想 影 sou ei 11
ずっと長いこと、人が住んでいないように見える部屋。あちこち擦り切れた畳の上に、無造作に置かれた大きなソファも色褪せていて、ますます廃屋染みて見える。
イサ、と呼ばれた若い男は、だらしないような格好でソファに身を任せ、煙草の煙をゆらゆらと漂わせていた。ギンコに向けて放たれた言葉の、妙な馴れ馴れしさ。じろじろと化野を眺めている目。数年来の付き合いだと聞かされていたから余計に、あまりいい気はしなかった。
数年の付き合いがなんだ。俺などもう…数十年の…。
思い出せていないことも山ほどあるのに、ついつい心でそう思って、化野はギンコの方を窺った。ギンコは酷く困ったような顔をして、唇噛んで何も言わない。不遜なこいつの態度のせいかと、そう思っていたのに違うと告げられた。それも、ギンコからではなく、イサの方から。
「お前のそんな顔、初めて見たよ。いつもなら何言っても、そんなに動揺しないじゃないか。そいつのせいかい? そんなら連れて来なきゃいいのにさ」
「お、俺の…っ?」
反論したくて声を上げた化野を、そこにいないかのように綺麗に無視して、イサとギンコが話をし始める。
「イサ。届くのは明日になるとは思うが、今朝、宅急便で段ボール箱を一つ送ったんだ。中身は殆ど書籍だから、重いし嵩張しで持ち歩けない。預かって欲しくて頼みに来た」
「…なるほどね。そこの先生の荷物? それ」
「あぁ。いずれ俺から場所を指定するから、それまでここに置いといてくれたら」
「ふーん…。いいよ、それくらい」
薄ら笑いしながら聞いていたイサは、あっさり頷いてそれを請け負った。指摘されたように、それは化野の私物だ。頼まれてくれるのなら、ここで不機嫌な顔をしていていいわけはない。大人気無さを押し隠して、化野はイサの方へと頭を下げた。
「申し訳ないが、よろしくたの」
「あんたに頼まれてないし、別にあんたの為じゃない」
遮られて告げられた言葉の、なんという素っ気無さと感じの悪さか。下げた頭を元に戻し、思わず何か言い掛けたところへ、さらに淡々と言葉が続く。
「といってギンコの為でもないよ。ただ、ギンコのくれる時間が好きでね。今、はまってんだ、俺」
ゲームかドラマのことでも言うように、イサザは軽い口調で言った。怠惰に座っていたソファから立ち上がると、イサの背丈は化野ともギンコとも大差ない。横幅なんかは二人より細いくらいだ。
白く広がった煙草の煙を、ゆらゆらと動かす左手で部屋の隅の方へと流し、イサはギンコの前まで近付いてきた。伸ばした片手がギンコの髪に触れ、頬を撫でる。
「俺が何要求すんのか分かってて、この人ここに連れてくるなんて、趣味悪いよ? ギンコ」
「…それ、ど、どういう意味…」
「こういう意味さ、察しくらいついてるくせに」
これ、そこ壊した分ね。
そう告げられた言葉の次に…ちゅ、と小さな音が聞こえたのを、気のせいとか錯覚とかで終わらせたかった。ちかり、頭のどこかに何かが刺さった気がする。あぁ、もしかしたら、あの頭痛が来る。身構えるようにきつく目を閉じたのは、痛みを堪えるためであって、キスを…見たくないからじゃない。
「…ん、イ…サ…っ」
はぁ…っ。
声に続いて零れた息遣いがギンコのものだと分かる。そして湿った音が続いて、目をそむけている場合じゃないとわかった。
何でだ。たった一度抱き掛けて頭痛に邪魔され、その後は弄って済ませただけで、ちゃんと寝たこともないし、キスだってまだほんの数回。なのに、どうして…他の…。
「やめろ…!」
「………やめる?」
叫ばれて、それへ返事をした言葉じゃなかった。イサはギンコの両頬を、両の手で挟んだまま、まだ息のかかるような位置から顔を離してもいない。やめる? やめていい? どうするのさ? そんな問い掛けは全部ギンコに向けられて、イサは化野の方へ視線をやりもしない。そして、ギンコは言ったのだ。
「やめなくていい…」
「ギンコっっ!」
「けど…っ、別にあいつが見てる前じゃなくたって…いいだろ? …イサ」
「うん、いいよ。じゃあ十分待っててあげるからね」
頬に触れていたイサの手が、するりと滑るようにそこから離れる。化野とギンコをそのままにして、イサはソファの向こうにある扉をあけて出て行った。でも多分、壁一枚向こうにはいるのだろう。冷蔵庫を開け閉めするような音が聞こえ、床の軋みも響いてきた。
「お前っ、なにを」
「口出しせんでくれ! 来る前にも言った筈だろ、化野。それこそ俺はあいつに『恩がある』んだ。これから先だって、イサにはきっと世話になる。ここで切れるわけに行かないんだ…っ」
「だからって!! …っ…」
だからってどうしてお前がキスされなくちゃならない? あばら屋の扉一つ壊したくらいで、あんなことされるんだったら、俺の送った荷物預かってもらうために、お前はいったい何されるんだよ。
はいそうですかと引っ込んで待ってる間に、俺がまだしてもいないことまで、お前はあいつにされるんじゃないのか? そういうこと、今までもずっとされて来たのか? 俺のことを知るためにっ。俺の傍にいるために…っ?
矢継ぎ早の問い掛けは、どれも言葉になどなっていなかった。化野の唇はギンコの唇で塞がれて、弾け出そうとしていた言葉の全部が、彼の舌で喉奥へと押し戻されていた。
「ごめんな…化野…。俺が欲しいのはお前だけだし、好きなのもお前だけだけど、お前を得るために、俺は手段を選ばない。体だってなんだって使えるもんなら使うんだよ。これまでだってずっとそうしてきたんだ。それに…」
泣きそうな顔してた癖に、ギンコは憎らしいくらい綺麗に笑った。化野の唇を吸っていた唇を、ゆっくり彼の耳へとずらし、吐息混じりの甘い声して、彼は一言、こう言った。
「こんなことでお前は俺を嫌わないって…分かってる…」
あんな本なんか…
服やら何やら、
適当に箱に詰めたものなんか…
どうだっていいんだよ、
お前の存在に比べたらどうだって。
でも、どうしてだろう。
…引き止める声が、もう出ない…。
「多分、小一時間くらいだと思う。外じゃ寒いと思うし、あの駅でもきっと同じようなもんだろうけど、近くにいて欲しくないんだ。…すまんな、化野」
謝るな。
「イサはああ見えて、約束を今まで違えたことがないから、引き受けてくれたなら絶対だ。お前の大事な本も、ちゃんと預かってくれるから」
本なんか。
「あぁ、そうだ。なんなら二駅くらい離れた街までいけば、ビジネスホテルくらいあるから、先に行って部屋を取っててくれればいいし……………」
ギンコ…。
言葉を止めて、長い沈黙の間にギンコは化野の肩に額をのせていた。どうしてか右の手のひらで化野の胸をまさぐり、心臓の上辺りにぴったりと手を置いている。心臓の音を感じているのだと分かった。零れた息遣いが、どこか嬉しそうだった。
この野郎。
お前、こんなときだってのに、
俺が嫉妬してるのを喜んでるのかよ。
「駅にいる」
「うん。すまんな」
謝るな。
「ああ、俺の上着、これも羽織っていけば」
気遣うな。
どうせ脱ぐからいいとでもいうのか。
上着どころかその下の服も、
あいつの前で、脱ぐのか、お前…
俺はギンコに背を向けて、逃げるように外へと出た。口の中に血の味がして、悔しくて情けなくて喚きたい気分だった。駅へ行って、駅舎の中じゃなくて、ホームに立ち尽くして化野は待った。寒いくらいがいい。震えるのが寒いせいだと、思っていたかったのだ。
あぁ、好きだ…。こんなにも…
涙を零すように、化野はそう呟いていた。
続
12/01/22
12へ続く ↓
想 影 sou ei 12
「…あれのどこがどう心配なんだって? ベタベタに惚れ切ってるようにしか見えなかったけど?」
軋みながら開いたドアに寄りかかって、イサは小さく肩を竦めた。ドアをぴったりと閉めると、ギンコの前でソファに体を投げ出し、最初よりももっとだらしなく、そこへ体を伸べてしまった。
「それにさぁ、荷物預かってやるとは言ったけど、その引き換えに抱かせろとかなんとかまだ一言も言ってないよね、俺。今までギンコの頼みごとは大抵引き受けたけど、十回のうちカラダ要求したのは半分くらいだろ? 今回そうだって、いつ決まったっけ? 確かに俺からキスしたけどさ」
「イサ…」
「さっきの俺ってさ」
身を起こして、ソファのスプリングを鳴らしながら、イサはギンコを真っ直ぐに見た。
「もしかして、当て馬…ってやつ?」
「…わざとじゃない」
「はは、認めるんだ。いいけどね、高くつくよ?」
そう告げられた時、隙間風の入り込む寒いあの駅舎に、化野をどれくらい待たせる事になるのかと、ギンコはそれだけを気にした。イサに肌を求められることも、そのやり方も、殆ど気に掛けてはいない。引き寄せられてから、一つだけふと思った。そうしてそれを縋るような気持ちで言葉にした。
「出来れば、跡残さないでくれねぇか…」
「…ごめんだね…。自分が恋人にどれだけ想われてるか、物差しあててはかりたいんなら、せいぜい待たせて、抱かれた跡も生々しく見せ付けて、あの先生の嫉妬に狂った顔見て安心するがいいよ。贅沢もので怖がりのギンコ」
「イ、イサ…っ」
口付けは、見える場所とはっきり選んだ上で、首筋に数箇所記された。吸われる直前まで嫌がって抗い、唇が触れるとギンコは抵抗を止める。吸われながら抗い続けていれば、余計に目立つ跡になるからだ。けれど、イサはそんなギンコを甘やかしたりはしない。吸った口を離して、ほんの数センチ下にまた吸い付いて、血が滲むまで歯を立てた。
「や…、か、加減してくれ…。頼む…から…」
「今更だよ。高い、って言っただろ? 見てる前でヤられないだけ、親切だと思ってな」
「…い…さ…。…ぁ…」
イサにとって、ギンコの声の震えも、肌の強張りも新鮮だった。零れる声まで酷く違って、今まで彼が抱いてきたギンコが、心の無い人形のようにさえ思えてくる。滅多に無い高揚感を感じながら、彼は視線の端に異端の生き物達を見ていた。
ギンコの見る世界と同じものを、イサは見ることができる。蟲煙草をギンコに売ってくれるのも彼だ。今では余程の山奥にしか生息していない草から作るのに、どんなルートで手に入れているのか、イサは教えてくれない。
彼は所謂「便利屋」だ。どこからどう集めているのか知らないが、充分信用に足る情報や品物を、相手が示す報酬に応じて開示し、引き渡す。そして自身も必要な情報を、訪ねてくる相手から買い取っている。ギンコも彼を相手に情報を売り買いする一人で、「蟲」に関する知識と、蟲によって引き起こされる事象の記録を、イサは高く買ってくれる。
本当を言うと、ギンコは彼の本名すら知らない。イサと言う名は、自分のことは好きに呼んでいい、と言った彼に、便宜上つけた仮の呼び名に過ぎなかった。
昔、それに近い名の男がいて、その男と彼がよく似ていたからそう呼んだ。強かな考え方や、人をからかうような言葉遣い、そして姿形までもどこか似ていて、そう呼ぶのが、最初から随分しっくり来たものだった。遠い子孫なのかもしれないと、思ったこともある。
「お…怒ってるのか、イサ」
身を繋げ、散々揺さぶられて声を上げた後で、ギンコがぽつりと聞いた。喉が渇いて声がかすれている。イサは素っ裸で、隣の部屋へ行って戻ってきて、ペットボトルのミネラルウォーターをあおっているところだった。
「別に怒ってやしないよ。ま、彼を手に入れたせいで、ギンコがすっかり満ち足りて、色々『売り買い』しにこなくなったら、ちょっと惜しいし詰まらないけどね。蟲が見えるヤツなんて、もう殆どいないしなぁ。でもさ、ギンコって、結構『魔性』だよね」
「………ましょう?」
「自覚無いんだ? 本命手に入れて連れてきといて、俺なんか相手に、しかも寝た後にだよ?『怒ってるか』とかそういうとこ」
イサはもう一口くらいしか残ってない水のボトルを、軽くギンコへ放って背中を向ける。
「自分が魅力的だって、少しは分かっといた方がいいよ?」
そこまで言われて、イサが「ましょう」と言った言葉に、どの漢字が当てはまるべきなのか、ギンコはやっと理解できた。でも、何故そんなことを言われたのかはわかっていなかった。もしかしたら、化野の方が理解するかもしれない。
シャワーも借りられず、体を拭くことも少ししか出来ずに、それを気にかけながらギンコは駅へと急いだ。過疎が進んでゴーストタウンみたいになったこの町には、ホテルの一軒も無かったし、あるかどうかわからない銭湯を探している余裕などない。
寒い駅舎で、化野が凍えているかと思うと、だんだん足が速まって、最後には走っていた。
「化野! …あだしの?」
駅舎の中に化野の姿がなくて、ギンコは忙しなくあたりを見回した。汚れたままの窓の向こうに、背中を丸めた姿を見つけた時、丁度化野も視線に気付いたように振り向いた。
「…っ!」
声も無く目を見開き、けれど化野はすぐに駆け寄ってこようとはしなかった。窓越しの遠くからギンコを見て、責めるような顔をし、それからすぐ後に、痛みを堪えるような顔になる。ギンコが目の前に来ても、彼は黙っていた。
「なんで外に出てるんだ!? 風邪を…っ」
「ふ、震えが…止まらないからだよッ!」
「……え」
「お前があいつと今何してるのかって、そんなことばかり考えて、震えが止まらないからだっ、それを寒いせいだと思いたかったんだよッ。……ギンコ…」
言葉の通り、化野は震えていた。差し伸べた両手の指先まで、細かい震えを止められず、怯えたような顔をしたまま、彼はギンコを静かに抱き締めた。
「………何された…?」
「……」
「何されたんだよ? 俺のせいだろ? 俺のこと調べたり、俺の傍にいるためにあいつの手を借りて、そのたびに抱かれてたんだろ? 俺がいなけりゃお前はそんな目には…っ…」
「そうじゃないよ…」
ギンコはそう言って、化野がそうしてくれているのと同じように、静かに彼の背中を抱き締めた。
「怒っていいぞ、化野。何なら罵ったっていい」
ギンコは目を閉じて、化野の激しい鼓動を聞いていた。ギンコのことを心配して、イサとのことを嫉妬して、自分のせいで酷い目にあっていると思って嘆いて傷ついて…こんなに震えている化野。好きでもない相手に、こんなに心を揺らすことなんて、絶対にないだろう。だから。
あぁ…だから。
確かに化野は、ギンコを好きなのだ。記憶が戻ったはずなのに、あんなに冷たかったり素っ気無かったりした化野の姿は、今の彼の何処にも見えない。妬いてくれるのかどうか、案じてくれるのかどうか、試した自分は、なんて酷い奴だろうか。
「…酷いって、言っていいぞ、俺のこと」
「なんだよ。何を怒れって言うんだ? 今、俺は自分のことなら、幾らでも罵りたいよ」
「化野は、俺のこと…好きか?」
「…好き…だよ」
「………た、い…」
ギンコは腕を解いて、化野の額に自分の額をつけて、そっと唇を動かした。微かな息だけの声は、最後の二文字だけがやっと音になって、意味など伝わるはずもなかったのに…。
「あぁ、俺も、お前を抱きたいよ」
ギンコは目を見開いて、え?と聞き返すような顔をした。
続
12/01/27
13へ続く
想 影 sou ei 13
吹きっさらしのホームに立って、化野はギンコを抱きたいと言った。駅舎の中の時計を見て、時刻表を確認しながら、なんでもない事のように続ける。
「今、抱かれたい、って言っただろ? だからその返事だ。ぎりぎり次が最終の列車だな。ホテルがあるのは二つ向こう、だったか?」
「化野、駄目だ」
「…何が駄目なんだ? あいつとヤれて俺は駄目とか言ったら憤死するぞ、俺は」
どう言ったら思い留まらせることが出来るかと、ギンコは本気で言葉を探す。あんな苦しみ方をする化野を見るのは嫌だし、何より恐ろしくてならない。気を失うほどの頭痛だなんて、そんなものはギンコだって経験したことがないのだ。
「そういうことじゃないだろう、化野。忘れたのか、お前、あんなに苦しい思いをして…!」
「だから? だからお前と死ぬまでプラトニックの清い関係でいろっていうのか? 冗談じゃない! あぁ、列車が来た。行こう」
「化野!」
それでも止めようとしているギンコを、化野は正面からきつく見据えた。強い意志を感じる。そうだ、こんな目をした化野は、ギンコが何を言ったってもう止まらない。イサとのことを見せたからだ。詰まらない不安や疑心で、化野の気持ちを試したりしたせいだ。
列車が軋む音を立てながら、古びたホームに滑り込む。化野はギンコの手を引き一両目に乗り込んで、冷えた壁と自分の腕とでギンコを閉じ込めるように立っている。
「これ、さっきまで無かったな。あいつのつけた跡か? こんなの見せられて、平気でいられる訳が無い」
化野はギンコの首筋に触れながら、芯から忌々しそうに顔を歪めた。それから、ギンコがとうに自覚していることを、遠慮のない言葉で言い当てた。
「嫉妬されて、嬉しいか? お前。俺がちゃんとお前を好きになってるか、確かめたかったのか? 思惑通りで良かったな。お陰で俺自身にもはっきり分かった。分からせてくれて、有難うよ」
ギンコが好きだ。何かあれば、理性など軽く吹っ飛ぶくらい、本気で好きだ。誰より自分がギンコを知っていたいし、そのための苦痛なら喜んで受け入れたいくらいだ。少なくとも、たった一度の苦痛で怯んで、試しもせずにいるのは嫌だ。
「ギンコ…」
「…っ! あ、あだしの…、こんなとこで…っ」
化野の唇が、イサに記された跡を覆った。一箇所、二箇所、一々場所を確認して、舌でなぞり、唇で吸う。抵抗しようとして化野の胸についたギンコの手には、殆ど力が入らずにそこで震えていた。
どうせ列車は貸切で、自分達以外は車掌だけしか乗っていない。走っているのは田んぼや畑の間、山間の、人通りの無い田舎町。誰も見てない。いいや、見られたって構わない。
がたたん、ごとん、と列車が揺れる。重ねた胸の、化野の鼓動が聞きたくて、そのためにもギンコは無抵抗だった。軽く喉を反らして目を閉じて、音の無い声で名を呟いていた。
「早く…!」
「……なに、が?」
「いや…、早く二駅目に着け、って言ったんだ。もどかしい。まさかここでするわけにいかんし…」
「あ…そう、だな」
仮に、ここで始められたとしたら、自分はちゃんと抵抗しただろうか。ギンコはとんでもないことを考えて、それは言葉にせずにいた。外されていた襟のボタンを、震えている手で何とかとめて、ギンコはすぐ傍の座席に腰を落とした。
「座れよ、お前も」
疲れたようにそう言って、化野の着ている服の裾を引く。
「二駅向こうと言ったが、さらにもう一つ先の終点で下りる。少し歩くが、安く泊めてくれる馴染みの民宿があるんだ。母屋から隔たった離れの部屋があってな。仮にお前が、具合が悪くなって数日逗留するとしても、あの宿なら居座り易い」
予定した駅より向こう、しかも歩くと言われて、化野は不満そうだった。逃げるとでも思うのか、隣に座ったあと、若い恋人同士がそうするように、しっかりと手を握って離さない。
「信用がねぇな」
「当たり前だ。目的の為とは言え、身売りまでするような恋人を、そう簡単に信用していられるか。それと、聞きたいことがある」
「どんな…?」
「あの、イサって男、お前のどこまでを知ってるんだ?」
聞かれるとは思っていなかったので、すぐには返事が出来なかった。それに、化野がそんなにもイサを嫌っていては、困ることもある。
「それは…追々教える。それより化野、お前、これから先のことを考えてるのか?」
「…先?」
悪いが、化野はかなりの世間知らずだ。記憶を失った過去のせいも勿論あるが、それから後は例の理事長に拾われて、不自由のないまま飼われていたも同然だったからだろう。
住まいと職と金をも奪われ、ほんの少しの所持金と、たった一つ自分名義で作ってあったという口座の、僅かの貯金があるだけで、将来の見通しなどないのに、この先どうしていくつもりなのか。
「そ、それは、経験があるから、どこかの病院に勤めて…」
「あの理事長殿が、お前の職探しを妨害する可能性は?」
「…ある、な」
はぁ…っ、と大きな溜息をついたギンコに、化野は焦って懸命に考えた。
「えっと…。北海道とか、九州とか、離れたとこに行けばいいんじゃないか? そこまでは、多分あの理事長もっ」
「お前、不自由な暮らしは嫌か?」
「不自由って?」
「不自由は不自由だよ。物凄い田舎の、都会と違う不便な暮らしだ。自給自足とか、下手すりゃちゃんと電気も来てないとか、井戸で水汲むとかさ。そういうのはしたくないか? とても出来ないか?」
井戸、自給自足…。それって…。
ふと化野の脳裏に、何かが過ぎった。極最近、そういうのを何処かで見た気がした。いや、そうじゃない。経験したことがあるような…。
「それ」
『しゅうてんー。しゅうてんー。はていなだー』
間延びしたような声で、車掌が言って、すぐに列車は駅へと滑り込んだ。果稲田、と書く駅名らしい。錆びて柱から取れそうな、スチールの板にそう書いてあった。見るからに田んぼだらけの、しかも人の居なさそうな名だと思った。
「さっきの話」
ホームへと下りて、無人の改札を抜けながらギンコが化野に言う。
「宿へ着くまでに、考えてみてくれ。物凄い田舎で、物凄い不自由な暮らしをする気があるんなら、医者の勤め先に、たった一つだけ当てがある。そこに行ってもいいんなら、勿論俺も、お前と一緒に行くよ」
「わ、分かった…」
化野は黙々と歩きながら、真剣にそのことを考えた。俺はギンコが好きなんだ。ギンコと暮らせるなら、何処でもいい筈だし、その上医者の腕が活かせるなら何を躊躇することがあるだろう。
北海道だとか九州だとかへ言っても、理事長が何か手を回してくる可能性もないわけじゃない。それだけ顔が広い人物だったし、力があったのは化野も感じていた。それに…。
もしかして、その物凄い田舎とやらにいけば、イサというあの男とギンコは、もう会わないで済むのではないか。
「どこいくんだ、お前、そっちじゃない、ここだ」
首根っこを掴まれて、ネコの子のように引き戻される。ずっと周囲も見ずに歩いてきたが、どうやら目的の宿に着いたらしい。かなり歩いてきていた気がする。右を見たらどうやら一面が田んぼ。左を見たら、黒々と闇に包まれた林らしき影。空の月や星が眩しく見えるのは、ろくに街灯もないからだ。
目の前には、旧家のようなどっしりした立派な構えの、古い古い家が立っていた。
続
12/02/05
14へ続く ↓
想 影 sou ei 14
古くて大きなその家の中へ、ギンコは無言で入って行く。玄関の扉をがらりと開け、人の気配のしない家屋へ、声一つ掛けるでなく、無言で進んでいくのだ。いいのか、そんな、とかなんとか後ろからギンコに話し掛けながら、化野もその後ろへ続いた。
冷えた床板をぎしぎしと鳴らしながら、長い廊下を行けば、やっと灯りの灯った部屋へと行き当たる。広い部屋の真ん中の大きな卓についていた老人が、何一つ驚いた様子もなくギンコの方を向いてこう言った。
「珍しいねぇ、お連れさんがいるなんて。お泊りかい? いつもの小さな部屋でいいのか?」
「いや、今日は離れがいいんだが」
「…そりゃまたもっと珍しい。今日は何がお入用だね。情報か。それとも?」
湯飲みの茶をひと啜りした老人の面差しは、なんだか誰かに似ている気がした。それが誰だったのか気付いて、化野は微妙に顔を歪める。イサに似ているんだ。きっと血縁だろう。嫌な顔をした化野の気配を、振り向かずとも察したように、ギンコは肘で乱暴に化野の胸を付いた。
「ぐっ。…何す…っ」
「一泊と、それから情報も欲しい。こいつは腕のいい医者なんだが、今仕事を探している。ちっと恨みを買っちまって、多分どこでも断られるだろうって感じなんだ。日本国内ならどこでも構わないって言ったら、じいさま、どこを紹介してくれる?」
じいさま、と親しげに呼ばれた老人が、白い眉を持ち上げて化野を見、それからすぐに視線をそらしてこう言った。
「あぁ…例の噂の化野先生かい、あんたが。そうさね、もうあちこち敵さんの手が回ってるしなぁ。ま、どこでもいいってんなら幾つかあるさ。難儀だろうが『生きる』気になったんなら、わし等はちゃあんと手ぇ貸すよ」
老人は茶の入った湯飲みの中へと、視線を置いたままで、深く笑った。
「離れは空いてるから、好きに使いな。長いこと開けてなくて結構冷えてる。火鉢やなんや、使うんなら遠慮せずになぁ。時に…ギンコ」
「……はい…」
「無茶したようだが、よかったね…」
「…ありがとう、ございます」
「おい。…おいっ、て、ちょっと」
「…なんだよ」
「ここ、何なんだ。イサに関係あるんだろう。あの老人の顔が似ていた」
「なぁ…。ワタリ、って、知ってるか? 化野」
唐突にそう訪ねられ、化野は首を傾げて瞬いた。聞いたことも無い言葉だったが、ギンコが聞いた意味は分かった。あの激しい頭痛と共に、与えられた古い記憶の中を探すべきなのだろう。でも、思い出せない。それは多分、まだ自分に取り戻せていない記憶なのだ。
「いや、知らない」
「そうか。昔から居たんだ。他の人々とは暮らし方が異なり、情報や、手に入りにくい物品を売り買いするものたちがな。彼らもそういう一団でな、俺も昔から付き合いがあるのさ。イサも、その一人だよ」
離れへと続く渡り廊下を行きながら、ギンコは前を向いたまで言った。ワタリの末裔かどうかなんて知らない。そうだったらいいと、思ったことはある。昔から知っているものが、今も同じ世界にあるのなら、それだけでも心強いから。
「勿論、代償は必要になるが、そうと望めば、大抵のことは叶えてくれる。俺みたいな奴にとっては、本当に有り難い存在なんだよ」
だから、ずっと縁は切れねぇなぁ…。
ギンコについて歩いていた化野の足が、ふと止まった。足音がなくなったことに気付いた癖に、ギンコは彼を振り向きもせずに歩いていく。すぐ目の前の離れの障子を開けて入って行き、荷物を下ろして奥の押入れを開けていた。
「ええと、布団…。うわ、冷えてるな。今、じいさまから火鉢借りてくるから、少しここで待っ…。あ…」
化野がギンコの体を、後ろから強く抱いた。衝動的に、だ。
イサというあの男とギンコは、ずっと縁を切らない。多分、ギンコは化野の気持ちを分かっているのだ。知っていて、まるで釘を刺すようにそう言っている。どうしてだ? 俺と知り合う段取り作りのためだけに、今まで付き合っていたのなら、もういらないだろ? 切ってしまえ、そんな縁なんか。
「俺だけとか、適当なことを…っ。それが本当なら、あんなヤツなんか、もう」
「…適当なんかじゃないよ」
「嘘つきめ」
自分でも、無茶苦茶なことを思っているのは分かっている。イサにではないが、彼と繋がる人間に、ギンコは今また世話になろうとしているのだ。化野は自分ひとりでは何も出来ず、そのせいでギンコはいつまでも、イサや他の人間に頼る。
「嘘じゃない。どうしても、イサたちと切れなきゃお前が去っていくというなら、そうするさ。そうして欲しいか? 化野」
後ろから抱き締められたまま、ギンコはもがきもせずにそう言った。肩に回されている化野の腕を、ギンコはそっと何度も撫でて、押入れの中の布団に体を押し付けられたまま、じっと目を閉じていた。
嫉妬されていることが嬉しくて嬉しくて、胸が高鳴って仕方ない。そんなふうに思っている場合じゃないのに、本当に愚かだ。
「化野、ほんとに今から俺を抱くのか…?」
「…あぁ、抱くさ。嫌がったって離さないから、覚悟をし…」
「嫌がるわけ無いだろ。でも、苦しくなるようだったら、すぐやめてくれ。今日じゃなくても、いつだって俺はお前の傍にいるし、いつだってお前に抱かれるよ」
俺だけに、じゃないくせに、などと、いつまでも歪んだ思いを抱きながら、寒い部屋の中で、うっすら頬を染めているギンコを見る。寒くないか、化野、とギンコは言った。火鉢、借りてこようか、と。化野は首を横に振って、ギンコの唇を軽く塞いだ。
「抱き合ってすることしていりゃあ、寒くなんかないさ」
「頼むから、無茶をしないでくれよ」
そんな会話の後で二人で布団を敷く。互いを気にしながらすべての服を脱いで、どちらからともなく相手を腕の中に引き寄せる。素肌の感触に眩暈がした。思っていることも、きっと一つに重なっている。
お前が欲しい。お前が欲しい。
横たえて肌に触れると、ギンコは怯えたように目を見開いた。化野の表情や仕草を一つも見逃さぬように見つめて、少しでも苦しそうに見えたら、止めようと思っているのだろう。化野はそんなギンコの視野から逃げるように、彼の胸の上に顔を伏せ、腹の傷跡に口付けをした。
「早く…跡が消えればいい」
ギンコが体を張って化野を守った証の、深くて大きな傷の跡。だけどきっと、同じことがあれば、ギンコは同じように幾度でも化野を庇う。化野の傍に近付くためにイサに頼みごとをして、カラダで支払ったように、これからも化野の傍にいるために、必要ならばカラダでも何でも使うのだろう。
この傷跡が、なりふり構わないギンコを象徴している気がして、大切さともどかしさの両方が混ざり合う。
ひいやりと冷たい布団、古い畳の匂い。年降る天井や柱の色合い。昔ながらに枕元で灯した行灯。気付けば、
過去に帰っていくようだった。染みる寒さまでが、遠い記憶のどこかに触れる。外から聞こえるのが、風の音だと分かっているのに、化野は時々妙な錯覚をした。
「あぁ、波が、高いな。今夜は」
「…風だろう? 波の音に聞こえるのか?」
「そうか、そうだな。どうして俺は」
「過去の名残さ」
ギンコは穏やかに笑っていた。化野の髪を撫でながら、彼は静かに囁く。
「…俺には、酷く嬉しいことだよ」
ゆっくりと思い出せばいい。ゆっくりと。焦らないでいいんだ、化野。俺を愛してくれるのなら、他は何も思い出さなくていいくらいだよ。お前が取り戻す記憶を、俺が選んで与えられるのなら、こんなに怯えずにいられるのに…。
「俺を抱くのか? 化野」
そう、ギンコはもう一度聞いた。
「抱くさ」
「…あぁ、本当だな。波音みたいだよ。まるであの頃に、戻っていくようだ。抱いてくれ…化野…」
続
12/02/12
15へ続く ↓
想 影 sou ei 15
キスをしても、抱き締めても、ずっとギンコは怯えていた。化野の手が愛撫をするたび、慄くように震えて、そのたび逃げたがるように足掻く。逃げるな、と化野は言った。最初の夜が明けた朝と同じように、逃がさないように捕まえたままで。それでもギンコは繰り返す。心配そうに、声を震わせて繰り返す。
「なぁ…どこも痛くねぇか? 頭痛は? 吐き気や眩暈は? 化野、少しでも辛くなったら、もうやめ」
「うるさいぞ、ギンコ。すると決めて離れを借りたんだろう。気持ちよくてお前が喘ごうが、頭痛に襲われて俺が喚こうが、どっちでも大丈夫なようにここに来たんだろう? だったら観念して酔ってしまえ」
「ん…ぁッ」
そうして俺に、お前を全部見せて見ろ。
お前は俺のものなのに、
俺ばかりがお前を知らな過ぎて嫌になる。
胸を吸って喘がせて、傷跡をなぞって身を捩らせた。行灯はすぐに消えてしまって、入り込む月の灯りだけで化野はギンコを抱いていた。真っ白な肌が染まるのは見えなかったが、触れた肌が熱くなって、うっすらと汗ばんでくる。
大腿に口付けの跡を記しながら、その脚を広げさせて、躊躇なく口に含んだ。男同士でこんなこと、考えてもみなかったのに、したいと思った衝動は自然だった。
早く。早く酔ってしまえ。溺れてしまえ。自分から身を差し出して、抱いてくれと懇願するギンコを、また見てみたい。そして安心したい。できれば何処かへ閉じ込めて、俺以外と会うこともできなくしたいくらいの…。こんなふうに思ったことが、過去に何度もある気がした。
先端だけを口に含んで、舌でねっとりと舐め上げると、何をされているかやっと気付いたギンコが、シーツに爪を立てて身を仰け反らせた。
「や、ぁあ…ッ」
すぐに温い液体が滲んでくるのを、夢中で舐め上げた。ひくつく先端が嬉しくて、舌先で穴をこじ開けるように愛撫しながら、手を添えて扱いてやる。もっともっと溺れてくれ。俺だけを感じてくれ。頭痛なんか、吐き気なんか、俺は怖くないから。
無我夢中で愛撫しながら、ゆっくりと脳裏に巡るものを見た。高台から海を臨む風景。頬を撫でる潮風。古い木の箱を背中に背負い、坂道を登って訪れるお前を、大喜びで迎える俺。
夜になって、枕元の行灯に火を入れるお前を、後ろから抱いて布団に組み敷く俺。好きだと繰り返し囁き、嬉しそうにしているお前を見て、幸せだった。
でもいつも朝が来るのが怖かった。そろそろ行くよ、と何でもないことのように告げて、またあの木箱を背負って、何処へともなく去っていくお前。詰め寄る自分も見えた。行かないでくれ、傍に居てくれ、俺を好きだと言ったじゃないか。そっと静かに首を振って、お前の言うのが聞こえてくる。
俺には蟲を寄せちまう体質がある。
多く寄れば、必ず良くないことが起こるんだ。
だからずっと一つところにはいられねぇよ。
むし? なんだそんなもの。脳裏に見える俺は愚かなのだ。そう言われただけで諦めて、唇を噛んでいつもいつも見送るだけでいるなんて。好きなら付いていけばいい。何もかも捨てて、家も仕事も捨てて身一つになって、ギンコの行くところへついて行けばいい。そうだよ、今、そうしようとしている俺のように。
「化野…、あ、っ化野…」
切羽詰ったような声が聞こえて、化野は現実へ引き戻される。口内のギンコ自身が、びくびくと大きく震えて、今にもイきそうになっていた。
「イきそうか? 吸ってやろうか?」
口を離して化野がそう言うと、ギンコは目を見開いて、何かを言おうとした。そのまま同じように顔を伏せ、逃げられないように深く含み、小刻みに吸い上げるようにしてイかせた。また大きく背を仰け反らせ、ギンコは強い快楽に喘ぎながら精を放つ。
「ひぁ、ぁ…ッ、ぁああ…ッ」
ごくり、ごくりと最後まで飲み下し、舌で感じたことを言ってやった。
「随分濃いな…。昼間はあいつとした時は、イくまでしなかったのか?」
「ば、馬鹿…、そんなこと、聞…」
上擦った声が可愛く聞こえる。嫌がりながらも、表情を隠すようにギンコはうつ伏せになって、枕に顔を埋めてしまった。そんな彼の耳朶に唇を寄せて、白い背中を撫でながらその上に胸を重ねる。汗ばんだ互いの肌が心地よくて、寒さなんかほんの少しも感じない。
「今、また少し昔のことが見えたよ。頭痛なんか全然だ。俺は記憶喪失になった男だからな、色々と忘れた分、きっと頭ん中に余裕があるのさ。だから…今日はちゃんとしよう。お前が欲しいし、お前をもっと知りたいんだよ。いいだろう?」
「あ、でも…」
「でもじゃない。慣らすぞ、ここ」
尻に手を掛けて左右に開かせ、化野は今度はギンコの後穴に口を付けた。舌を捻じ込んで丁寧に濡らそうとするが、ギンコは嫌がって広げられた場所を閉じたがる。化野はギンコの両脚を掴んで、強引に左右に広げさせ、そこが閉じられないようにしてしまった。
「恥ずかしいか? 散々他の男にもヤらせたんだろう? 今更初心なフリなんか」
「…フリなんかじゃ、ねぇよ…。昔も…な、そうだったんだ。どれだけ経験があっても、慣れてても、お前に抱かれる時だけは、自分が若い娘にでもなっちまったみたいに、は、恥ずかしくて…感じちまって…。いつも…いつも、な、どうしようもないような、気持ちに」
ぞくり、と何かが、化野の身のうちでもがいた。情欲が、体の芯に火をつけていったのだ。まだちゃんと慣らせていない。このままじゃ駄目だと、理性で分かっていても止まれない。
「ギンコ」
「…あ、い、入れる…のか? ほ、ほんとに、また苦しくなったら、そん時は…。あっ、ぁ…ぁああぁ…」
化野はギンコの腰だけを強引に引き起こし、四つん這いにさせた格好で、無理に後ろから貫いた。まだ乾いていた後穴を、強引に割り裂くように、化野の茎が入っていく。震え上がって、強張らせたギンコの肌が、熱く、熱過ぎるほどになって、だけれど覗き見た顔は、とろけるように幸せそうだった。
「ぁあ…ぁあ…、ぁ…」
「悪ぃ、痛いだろう? 一回抜こうか?」
少し間の抜けたような問がおかしくて、その優しさが嬉しくて微笑んで、ギンコは首を横に振った。
「いいんだ、俺…は、平気だ。…お前は?」
「いや、なんとも」
「…じゃあ、もっと…」
「もっと…?」
そこまで言った癖に、また枕へ顔を埋めるギンコ。言葉を途中で止めた代わりに、僅かばかり腰を差し出してくる。化野は根元まで、ゆっくりとギンコの中に沈めて、それから何度か揺さぶって最後には中に放った。
余韻に溺れそうになりながら、じわじわと抜き取るとき、喘ぎ混じりで震えるようなギンコの息遣いが、また堪らなかった。それにもさらに溺れた。骨抜きになりそうだ、と、化野は芯からそう思った。
身を離した後、遅れておずおずと、記憶の波が彼を浸していく。聞こえる細かな音の集合を、波音だと思ったが、どうやらそれは蝶の羽音のようだった。無数の音の塊だ、恐ろしいまでの数。そして夜の闇から生まれたような黒い蝶の群。
視野を覆うその蝶の向こうに、何かがちらちらと垣間見え、段々と蝶が減ってはっきりと見えてくる。
敷かれた布団に、横たわる誰か。その周囲に積み上げられ、足の踏み場も無い程の、あれは書物か? 布団から出ている腕は枯れ枝のように細くて、その手をギンコがしっかりと握っている。そして泣いている。
まだ途切れていない蝶の羽音以外、何も聞こえやしないけれど、ギンコは叫んでいた。声が枯れるほど叫んで叫んで、泣いていた…。
ギンコ…泣くな…
過去に、俺はそんなふうに、
お前を置き去りにしたのか?
きっと知られたくない過去だろう。思い出すのも辛い記憶だろう。だから化野は言わなかった。告げるなんて、そんな酷いことは出来なかった。でも、恐ろしくて、震えてしまって、それに気付いたギンコが、疲れた腕でそっと化野を包んだ。
「何か見たのか?」
「あぁ…」
「…どんな?」
化野はうっすらと開いた目で、愛しいギンコを見つめながら言った。
「お前はいつも、俺を置いてどっか行っちまってたんだろう? そういうのを見たのさ。また置いていかれたくないからな、どこに行くんだって、俺はついてくよ…。おやすみ、ギンコ」
「……おやすみ…」
続
12/02/19
16へ続く