉しい。けして結ばれない相手でも、彼女を本当に好きだから。

 好きな相手が、幸せでいるのを、
 こんなに近くで見ていられる。
 それでいい、それで私は幸せだ。



「さあ、指示の通りに舟に乗って。まずはその小さい舟には、セキさんの一家五人だ。赤ん坊を抱いたセキさんを真ん中にしてね。あと…二人乗れるから、そうだなぁ、ギンコと化野も、同じ舟だ。何もしないでいいと思うけど、一応、ギンコには船頭役を」

 セキ達が乗ったあと、何も言わずにギンコ達がその舟に乗る。舳の方へ、そこへ二人は並んで身を寄せ合った。

「それから真ん中の舟は、俺が船頭をやる。他に乗るのは、そっちの…」

 テキパキと、あえて事務的にイサは指示を飛ばしている。誰もまごつくものはいない。手荷物の一つも持たず、みんな身軽で、空いている手では共に行くものの手を握り、肩を触れ合せ。

「最後の舟の船頭役はじい様。舟が大きいからって、無理に乗ろうとしないで。残った白也と、あと四人は申し訳ないけど、一番先に行った、この舟が一往復して戻ってくるのを待っていて欲しいんだ。いいね」

 ここにいる殆ど全員が、島で生きてきた島人である。舟に乗るのも慣れているし、乗り過ぎるとロクなことにならないのも分かっている。イサの指図は適切で、だから誰も口を挟まない。

 最初の小舟に乗ったギンコが、小声で化野に言った。

「お前は昔、ずっと海里に住んでたんだぜ? 漁師の手伝いを面白がって、時々こんな舟にも乗ってた。覚えちゃいないだろし、まだ思い出せてもいないみたいだけどな」
  
 すると化野は、潮の香りをいっぱいに吸い込んで、ギンコの耳に耳打ちした。

「記憶として思い出せてはないけど、体はとうに思い出してるよ。この島に居る間、時々は潮の香りで、その日の天気まで分かったんだ。俺にとっては、懐かしくて、とても貴重な体験だった」

 ここに来れてよかったよ。と、囁く声が、しんみりと。

 でもここは、
 お前の大切な『箱庭』だったのに。
 こうして失うのは、
 哀しいだろう、辛いだろうな。

 言葉にしないそんな想いを、分かっているようにギンコは化野の肩に額をのせた。

 お前が居るなら、
 この世の何処でもが、
 俺の居場所だよ。

 その時、ざあっ、と、音すら立つように風が吹いた。舟の上の全員が、ゆっくりと盛り上がる沖の波を見て、そして島の姿を振り向いた。明け前の暗い空と、真っ白な霧に覆われ、殆ど見えない島の形を、彼らは心の奥で思い出して、愛しげになぞる。

 あぁ、波が来る。
 この波は、わたしたちを島から離す波。
 この波は、島人を私たちから離す波。

 島に残る人々が、自然と少し下がったその時、だった。

「うっ、うわぁぁっ」
「…な、波が…ッ、ごぼっ」
「あ、ぁあ…っ、みんな、手を…ッ」

 叫んだのは、五人。舟に乗れず、一時だけ残って迎えを待つはずの彼らは、あっという間に波に飲まれ、さらわれた。そして島から引き離され…。舟の上の人々は、それを見て青ざめ悲鳴を上げ、波間に見えた手や顔に向けて、舟の上から手を差し伸べた。

 あぁ、遠い。 
 とても届かない。

 誰もがそう思った途端、引き波がもう一度、どこからか湧き上がって五人の体を巻き乗せて、一番大きな舟へと近寄せたのである。五人それぞれ、舟の上の誰かの手に届いた。二番目の舟に乗っていたイサは、波に負けない大声で、新しい指図を飛ばす。

「全員その大舟に乗せたらダメだっ。二人こっちにっ。白也とっ、その隣っ、青い着物のっっ」

 まるでそれを聞いていたように、また波がひとつ寄せて来て、二人をふわりと巻いて、イサの居る舟へと。

「び、び…っくり、させんなよなっ、もうっ」 

 最初以上にぎゅうぎゅうになった舟の上、へたり込むことも出来ずにイサは、天を仰いでいたが、全員どうやら無事と見るなり、何処へともなく文句を言った。

「いっぺんに行けって言うんなら、最初から言っといてよ…っ。そんで、過剰積載でも、ちゃん向こうまで守ってくれよッ」

 波に飲まれて引き上げられた五人は、全身ずぶ濡れになって、介抱されながら暫し呆然としていたが、その中の一人が、言ったのだ。

「…蝶が、見えたぞ。波の中に、波の上にもっ。俺らまだちゃんと、守られてんだ…!」

 白也も言った。

「俺も…見ました。確かに俺の白い蝶だった。今も感じますよ。きっと、此処に居る全員分来ているんだと思います」 

「…あぁ…見て…!」
「わ、ぁ…」
「ほんとうだ、凄い…」

 まるで、白也のその言葉を合図にしたように、それは見えてきたのだった。三隻の舟それぞれを覆うように、色とりどりの蝶たちが、暗い空の下を、きらきらと光を放ちながら羽ばたいている。蟲の見えないものにも、それはうっすらと見えており、化野も首が痛くなるほど上を向いていた。

 島からは離れてきたけれど、
 私たちは、これからもヌシ様の民。
 例え、何処へ導かれようとも、
 それは永劫に、変わらないんだ。

「凄いな、ギンコ。お前の蝶がどれだか、俺には分る気がするよ。一番綺麗で、一番…力強く飛んでいる」

 そして俺の蝶は、それを追い駆けるように飛んでいるんだ。翅が破れて、手足がもげて、この体がバラバラになって、例えこの世から消えたとしても、魂だけでずっとお前を追い駆けていくんだろう。それが俺の、此処に居る意味。

「どうしような、ギンコ。今すぐお前を抱きたいよ」

 耳打ちされた言葉に、じろり、とギンコは化野を睨んだ。

「舟とか汽車とか、乗り物の上でってのが趣味なのか? まだまだこの先も傍に居るんだから、今は我慢しろ、馬鹿」

 聞こえたらしく、すぐ横に居たセイゴが、困ったように真下を向いた。子供に聞こえなくて、せめてもだったのかもしれない。

 三隻の舟の勢いは、物凄いものだった。ナキ島から遠ざかり、本土との間に在る、小さな島、漁小島がやがて見えてくる。いつもの岩場の方に舟は自然と辿り着き、やっと明け掛けた薄明りの中、ランプを掲げて待つ人影がひとつ。

 それはたった一人、イサが事情を話した協力者だった。蟲が見えることを、周囲に隠している人物。

「いよぉっ、団体さん達、ようこそ、漁小島へ。俺の漁船の今日の釣果はあんたがただ。大がかりな修理をするってんで、本土のドックへ持ってく手筈はついてる。狭いし魚臭いけど我慢してくれや」



 続







  さて、目的地までの手順は実はほぼ考え付いていない。っていうか、考えていないっ。ただ、そこばかり綿密にしても意味はないので、それほど詰めずにさらりと行きたいと…。

 その先のことが寧ろ大事なのです。問題はまだ幾つかあるのでねっ。今回もなんとか書けました。思ったよりあっさりいってしまったけど、あまりにもあっさり過ぎたかもしれないので、島に残った人々のことは、もうちょっと書きたいなぁ、とか思っ…。思っ…。頑張りますっ。

 13話でございましたーっ。



2018/01/14