対 想 11
白々と夜が明けてくる。化野はギンコの手の届く場所に湯呑みを置いて、彼を気遣いながらこう言った。
「夜が明けたら、島の皆を浜に集めて話をするとイサが言ってた。ギンコ、大丈夫か…? もし辛いなら、俺だけで」
「……」
ギンコは化野が置いてくれた湯呑みへ視線を流し、そこから立ち上る白い湯気を眺めたままで、暫し黙っていた。それから極うっすらと笑うと、化野の方をやっと見て言葉少なに尋ねる。
「…イサは、他に何か言っていたか…?」
「あぁ。『島は向こう側に行く』、と言っていた。正直、どういう意味なのか、俺には…。ギンコ?」
こんな時だと言うのに、ギンコの顔に浮かんだ淡い笑みが消えない。彼は熱い湯呑みを手で包んで、一口、茶を啜ってから、溜息をつくようにこう呟いたのだ。
「…俺は大丈夫さ。辛いのはきっとお前の方だろうよ。お前はあんまり、優しいからな」
どんなに真っ白な霧で覆われていても、この世に朝は訪れる。いつもと同じに、海から太陽が昇ってくるのだ。白也やイサに呼び集められ、それぞれ声を掛け合って、島の人間が一人残らず、夜明けの浜に集まっていた。老いたるものから赤子まで、四十四人の、島民のすべて。
ざざ、と寄せる波音の中、いったい何か始まるのかと不安な気持ちを紛らわすように、とあるひとりが大きな声で言った。
「やれやれ、今日も凄い霧だなぁ」
すると、それを聞いた別の誰かが問い返す。
「霧…? 何処にだい? 今日もいい天気になりそうじゃないか」
「どこって、そこら中…」
言ったものも問い返したものも、声がどこか不安げだ。最近、これと似たやりとりを何度もしているような気がする。でもそのことを、よく思い出せない。その場にいる誰も彼も、実は言えずにそう思っていた。
昨日も、いつだかも。
霧がどうの、というものがいたっけ。
霧など見えない、と言うものがいた。
こんなに晴れているのに。
こんなに何も見えないほどなののに。
霧なんてどこにも。
これほど濃い霧を。
いったい、これは、
どういうことなのだろう。
もしかしたら、何かが、
……島に…。
人々は何も言わず、ただお互いの顔を見交わすだけだ。そんな時、浜に一艘の小舟が着いた。皆が見つめる前で、下りてきたのは老人二人。その姿を見て、ミツが驚いたように目を見開いたのだ。
「あ…」
その声に重なるように、先に言ったのはシオツグである。
「タ、タツミ…っ?」
「久しいの、シオツグ。…ミツも。元気そうだ…」
久しぶりに歩く砂浜、崩れる足下によろめいて、近寄ったイサに支えられながら、タツミは静かに、けれどはっきりと言ったのである。
「今をおいては、二度と島には渡れなくなる。此処と本土を、もう行き来が出来なくなる。だから来たんだ。無事に渡れて、島の民の一人だと認められて、それだけでも本望だが」
島の一人残らずが、その言葉を聞いてしんとなった。タツミと呼ばれたこの老人が、誰なのか知らないものが殆どだけれど、それでもその声は、ひとりひとりの中に不安を走らせたのだ。
「行き来が…出来なく…? それって」
「渡守りも、ってことかい? …そんな」
ざわめきが広がる。無理もないことだ。島の民の殆どは、島から出ないし出ようとも思わない。でも島と本土を行き来する渡守りが居てくれたから、不自由ながらにも今まで暮らしてこれた。島の中だけではどうにもならないことは、どうしたってあるのだ。
傍らに居る者同士、互いに小声で、不安を言葉にする。だけれどヌシがそうと定めたことなら、自分たちにはどうしようもない。きっとヌシ様が良くして下さる。ヌシ様がいるから、大丈夫。今までだって守られてきた。だから、これからも。
「だって俺らみんなは、ヌシ様に花を示して貰ってるんだ。あれは守ってもらえるしるしなんだろ? 見捨てられるなんてこと、ある訳がないじゃないか」
「あぁ、そうだよ」
「そうだともさ」
一度は広がった不安が、そんなふうに消えていく中、イサが静かにこう言った。
「…みんな、よく聞いて欲しいんだ。ヌシは、俺らと同じ『生き物』なんだよ。誰だって年をとったら、今まで出来ていたことが、出来なくなったりするだろう? ヌシも老いて、力を失いつつある。この霧は、その表れなんだ」
また、ざわざわと皆はざわめく。そんな中、一人の女が震えていた。胸に、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて、項垂れて。
やっぱりこの子は、
長く生きられないのかもしれない。
こんなに毎日霧が酷くて、
日差しも満足に無くて、
どうしたって作物は減っていく。
だからこの子は大きくなれない。
年老いたヌシ様は、きっと、
新しい命なんか、
欲しくなかったんだわ。
セキはよろめいて、夫に支えられる。そんな姿を見て、イサはすまなそうに彼女に詫びた。
「セキさん、だったよね。その子の花のこと、白也に聞いた。急にこんな話して、不安がらせてごめん。でも大丈夫だから、話を聞いてて欲しい」
そしてイサは、皆の顔をゆっくりと見渡した。
「皆も、落ち着いて話を聞いて。この人はタツミ。本土でずっと、渡守りの手助けをしてくれた人だ。もう一人は『俺ら』の爺さま。何十年も前に、この島の存在をタツミ達に教え、最初の島民として此処に住まわせたのは『俺ら』だよ。だから、この島の民じゃなくとも『俺ら』は島のことをよく知っている。これからこの島がどうなっていくのか、ってことも」
一度言葉を切ったイサの視野で、ギンコはとても鎮かだった。そのすぐ隣にいる化野の方が、余程青い顔をして見える。
「今から『これからのこと』を話すよ。今此処に居る全員に関わることだ。途中までは俺から、そして続きは白也から。心の準備をする時間も無くて、申し訳ないと思ってる。どうか許してほしい」
そしてイサは、ひとつ、息を深く吸うと、あまりにもいつも通りな口調で、けれど深い眼差しをして、話し始めたのである。
俺と爺様を抜いて、このタツミを入れた四十五人。それがたった今の、この島の民だ。今までずっと、ここで平穏に、みんなは暮らしてきたけど、この先、それは敵わない。こんなに大勢「乗せて」「守って」いくのは、もうとても無理なんだ。
それは島が、つまりはヌシが老いたからだ。力が弱くなって、今のこの大きさでいるのも、限界が来てるってことだよ。
みんな、どうかよく聞いて。
まずは霧の見えているものに言うよ。この濃い霧の向こうに、飲まれて見えない場所は、もう消えてるんだ。もしも無視して進めば、海へ落ちる。白也が身をもって、それを確かめた。このまま大勢で此処に居れば、もっとどんどん島は狭くなっていくだろう。
次は霧の見えていないものに言うよ。貴方がたが居る分には、島はほぼ今まで通りで、この先も在り続ける。暮らしに何も不自由はないだろうし、必要なものは必要なだけ得られる筈だよ。
ヌシは、この島そのもの。そしてヌシは年をとって、今までのような、大きな力を失いつつある、ってのはさっき言ったね。
だけれどヌシは、小さくなった力に見合うだけの、島の民を欲しているよ。このままみんなに居て貰うことは出来なくても、一人残らず去らないで欲しい。残って此処にいて欲しい、って、そう思って、ヌシは民を二つに分けたんだ。
選ばれたものは、この島を出ることは出来ない。島は…いや、ヌシはこれから人の世を完全に離れて、あちらの世界へ行く。正直俺も行ったことはないけれど、文献によれば、時の流れの無い世界だと言う。
選ばれなかったものは、生まれたばかりのヌシの子孫の渡る場所へと、俺らが連れて行く。其処は本土だけれど、俺らが出来る限りをもって、この島と同じ意味を持つ「場所」にするから、取り敢えず安心してくれていいよ。
俺からの話は、此処までかな。みんな、動揺するのは当然だと思う。だけど一人一人が全員、島の民であり、何処かでヌシと繋がっていた筈だから、心をじっと澄ませれば、不安がらなくていいのは、きっと分る筈だ。
ゆっくりと、イサは話を終わらせた。ちらり、ギンコと化野の方を見れば、化野は震えていて、そしてギンコに片腕を押さえられていた。何かを言いたいだろうことは見てとれる。でもその言葉を、ギンコが押し留めているのだ。
「そこで動揺してるお医者の先生。話は分かったかい、あんたは島一番の新参だからかな、ちょっとショックが大きかったかもしれないよね。でもあんたや俺や、例えば他の誰がこのことに異を唱えようとも、何一つ変えることは出来ないんだよ」
「だけどっ、だけど、それじゃ…。…それじゃあ、此処ではもう暮らせないっていうのか? せっかく、今までずっとみんな一緒に」
化野が言った言葉を聞いて、イサは、ぷ、と小さく吹き出した。聞いていた他の皆も、淋しそうに、けれども微かな笑みを浮かべ、数人が化野に言ったのだ。
「子供みたいだねえ、せんせ。そんなこと聞いたら、こっちまで淋しくなるじゃないの」
「俺らはこの島の民だから。ヌシ様の言うことにゃ従うしかないんだよ」
「これから行く新しい『住まい』には、ヌシ様の子がいるというじゃないか、ありがたいよ、本当に何よりさ」
でも、けして忘れない。
誰かがそう言った。数人の声が重なったように、何処からか聞こえてきた。誰の声でもなかった気がする。誰の声でもあった気がする。足下の砂が、何故か急に温かく思えて、名残惜しさが皆の胸にあった。
島が老いて、ヌシが力を失っていき。だからこの島で、今まで通りのみんなで、一緒には暮らせない。故郷と信じた土地を離れねばならず、二度と戻れなくなる。
島を出るもの全員が、確かに不安だ。不安で堪らない。島で生まれたものも、本土で行き場をなくし此処へ来たものも。でもヌシ様の為だ。ヌシ様がそうして欲しいと言っているなら、ヌシ様の為に、ヌシ様の子供の土地へゆく。寧ろ誇らしいぐらいだ。本当にありがたいことだ。
流石は皆、島の民、ヌシ様の為に仕方のないことと、皆して不安を拭い去っていく。
「じゃあ、次は白也に…神官殿、頼みます」
イサが幾分かしこまった風でそう言った。白也はゆっくり進み出て、皆の前で、凛と顔を上げる。でも声が震えているのは、どうしようもないようだった。今までのどんな神官も、こんな経験していない。慣例も記録もない。自分が最初だからだ。
「みんな…」
と、白也は上擦った声で言った。
続
島の民に伝えねばならないことが、いろいろあり、どう伝えればいいのか迷いました。そしてそれを聞いた皆の反応は、どのようなものだろうかということも。もし、彼らが何処にでもいる普通の人々であれば、もっと恐慌状態にでもなったのだろう、と、そう思う。
彼らはある意味、信者なのです。ただし、来たばかり化野は、そうではない。また、ギンコは元々、彼らからも化野からも、掛け離れたところがある(こう書くととても悲しいですが、でもそうなのよね)。
今回書いたこと以外にも、まだ伝えるべきこと、書くべきことは多いなぁ。頑張ろう〜。もう暫し、お付き合いくださいませ。
2017/12/10