対 想 12
「みんな…」
静かな波音に重なって、白也の声が島の皆に届く。誰一人声を発さず、彼らは真っ直ぐに島の神官を見つめた。
ひとりひとりもう、自分が島に残る側なのか、離れる側なのか分かっている。近しい友や、家族がどちらなのかも、分るものが大半だ。淋しくなる。でも達者でやって欲しい。本当に今までありがとう、と。心で思っている。
「…私にも霧は見えています。つまり、島から離れる側だ…。神官だというのに、残る方に選ばれなかったことは、自分が不甲斐ないからだと思った。でも、イサさんに違うと言われました。島にはこれから神官が居ないけれど、それは、残る人々が今以上に、島と重なる存在になるから、ヌシ様の一部に等しいから。だから、神官は居なくていいのだと」
浜に居る人々の中に、深い吐息のようなものが幾つも流れた。それは、島に残る人々の思いの形だった。そして島から出る人々の、憧憬も含まれる。
そうか、
島に残るものは、
ヌシ様に、
ずっと近い存在になるのか。
それはなんて、
嬉しい。
羨ましい。
ことだろう…
白也は、己が残る側に居ないことを告げた。言って頭を下げた。そんな彼の目の中には、複雑な色がある。
霧をあんなにも恐れた自分、海に落ち掛けたことに怯え、島から一刻も早く逃げたいと、確かに一度は思った、そんな神官にあるまじき自分。今は少し違う。ヌシと近い存在になるという彼らのことが、心から羨ましい。出来るなら、そちら側でありたかったとも思えている。
でもイサの言葉を借りるなら、自分にはするべきことがある。島を出る皆と共に、この先は、ヌシの子孫の居る土地に住まうことだ。だから白也は今一度顔を上げた、そして島に残る人々に向けて、再び深く頭を垂れた。
「今まで、ありがとうございました」
そう言った白也に、誰かがこう聞いた。
「でも新しい土地へ行っても、あんたが神官なんだろう? 白也」
「そうだよ、もうやめるようなこと言って貰っちゃ困る。皆を頼む」
白也は年相応に、一度顔をくしゃりとさせて笑った。それから顔を引き締めて、皆の姿を見渡した。この島で最後にすべきことは、まだある。まだ此処で、自分は神官なのだ。
「今、霧が見えていない人、手を上げて貰えますか」
問われると、皆は一度、自分の周囲を見た。そしてその中に、ゆっくり手を上げる人々が、一人、二人、三人。白也はその島人の顔を見ながら、ひとりひとり数を数えた。七人、八人、九人。半分には程遠い。とても届かない。霧の見えていないもの、つまり、島に残るものは全部で、14人、だった。
タツミは勿論、ミツ、シオツグ。この三人は島の最初の人々。サナミ、イクエ、トウジロウ、マサシ。続いてさらに五人が手を上げ。
最後に手を上げたのは、タダハル。その手前に上げたのはカズアキ。少し躊躇うような彼らの表情に気付いて、鋭く問い掛けたのは、暫し黙っていたイサである。
「タダハルさん。失礼かもしれないけど、一応、確認させてくれる? 本当に、霧が見えてないんだよね…?」
「あぁ。こんなことで嘘は吐かない。例え偽ろうとしても、ヌシ様がそれをけして許さないことぐらい、分っている」
「そう…なら…」
いいけど、と続けようとしたイサの声に、さらにタダハルの言葉が被さる。
「だが、霧が見えなくなったのは、昨日からだ。サナミが…妻が此処に残ると言った。その言葉を聞いたすぐ後、あっという間に霧が晴れていって、家に着く頃にはすっかり見えなくなっていた」
あの後、サナミの言葉を思いながら、それなら自分も島に居る、何があろうと此処から離れるなどしないと、心の奥で固く思った。その想いが、きっとヌシに届いたのだろうと、タダハルは今、思っている。
「だから、誓って嘘じゃない」
タダハルが口を閉ざすと、今度はカズアキがこう言った。
「私も霧が見えてました。何日もずっとね。正直に言うと、ついさっきまでですよ。でも今は見えない。イサさんと白也さんの話を聞いていて、だんだん見えなくなった。そこまでじゃなくとも、そういう人、他にも居るんじゃないのかな。……ヌシ様はきっと、ひとりひとり、ゆっくり決めて下さったのでしょう」
一度島を出ようとした、或いは出て行った経緯のある二人だ。イサは少しばかり意外に思った。島で生まれたもの、或いは、島に長く居るものから選ぶわけではないらしいと。
「だから。…これは多分、としか言えないですが」
カズアキがもう少し言葉を言い繋ぐ。言っていいかどうか、彼は逡巡したようだったが。
「これから先、もしかしたら、まだ霧の見えない人が増えるのかもしれませんよ」
その言葉に、顔を上げたのはギンコだった。その目が、怯えたように化野を見る。化野は、気付いてすぐにギンコの傍に寄った。肩を微かに触れ合せ、彼にだけ聞こえる声で囁く。
「大丈夫だよ、ギンコ。お前に霧が見えるのなら、俺にも見える。お前に見えなくなるのなら、その時、俺にも霧は見えなくなる」
離れない、絶対に。
仮にヌシが、
お前を選んだなら、
俺も必ず、そちらへ行く。
ギンコは化野の顔を見て、それから彼に顔を見せないように、項垂れた。今考えていることを、彼に知られたくない。例えヌシを殺すことになっても、などと、そんなことを考えた感情を。
「そうだね。じゃあ、宴でもしようか」
急にそんなことを、軽い口調で言ったのはイサだった。
「島に残るもの、島を離れるもの、共に居られる時間もあまりない。忙しいことですまないけれど、明後日の朝には……と、思っているからさ。だから、万が一にも心を揺らして、ヌシ様を困らせないように、自分がどちらなのか気持ちを定める意味でもね」
明後日の…朝。
誰もが、心に刻むように呟いた。共に残るもの、共に島を出るものはいい。でも離れ離れになるものもいる。我が子と離れるものも、気の合う友と分かれるものも。彼らは目を見交わし、誰かが、うん、と頷いた。
「じゃあ明日の夜だ。楽しい宴にしようっ。とっておきを持ち寄ってさ。きっと身一つで島を出るんだろう? 飲み明かそうよっ。ねっ」
三々五々、人々は家に戻った。次の夜の宴の準備の為だ。或いは、丹精込めた畑の野菜に、最後の最後手をかける為。長く暮らした家を惜しむためでもあるだろう。
淋しいよ、離れるのは悲しいよ、体を大事に、元気でね、私のことを覚えていてね、などと、互いに言い交すものはやはり居なかった。そんな想いは伏せた眼差しに込めるだけ。まるで、自分たちの運命を決めたヌシ様に、憂いを掛けない為のように。
皆が浜を去った後、白也の家を訪れたものがある。セキと、セキの腕に抱かれた赤ん坊だ。後で来てくれと言われたためだったが、そうでなくとも、彼女は来ただろう。
セキは言った。
「この子、霧を見てないわ。だってまだ生まれたばかりで、目が見えてないんだもの。私にもセイゴにも、ユキとクミにも見えているのに、この子だけ…どっちなのか、分からない」
言われて、静かに答えたのは爺様だった。
「そうじゃの。霧のことだけじゃったら、判断が出来ん。だがもうひとつ、見分ける方法があるんじゃ。さっきイサが言ったろう、大丈夫だと」
イサや爺様と共に、火の無い囲炉裏を囲っていた白也が立って、セキの前に立った。
「ついて来て下さい」
「どこへ? この子を、どうするの?」
「確かめて貰うんです。この子にとって、島が今まで通りなのか、それともそうでないのかを」
白也はセキを伴い、ヌシの場所へと赴いた。やがて、濃い霧の向こうにぼんやり、人影が見えて近付いてくる。
「え…。サナミさん…?」
「えぇ、セキさん。白也さんに、力を貸して欲しいと言われて、待っていたんです。抱いていいかしら、赤ちゃん」
「で、でも…」
セキはいっそう青ざめた。サナミはこの島に残る一人だ。このまま赤ん坊を取られてしまうのではないかと、そんなふうに思えてしまう。サナミにずっと子供が生まれなかったことも、どうしても思い出す。青ざめて、ガタガタと震えているセキに、サナミは言った。
「安心して、きっと大丈夫。ヌシ様は、そんな酷いことはなさらない。私の傍に夫が居られるように、ちゃんと選んでくれた。だからあなたと赤ちゃんを引き離したりだってしないと思うの」
「……分ったわ、サナミさん。お願いします」
セキはやっと心を決めて、赤ん坊をサナミの腕に預けた。優しい腕に抱かれ、すやすやと眠ったままで、赤ん坊は少し笑ったようだった。
「いい子ね、可愛い子」
そしてサナミは歩き出す。霧の濃い方へ、濃い方へと。どんなに目を凝らしても、自分の足が踏んでいる地面が見えなくなって、サナミの背を追っていた白也は、ぴたりと足を止め、同時にサナミを引き止めた。
「此処で待ちましょう。この先は、島に残る人しか進めない」
「でも…。あの子が。ツボミが…!」
セキの言葉を聞いて、霧の向こうでサナミは微笑む。
「ツボミちゃんって言うのね。とても可愛い名前。大丈夫よ、すぐに戻ってきます」
そして赤ん坊を抱いたまま、サナミの姿は濃い霧の中に飲まれたのだ。それから待つこと、ほんの数分。だけれどセキにはそれが、半日もの間に思えた。やがて戻ってきたサナミが、微笑みながらセキに赤ん坊を返して、こう言った。
「最後に抱っこ出来て、嬉しかったわ、ツボミちゃん。この子は確かに、島を出る側です」
島に残るものにとって、島は今までのまま。
島を出るものにとっては、既に島は欠けている。
だからサナミは赤ん坊を連れて、島を出る人びとにとっての「もう島の無い場所」まで行ったのだ。そしてその大地に赤ん坊を置こうとした。赤ん坊は、サナミにはっきりと見えている地面を、すり抜けた。
「ありがとうございます、サナミさん。俺やセキさんがこの先へ行ったんじゃ、確かめる前に海に落ちてしまいますから、あなたが居てくれてよかった」
「あ、ぁ…あぁっ…」
セキは赤ん坊を抱いたまま、座り込んで蹲り、泣き崩れた。
静かな時が流れる、夕と夜の境。
人々は、煌々と火を燈す。
平たい石の、広くあるところ。
ヌシ様の居場所に、集まって。
誰の家がいい、いやこっちの家がいい、と話し合っていたのがいつの間にか、此処になっていた。45人と、足すこと2人。わいわい。大賑やかな中で、端席の爺様が、隣にいるイサにそうっと言った。
「しかし随分、急いだもんじゃ」
イサは表情を変えずに、小さな声で答えた。
「正直、咎められるかと思ったのに、爺様、何も言わなかったね」
「…まぁ、のぉ、あと一日延びても、二日延びても、もっと伸びても、さして変わりゃせん。それじゃったら、別によかろう、とな」
悲しみに痛みに、そして喪失に、これまでずっと苦しんできたギンコを、少しでも不安がらせない為に。万が一今から化野が選ばれて、ギンコを苦しませないために。そう思って、一刻も早く島を早く出ようとしたイサを、見て見ぬ振りした爺様だった。
「ありがとう」
「はて、何かしたかの? 島は生きておるでな。何が起こるか全部は分らん。急いでおくのが良いだろうて」
宴は続く。島の民の想いを包んで。夜明け寸前までも、続いていくのだった。
続
難産と言えば難産。でもこの難しい局面にしては、さらさらと書けたのではないかと思います。「対想」の手前の「記憶」のラスト辺りから読み返して臨みました。ちゃんと書けているといいな〜。
次回はきっと、選ばれなかったものたちが島から出るシーン。頑張って書きますね。来年そうそうに書けるよう、ほんとに頑張りますっ。島を出て、島から出た人々が何処へゆくのか…は、さらに次の話になるかな。残った人々のことは…どう書こうかな。
まだまだ考えることあります。それにしても箱庭シリーズはながーーーーーーい。読んで下さる方に、感謝をーっっ。
2017/12/24