対 想   1




 島は、名をナキ島と言った。地図に無い島。何も無い島。居場所の無いものだけが、ゆく島だと。

 無島と書くが、いつからか、島の名に「無」を思う島民はいなくなった。其処はもう、何も無い島ではないからだ。何十人もが満ち足りて暮らす、彼らにとっての故郷である。其処で生まれ育ったものにとっては、地図にあるかどうかなどどうでもいい。

 ただ、地図にないということは、島以外にゆく場所の無い人びとにとっての「安息」だった。
 



 夜明け。

 部屋の数か所に置かれた、荷解き前の幾つもの荷が、長く影を伸ばしている。隙間に辛うじて布団を敷いて、ひと組だけのそれに、ふたりは身を重ねてくるまっていた。

「……重く、ないのか…?」

 小さな声で、ぽつんとギンコが言うと、彼の方へ伸ばした腕をそのままに、化野が答える。

「重くたっていい」

 腕枕。もう、してもらってから暫く経っているから、辛いだろうと思って言ったのに、化野は寧ろ静かに笑んで、そのままで居たがった。

「痺れちまうぞ?」
「別に構わん。お前が此処に居ることを、感じられて嬉しいよ」
「何言ってんだ」

 きっと、責められるとギンコは思っていた。黙っていたのみならず、嘘をついていきなり目の前から消えたこと。ひと月もの間、ずっと心配を掛け続けた。不安で居させた。なのに化野は、そんなことを言って、愛しげにしてくれる。

「…あぁ。お前の傍に、居るよ」

 ギンコは目を閉じて、彼と触れている個所を、ひとつひとつ感じながら想っていた。まるで過去の中に居るようだ、と。波音、潮の香り、古い家に染みた薬の匂い、葉擦れの音も聞こえてくる。彼の中を通り過ぎた、長い長い年月が、あっという間に溶けて消えていくような気がする。

 怖いことなど何も無かった。辛いことは全部悪夢だ。だって、化野が居て、俺が居て、何も変わらずに、幸せは此処にあるじゃないか。

 けれども、それは錯覚で。

 今こうして、彼を抱いてくれている化野は、化野であって「化野」ではない。震える声で、ギンコは言った。

「箱…庭…」
「…え?」
「箱庭…だよ…」

 そっくりに作って、自分も、その箱庭の住人になって、あの頃と同じように過ごして、同じようにお前に焦がれて、お前に愛されて。なのに、ずっと傍には居られずに、引き裂かれる様な想いをしながら、傍を離れて、また会いに行って。そんなことを繰り返す、箱庭。

「ギン…? この島のことか?」

 意味が分からず、化野は聞き返す。島のことだろうかと思った。

 ヌシと呼ばれる神が居て、その神様が作った、小さな小さな世界だと言う意味だろうか。化野はそう思い、返事を待ってギンコの顔を見ていた。答えは返ってこなかったが、ギンコは化野の腕から頭を下ろし、背を丸め、体を縮めて、両手で顔を覆ったのだ。

「何でもない…」

 彼の唇が震えていた。いや、唇だけじゃない、ギンコの全身が、震えている。息遣いは切れ切れで、酷く苦しげだった。

「ギンコ? 具合が悪いのか?」
「少し、疲れているだけだ」

 心配掛けないようにか、首を横に振るのが見えた。なのに食いしばった歯の間から零れるような、小さな嗚咽が聞こえてくる。ギンコは言えない本音に苛まれていたのだ。


 なぁ、化野。

 これは夢なんだよ、全部。
 うつつは遠い昔に終わってしまった。
 だからずっと夢を見ているんだ。
 覚めてしまうことに、
 いつもいつも怯えながら。
 でもそうやって怯えて過ごす日々に、
 俺は安堵してる。

 咎人、だから。
 けして許されない罪を、
 いくつもいくつも重ねてきたから。

 俺は酷い男だよ。
 お前の人生を奪ったのに、
 それでもこんなことを思っている。  


 化野は手を伸べて、ギンコに触れようとした。けれど出来なかった。声ではない声を、聞いてしまったと思った。聞こえないのに、胸が痛い。ただ彼は、虚しく手を戻して、静かに言うしかなかった。

「……そう、か。あぁ、そうだよな。疲れているよな。一ヵ月大変だったろう。よく休むといい」

 胸でおかしなふうに鼓動が鳴って、どうしてか彼は傷付いていたのだ。ギンコの言う「箱庭」の意味が、分かったような気がする。箱庭を作ったのはギンコだ。失くしてしまった過去と、そっくり同じに作る、偽物の世界。

「……ギ…」

 化野か言おうと口を開き、結局何も言わなかった。いや、何も言わないんじゃなくて、言えないのだろう。辛そうなギンコを癒してやりたいと思うのに、今は自分が痛くて。

「…おやすみ、ギンコ」

 ギンコの事を、静かに見つめていた化野は、腕枕をしていた腕で、彼の頭を己の胸に抱き寄せた。そうっと、仔猫でも抱くように、そうっと抱いて、ただ一言言うのだ。

「辛いなら、俺にその半分を寄越せよ。必ずだ、ひとりで黙って背負っていたら、怒るからな」

 部屋のあちらこちらに置かれた箱の影が、さっきより随分と短くなっていた。化野はギンコの額に口づけをし、その首筋に口づけをしてから、ゆっくりと身を起こす。

「荷解きをしなけりゃ。せっかくお前が苦労して集め、運んできてくれた品だ。無駄にせんように、大事に使うぞ。ギンコがまた島を離れて、渡守りをしなきゃならん時が、一日でも先になるように」

 島の夜明けは、早い。明るくなると同時に、人びとは起き出すから。障子を開けて遠くを見ると、小舟がもう何艘か、浅瀬に漕ぎ出しているのが見えた。

 荷の一つに手を掛けた化野の背に、ギンコの言葉がほろりと届く。

「…悪かった」
「謝るなよ、ギンコ」
「謝るさ。多分、お前が辛くなることを言った」

 化野は息を深く吸い込んで、それを静かに吐いて、逆光になりながらギンコを振り向いた。そして、一言一言を区切るように、ゆっくりとこう言った。

「お前の傷に比べたら…。だから気にしなくていい。俺は『待ってる』よ。ずうっとお前を『待ってる』。それで役目は合っているんだろう? 待って、待って、いつまでだって待って、死ぬまで待って、生きている間中、待って、そして、居られるだけお前の傍にいるよ」

 また、ギンコの嗚咽が聞こえたが、化野は聞かないふりをした。あぁ、そうだ。着物をうまく着られるようになったのを、見せてやらなきゃな、と、そんなことを思い、出来ることのあまりの小ささに、やっぱり酷く哀しくなった。

 島の朝は、あまりにも穏やかだ。有限なのは分かっている。けれど、どうかいつまでも、と、そう思った。





「お紅茶をね、先生、ギンコさん。皆さんとどうかと思って」
 
 良く晴れたある日の午後、ミツが縁側を訪れてそう言ったのだ。

「古着とか、仕立て直しの着物や服を、選んで持って行って貰うのが最初だったんですけれど、普段お話しない人同士が、ちょっと行き合って一緒に過ごせるような、そんな場所をうちに作ったんですよ。まだ来て貰ってないのが、ギンコさんと先生だけなので、もしよかったら」

 にこにこと笑んでいるミツの姿に、人は変われば変わるものだと、ギンコは思った。化野は書きものの途中だったが、急ぎはないのですぐ中断し、縁側へと出てきて頷いた。

「それは楽しそうだ、是非呼ばれましょう」

 ミツの歩調に合わせて、のんびり里を横切ると、その姿を見た手の空いたものが、我も我もと集まる。中には家で作ったばかりの菓子を、持ってきたものもいて、焼きたての匂いになお人が寄ってくる。

「困ったわ、どうみたって椅子が足りなくなりそう」
「なぁに、俺らは地面に直座りでもかまやしねぇからっ」

 日焼けで年中顔を黒くした大工が言った。

「俺らっておめぇと誰のことだよ、俺か? まぁ、地べたのが気安いけどよ」

 いつも磯で漁をしている男が言って、その妻が、うちには椅子なんてないもんねぇ、と、からから笑った。

 ミツの家に着くと、既に里人が待っていて、庭に置いた椅子とテーブルは、それでひとつ埋まってしまっている。待っていたのはセキで、彼女に紅茶を出しながら、サナミが次の仕立ての話をしていた。

 椅子からあぶれた殆どの人々はみんな、縁側に並んで座り、あとは庭石に座ったり、地べたへ座ったり。カップは勿論足りなくて、茶碗やら小鉢やらで飲むことになりそうだった。紅茶はそんなに無いっていうのに、これじゃあ今日でなくなってしまいそうよ、と、ミツは笑って言っている。

「美味いぞ、ギンコ」

 化野はお椀に入った紅茶を、ギンコと二人で分けて飲んで、沁みるような笑顔で居る。少しだけ砂糖を入れて、スプーンの代わりの箸で混ぜている彼の様子を、ギンコはちょっと呆れながらも笑っていた。 

 其処へセキが近付いてきて、小さな小さな声で、嬉しげにこう言ったのだった。  

「先生、私、三人目、出来たみたいなんですよ。あとでいくので、診て下さいね」













 丸一年ぶりの「箱庭」シリーズです。間空けたなぁ。

 お蔭で決めてあったはずのタイトル忘れて、新しく考えました。決めたタイトルは「対想」二人の想い、という意味でつけました。それにしても、書き始めた途端にクライマックスになったような気がして、あれ? うわぁ、って。でもこの「箱庭」の意味は、まさにここに書いたとおりなのでした。

 だからギンコは過去をなぞる。必要が無くとも、辛くとも。

 対の想いも大事だけれど、舞台としての島がどうなっていくのかが、この話では重要なところですね。では、頑張って参りまっすっっっ。



2017/05/02