想影 souei 16
目を覚ました時、ほんの少しだが頭が痛かった。気付けば心配するだろうと思って、化野は精一杯の平静を装い、傍らの恋人に声を掛けた。
「おはよう、ギン…」
抱き寄せるつもりで伸ばした腕は、虚しく布団の中を彷徨う。ギンコが居ない。慌てて身を起こしたが、布団どころか部屋の中にもギンコの姿がなかった。彼の荷物も上着もなくて、胸の奥がひいやり冷えた。条件反射みたいに、化野の心は震える。また何ヶ月も、待つだけの日々が始まる気がして…。
けれど今度は、狼狽する前に気付いた。多分これは「今」の俺の「想い」じゃない。
からりと障子が開いて顔を覗かせたギンコが、じっと化野の顔を見る。表の廊下に、ギンコの荷物と化野の鞄、そして二人分の上着がまとめて置いてあった。
「やっと起きたのか? 化野、頭痛とか…」
「…大丈夫だ。いい加減、決まり文句みたいにそれを言うのは止せよ。具合が悪けりゃちゃんと言うから」
「なら、いいが」
言いながらまだ疑うように、ギンコの視線が化野の顔から離れない。溜息を一つついて、化野はギンコを捕まえ、うむを言わせず腕の中に抱き寄せようとしたのだが、するりと逃げられて笑われた。
「馬鹿、やめろ。時間がねぇんだ。大丈夫なのは分かったよ」
ギンコは敷いてあった布団を手早く畳んで部屋の隅に寄せ、上着を着て自分の荷物を持つと、化野へも無造作に上着を押し付ける。たった今起きたばかりで、なんの支度もしていなかった化野は、慌てて身なりを整えなければならなかった。
「なぁ、なんでそんなに急いでるんだ?」
「行く先が決まったんだよ。待っていてくれる人が居るから、のんびりしていられねぇ。うかうかしてると日が一日後になっちまう。…支度、いいか? 化野」
忘れ物がないか部屋の中を見回して確かめると、化野はギンコに頷いて見せて、歩き出した彼の背を追った。
「それで、どんなとこへ行くんだ?」
「…着けば分かるよ」
この屋敷に来た時と同じように、ギンコは誰かに挨拶することもなく外へ出ようとしている。昨夜通った廊下を行き過ぎるとき、化野は思わず脚を止め、あの老人の居た奥の部屋の方を見た。
「ちょっと待っててくれ。挨拶くらいしてきたい」
ギンコは何も言わずに立ち止まって、奥へ入って行く化野の背中を見ていた。化野は奥の部屋のすぐ外に立つと、言葉を掛けながら襖を開き、昨日とまったく同じ格好で、卓についていた老人にこう言った。
「…あの、御世話に、なりました」
「いいや…」
何をするでもなく、ただそこに座っていた老人は、化野の声に顔を上げ、短くそう返事をした。それから皺深い顔にゆっくりと、深い笑みを刻んだ。
「…この先は色々と難儀になる。励みなされよ」
「はい」
「あんたの命のあるうちは、離れんようにな」
「……はい」
まただ。多分、イサと同じに、この老人もギンコのことをよく知っている。急ぎ足に玄関まで出て行くと、そこで待っていたギンコが気遣わしそうに尋ねてきた。
「挨拶、してきただけか?」
「…励め、と言われた」
「はは、なるほどな」
「それから、生きている間は、お前から離れないように、と」
「……また、じいさまは難しいことを言う…」
化野はギンコの横顔を見つめて、誓うようにこう言った。
「言われなくても離れない。俺は昔の俺とは違うんだ。お前が一つところに居られないのなら、俺がお前のゆくところへ、どこへだってついていくよ」
喜んでくれると思ったその言葉を、ギンコは静かに聞き流した。ちゃんと受け止めて、胸にしまい込んでくれたのかもしれなかったが、うっすらと笑っただけの淡い反応が意外だった。
「ギンコ」
「…ん? 急ぐんだ。行こう」
「歩きながらでもいい、教えてくれ。イサも、あの老人も、お前のことをよく知っているように見える。もしかして、不死のことまで知ってるのか? どうしてだ? 誰にでも言うような話じゃない筈なのに」
ギンコは歩を緩めずに、握った左の手の甲で、どん、と化野の胸を叩いた。強い力じゃなかったが…。
「お前の時と同じだ。言われたんだよ、まずは抱えている全てを話せ、とな。大抵の願いは、多少無茶なものまでちゃんと聞いて貰えているし、そこから余所へばれる心配はしてない」
「俺はまだ、話してもらってないのに…」
口をへの字に曲げて文句を言う顔が、古い記憶の中の彼と重なって、ギンコは、くす、と笑いを漏らす。
「俺がわざわざ話さなくても『知った』だろ?」
「そんな事は無い。まだ分からないことだらけだし、夢で見たのは、バラバラの破片みたい記憶ばかりだったんだ。かけらばっかり幾つも見せられたって、それで何を理解しろっていうんだ。お前のことは、相変わらず分からないよ…」
「…別に急いで知らなくていいだろ」
「よくない。俺が知らないことを、イサやイサの身内が色々知ってるだんて、考えただけで…っ」
あぁ、そうだよ。こんなのはただの嫉妬だ。そんな満足そうな目をして、お前がその嫉妬を喜んでるのも知ってるぞ。
そうこうしているうちに駅に着いた。ギンコが切符を二人分買っていて、その横から彼の手元を見た化野が、同じ切符を買おうと財布を取り出すのだが、開いたその財布の中に、ギンコが彼の分の切符を放り入れた。
「あ…自分の分はちゃんと自分で」
「気にしなくていい。というより、これはお前の金なんだよ。給料の前払いみたいなもんっていうかな。さっき、じいさまが赴任費用代わりにくれた」
「…? なんだって? 意味が…」
そういえば、どこへ行くのかも聞いて無い。買った切符はこのローカル線の終点までで、その先どこへ向かうというのか。ギンコはうす曇の空へ視線を投げて、曖昧すぎることを口にした。
「海里に行くんだ。都会育ちのお前の、顎が落ちるくらいの田舎だぜ。そういやはっきりとは聞いてなかったが、ちゃんとした医者の仕事だから、行くだろ? 俺と一緒に」
「…いくさ。でもなんてとこに行くかくらい、先に教えてくれてもいいだろう」
「聞いたって、どうせ知らない土地の名だと思うぜ。何しろ地図にも載ってないんだから」
「…地図に」
人がちゃんと住んでいるのなら、そんなこともないだろうに。それとも過疎化が進んで立ち行かなくなった小さな町だと、地図にすら記載して貰えないというのか。
「島さ」
と、ギンコは言った。その言葉を聞いた途端、化野の耳の奥には深い波音が響き始める。懐かしい響きだ。切なくなるくらい懐かしい。化野が、何も言わず目を細めたのを眺めながら、ギンコは言った。
「不思議な島だよ。『蟲』がヌシをしているんだ」
独り言のように呟かれた、その言葉の意味さえ分からず、分かるように教えても貰えず、ただ、その「ムシ」という響きに、化野は酷く意識を引かれた。夢から受け取った沢山の記憶の中に、その言葉が何度も出てきたのを覚えている。
貸切みたいに空いた電車に揺られながら、化野はギンコの目を覗き込んだ。
「その…ムシ、っていうのはなんなんだ?」
邪魔をするように、電車が終点のホームに滑り込む。ギンコは立ち上がり、それでもこう言った。
「聞きたきゃ話してやるよ。お前には見えない生き物のことを…」
続
12/03/04
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想影 souei 17
かたん がたん かたん
列車の振動がいつまでも続いている。終点までは遠くて、多分まだ半分も来ていない。蟲のことを聞きたがった化野に、ギンコはまるで独り言のように、淡々と静かに語り始めた。
ムシと言っても、昆虫じゃない。動物でもないし、植物でもない。菌類、微生物、それとも違う。それらはすべて、誰の目にも見えるものだ。肉眼で見えなくとも、顕微鏡を覗いたり、拡大して撮った写真ならぱ見れるだろう? 蟲は小さすぎて見えないわけでもないし、写真には写らない。
確かに存在する生き物でありながら、見えるものと見えないものとがある。それが蟲なんだ。
昆虫よりずっと小さいのもいる。逆に人間より大きいのもいる。単独で生きているもの、番うもの、群れで暮らすもの、子を産むもの、産まないもの、百年も生きるもの、数秒の命しか持たぬもの。
まさに、無数、という言葉で表せるほど、彼らは多様な生物で、この世界の何処にでも存在しているが、それに気付き、見ることのできる人間は、今となっては、本当にほんの僅かだ。
昔は今より、見れる人間が多かったけどな。と、そう言ってギンコはどこか淋しげに笑った。
「いや…ま、待ってくれ」
思わず化野は、さらに続こうとするギンコの言葉を押し留めた。丁度列車は小さなホームに滑り込み、綺麗な緑の色をした雑草が、車窓の外の斜面いっぱいに見えていた。
「見えるものと見えないものがいるって、幽霊とか、そういう…? 霊も霊感があるか無いかで、見えたり見えなかったりするだろ」
「あぁ、分かり易い例えだ。見える人間からしたら、是も否もなく霊の存在を信じるしかねぇけど、見えてなきゃどうしたって、信じねぇか半信半疑かになるしな。幽霊がいるかどうかは、俺もどっちかわからんが、蟲は確かに存在するよ」
ギンコの寄りかかった窓の外、止まった列車から車掌が降りて、別の車掌とホームで話している。どうやら車掌の交代らしく、十五分ほど列車も停まったままとなるらしい。少し大きな町なのか、二人のいる車両にも、数人の乗客が乗ってきてばらばらに席に座り、本を開いたり、窓に頭を寄りかけて目を閉じたり。
ギンコは誰かに聞かれないようにと気遣ったのか、声を小さくして話を続けた。聞き漏らさないようにと、化野はほんの少しギンコの方へ身を寄せる。
蟲はどこにでも存在している。環境の変化に対応できず、絶滅したのも少なくはないが、それでも「いる」んだ。いつでもすぐ傍にいて、場合によっては何かの影響を及ぼしてくる。目に見えなくても関係なく、蟲のせいで病を患うものもいる。何か異変の起こることもある。
そういう病や異変を、出来る範囲でなんとかするのが、俺ら蟲師の仕事ってわけだ。まぁ、俺らって言ってもな、今、蟲師を名乗る人間が自分以外にいるかどうか、知らねぇんだけどな。
ギンコは視線を上げて化野を見て、なにやら難しい表情になっている彼に、小さく肩をすくめて見せた。窓の外をちらりと見やると、小さな野草の咲く日向に、まさにその蟲がたむろしている。
「ほら、そこキバナノアマナが咲いてるだろ? ホームの縁の方、小さな黄色い花だよ。見えないだろうが、あそこに蟲がいる…。やっぱ見えねぇもんは、ぴんとこねぇだろうけど」
ふと思い立ったように、ギンコは自分の荷物の中から小さな手帳を出し、短い鉛筆も何処かから取り出して、手帳の一ページに何かを描き始めた。
「こういうやつがいるんだ」
本当にざっと描かれただけのそれは、大小の丸を連ねて線で連ねたような奇妙な絵だった。影の部分も書かれていて、立体的なのがよく分かるのだが。
「え、どこにいるんだ? ムシだけじゃなく、その周りのものも描いてくれ…!」
「ん…、分かったよ、ちょっと待ってな」
軽く苦笑しながら、ギンコは手帳の別のページを開き、左右の見開きを使って、さっきよりも丁寧に書き始めた。ホームの向こう隅、古びたベンチのすぐ傍、雑草が生い茂り出している場所を、そのまま書き取るように。
さっ、さっ、と滑る鉛筆の線を食い入るように見ていた化野が、思わず、と言ったように呟いた。
「絵…巧いな、ギンコ」
「そうか? 別に普通だけどな。カメラなんて便利なもん、昔はなかったしな。記録をとるのには、どうしたって描かなきゃならんしな」
そして小さくだが、さっき言っていた野草もその絵の中に書き足される。それから蟲。大小の輪が、糸に連なるようにしながら、呼吸するように揺らいでいるのを、鉛筆画で表現できるだけ書き取った。
「こんな感じかな、ほら」
「おぉ…。ちょ、ちょっと貸してくれ、これ。えっと、あそこらへんだな」
と、わざわざ立ち上がって、化野は窓からそこが一番近く見えるところへ行こうとしているようだった。と、その時、電車がゆっくりと動き出す。もうゆるゆると走り出してしまってから、遅れて出発の車内アナウンス。
「あ、くそ…!」
なのに諦める様子はなくて、化野はギンコが絵を描いてくれた手帳を持ったまま、必死で車両の後ろの方へ駆けて行ってしまった。
「……ばっか…。どうせ見えねぇのに…!」
呆れたように言いながら、ギンコは笑った。吹き出した声が聞こえたわけでもないだろうが、もうかなり離れた向こうから、化野が彼を振り返って、不本意そうな顔になる。
「は、は…っ、お前らしい…。お前らしいよ、化野」
勿論、化野はすぐに戻ってきたのだが、閉じた手帳をギンコの膝の上に返す時、ムッとしたような声で言った。
「笑っただろ」
「…いや、まぁ、ちょっとな」
「折角描いてもらったんだから、ちゃんと見るのが礼儀だと思ったんだ!」
「あぁ、わかってるよ」
そう言いながら、化野の目はどこか輝いているように見え、ちらりとその表情を見たギンコが、むこうを向きながら口元の笑みを少し深めた。
「笑うなって」
「…笑ってねぇよ」
列車が走っているのは田舎町か、町と町の間の林や山間。大きな広葉樹が大きな日陰を作っていて、列車を一瞬だけ影の中へ飲み込んだ。ほんの数秒だったが、黒く染められた車窓に、そちらを向いたギンコの顔がよく映った。
ギンコは笑って…。いや、笑っているけれど、面白がってとか、そういうんじゃない。目を細めて、彼は幸せそうに小さく微笑んでいたのだ。
「ギン…」
「ん?」
「…………」
反則だろう、そんなの。そんな顔、いきなり…。
「…あのな、ギンコ、ちょっと…あっちにな、その…」
「なんだよ」
「ちょっと、来てくれっ」
化野はそう言って、いきなりギンコの腕を引っ張った。座っているのを無理に立ち上がらせ、ぐいぐいと引っ張って、列車と列車の連結部分まで来ると、ちらりと後ろを振り向き、素早くギンコの体を隅の方に押し付けたのだ。
隅と言っても、そこは昇降のためのドアのある場所だったし、両側の車両に連なる座席や、そこに座る何人かの乗客の姿も窓越しに見えるのに。
「お前、俺と背が変わんないしな…。もうちょっと小さかったら隠せるんだけどな」
そんなよく分からないことを言って、何だよ何がだよ?とギンコが怪訝そうに顔を上げた、その唇を、化野の唇が素早く覆っていた。
「ん…っ…。お、ま…っ」
「すまんな、こんなとこで。ほんとに…悪いけど、したくなったんだよ、キス。……ギンコ…」
「ちょ…っ、おい、あだし。ぅ…ん」
「…好きだよ…、好きだ」
「………わ、止せ…って…」
キスと、耳朶に唇を寄せた囁きと、それだけだ。列車の連結部の狭い空間、その隅に体を押し付けられたまま。化野は自分の体で、ギンコをなるべく隠すようにしながら、胸を重ね、膝の間に膝を入れてギンコを抱き締めた。
人を愛するというのは、不思議なことだと思った。ちょっと笑われるようなことをして、その後に、隠したつもりの顔で、ギンコに幸せそうに微笑まれた。それだけなのに、愛しくて、愛しくてどうしようも無い。キスと抱擁と囁きじゃ、もう足りない。
「好きだ…。ずっと、傍にいるよ…」
このままここで服を剥いで肌を重ねたい。鼓動も呼吸も全部感じて、自分のものだと実感したい。せめて、もっと濃厚に舌を絡めてキスを…。
「んん…ッ、馬鹿っ、もう、離せ…ッ」
列車の速度が緩くなる。鈍行だから次の駅まではすぐなのだ。どん、と胸を押されて引き離されて逃げられた。化野はすぐにギンコの背中を追わなかった。ここで追いかけたら、座席の連なる間でギンコを捕まえて抱き締めて、もっと凄いことをしそうで、我ながら怖いと思ったから。
ひいやりと冷たいドアの硝子に額を押し付けて、好きだ、と一言だけ呟いていたら、丁度そこから乗ろうとする乗客と目が合いそうになる。化野は顔を真っ赤にして、やっとギンコの傍に戻っていくのだった。
続
12/03/15
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想影 souei 18
「な、なぁ…ギンコ」
「なんだよ」
「怒るな、そんなに」
「別に怒ってない。なんでそんなこと言うんだ?」
なんでって、と、化野は口の中でぶつぶつと文句を言っている。見るからに怒ってるじゃないか。隣に座ればギンコは斜め前の席に移るし、せめてと思って正面に座り直せば、わざわざ腰を浮かせてまた斜めの位置にずれる。
これで怒っていないっていうんなら、他はなんだ? 拗ねてるとかか? 確かにあんなとこで、舌まで入れてキスしたのは悪かったかもしれないけど。
「化野」
「んん?」
名を呼ばれて喜んで顔を上げれば、ギンコはどこと無く眠そうな顔で、車窓に頭を寄り掛けていた。見ている前で目を閉じると、そのまま瞼を開きもせずに宣言する。
「少し寝るから。なんならお前も寝ておけよ。昨夜はお互いあんまり眠ってないんだしな」
「あ、うん、わかった」
なんで眠れていないのか、その理由を細かいところまで具体的に思い出して、化野がついつい熱い気分になり掛けたというのに、ギンコを見ればもう寝入っている。よくこんなガタゴト言う中で眠れるものだと思いながら、化野は彼の寝姿をそっと眺めた。
少しよれた地味な色のコートに、襟にボタンがいくつか並ぶ有り触れたシャツ。茶色のズボンと古びた革靴。足元に置いてある荷物は意外に大きいが、自分の持ち物はこれだけだ、と、前にそう言っていたのだ。化野からしたら、信じられない話だ。たったこれだけの中に、何を入れて持ち歩いているのか。
ちょっと見てみたい気がして、化野は無意識に、そろりと片手を伸ばし…。
丁度その時を狙ったみたいに、ガタンと、列車が揺れた。飛び上がるような心境で、化野は手を引っ込めて寝たふりをする。暫くしてそろりと片目を開けて窺ったが、ギンコは何事もなかったように眠っている。今の揺れのせいかどうか知らないが、彼の上着のポケットから、さっきの手帳が見えていた。
性懲りもなく化野はそれへ手を伸ばし、ひょい、と取って、音を立てないようにぱらぱらと開いた。一度はちゃんと声を掛けてから借りたから、それほど悪いとも思わなくて済む。蟲の絵が他にも書いてあるかもしれなくて、ドキドキしながら前の方へとページをめくった。
手帳は最初から最後まで、罫線しか入っていない地味なものだ。よくある万能手帳だの、最初から日付の入ったスケジュール帳とは違うが、ギンコが自分で日付を入れ、色んなことを書いてある。覚書というか、ある意味、簡単な日記のような…。
あ、これは、見たら駄目だ。仮にも人の…
心のどこかでは確かにそう思っているのに、ページを繰る手は止まらなかった。
毎日書いてたわけじゃないみたいで一ヶ月に二、三回の時が多い。読むでもなく、ただ目を文字の上に滑らせ、化野は日付を見ながら前へ前へと遡っていく。半年前、一年前、一年と半年前…。もっと前まで遡れる。二年前…。二年と一ヶ月前……。
ギンコがあの病院に勤めたのは半年前だから、それよりも随分前から使っていた手帳ということか。どうりでこんなに古びているわけだ。そして、とうとう辿り付いた、一番最初のページには。
見 つ け た
と、一言。
そしてその下に、消えそうなほどに淡い鉛筆画。これは…俺の姿だ…。白衣を着てる。手前に書かれてるのは、多分あの病院の、屋上の手すり。
あぁ、こんなに淡くて消えそうで、しかも小さな手帳に描かれた小さな絵なのに、胸に何かが刺さるようだ。
ギンコ…
ギンコ……
自惚れとかそんなのじゃない。本当に、どんなにお前が俺を好きか、ちゃんとわかったつもりでいたのに、それでもそんなこと、簡単に塗り替えられてしまう。思い知らされるのだ。何度も、何度も。切なくなるほど。いっそ泣きたいくらい。
これを、どこから見て描いた? 隣のビルの屋上か。俺は病院の屋上なんて、殆ど行かないのに、それでも姿を見ようとして、来るのをずっと待ってたとしか思えなくて。
車内アナウンスが次の停車駅を伝える。化野は手帳を静かに閉じて、それをギンコのポケットへ戻した。それからギンコから顔をそむけるみたいにして、目を閉じて、今更のように寝ようとする。夢でギンコを見て、自分に見せようとしない姿が知りたいと、そう思ったから。
化野が目を閉じると、擦れ違うようにギンコが目を覚ました。窓に寄りかかっている姿勢じゃ肩が凝るのか、ほんの少しほぐすように小さく体を動かし…。そして、彼は手帳へと視線を落とした。ポケットの中に、少し曲がって入っている。
見たんだろうか。ギンコは窺うように化野を見て、目を閉じた横顔を眺めた。改めて取り出した手帳に、鉛筆でその横顔を書き取ろうとして、やめた。これからは一緒にいられるのだから、必要ない。少なくとも、今は。
ギンコにとって、単調なこの列車の音さえもが愛しい。日焼けした座席の手触りも、雑音混じりで聞きにくい車内アナウンスも。
立ち上がり、座席を揺らさないように気をつけながら、ギンコは化野の隣に座った。触れなくても体温の伝わる距離で、もう一度目を閉じる。終点まではまだ少し時間が掛かるし、この列車を下りた後も、目指す土地は遥かに長いのだ。
列車を下り、新幹線に乗り換え、それを降りたら今度は長距離バスにまで乗った。バスを降りたのは早朝で、また横にならずに眠ったから体が痛い。平気そうにしているギンコを見ていたら、言いたいことが分かったみたいに言われた。
「旅は慣れてるんだ。次は船だが、フェリーの出航を待ってたんじゃ時間が掛かり過ぎるから、なんかに乗せて貰おう。ええと」
「な、なんかって…。おい!」
気付いたらギンコは先へ行っていて、化野は慌てて追いかける。人通りのない朝の田舎町を、あちこち見回しながら、歩いて歩いて、やがては港へ出た。漁港だった。潮と魚の匂いがする。ギンコはすぐ傍に小さな商店を見つけると、さっさと入って行って、日本酒のワンカップを四本、縦にびっちり入れたビニール袋を手に出てきた。
「酒? そんなもん、どうす…」
「お、丁度いいのがいるな。待っててくれ」
待ってても何も、さっきから待っていたり、置いていかれそうだったりして、いい加減そういうのに慣れてきた。返事を貰うより先に、ギンコは一隻の漁船に近付いて行って、そこでぷらぷらしながら煙草をふかしている漁師をつかまえている。
「おはようさん」
「…ああ゛? 見ねぇ顔だな、あんた何だい?」
「いや、旅行者かな。島へ渡りてぇんだ。乗っけてってくんねえかと思ってな」
「………話次第だが」
漁師は見るからに怪訝な顔だ。ワンカップ何本かで頷くとは思えない、が、ギンコの下げているビニール袋に気付いたようだ。伸ばした手でちょっと触ったと思ったら、にっ、と笑って足元に煙草を投げ捨て、それを長靴で踏んづけてこう言った。
「おぉ、こりゃいいな、熱燗かよ。しかも俺らの頭数分用意してんのか。気ぃ効くねぇお前さん。乗んな! 勿論、連れも一緒でいいからさ」
「ありがとよ。化野! 乗せてもらえるぜ」
「あ、ああ! すみません、お世話になります!」
いよいよ島へと渡るのか。つまりはもうじき、これから住む場所へと辿り付くのだ。ギンコと二人で、ずっと暮らしていける家に。化野は胸を高鳴らせ、板一枚の上を渡って、ギンコと共に船へと乗り込むのだった。
続
12/04/02
19へ ↓
想影 souei 19
たかが小さな漁船だというのに、思っていたよりもずっと航行は長かった。少し船酔いして、化野は船室のベッドを借りて横になり、気付かぬ間に少し寝入ったようだった。目覚めると幾らか気分が楽で、ギンコを探しながらふらふらとデッキへ出て行く。
海風を浴びて見回すと、すぐにギンコに姿が視野に入った。でも、見えたのはギンコの姿だけじゃなかった。もう会うことも無いだろうと思っていたのに、ギンコはイサと一緒に居たのだ。
「ギンコ…っ!」
声を上げると、ギンコより先にイサが彼を振り向いて、まるで友人にそうするように、片手を上げて合図してきた。
「一日半ぶりだね。元気そうで何よりだ。船酔いかい、都会育ちの化野先生」
「ほ、放っといてくれ…! それより何でお前が…!?」
「…嫌われたもんだねぇ。せっかくあんたの荷物を持ってきてやったのに」
見れば本当に、例の化野の荷物はそこに届いていた。箱の蓋を開けられ、整然とそこに並べられた本やファイルやノート、そしてほんの少しの衣服。そしてそれだけ一つ、離した場所に、データを大量に詰め込んだHDが置かれて…。
「誰に断って人の荷を…!」
「待てよ。これは決まりごとなんだぜ? 別に俺が興味や悪意で開けたわけじゃない。だろ? ギンコ。そもそもそういうこと何も教えないで、ここまで連れて来たお前にも非はあると思うけど?」
そう、なのか? それにしたって一言断ってから開けてもいいはずだろう? ギンコ、なんとか言ってくれ。
「すまん、化野。最初に言っておくべきだったんだが、お前に嫌がられたくなくて、黙ってた。だから俺が悪いんだ」
「だよねぇ? じゃあ今からでいいから説明して。あの島へ渡るってのが、いったいどういうことなのかをさ」
イサの言葉に、ギンコは黙って頷き、それだけぽつんと足元に離して置かれたHDに、手を伸ばして拾い上げる。
「実はな、こういうものはすべて、これからいく島へは持ち込めねぇんだ。こればかりじゃなく、電気で動くものも全部駄目だから。例えば腕時計とか、ケータイとかな」
「腕時計はさ、ぜんまいで動くアナログのやつで、ただ長針短針がついてるくらいなら平気なんじゃない? 柱時計とかは島にもあった気ぃするからさ」
よく知っているらしく、イサが横から口を挟む。
「一昔前は、プラスチック製品も駄目なんじゃないかって考えてたみたいだから、今はまだ以前に比べたら楽なんじゃないのかな。材質が近代的なのは問題なくて、ただ機械類を嫌がるっていうかさ」
「だが、少しでも駄目そうなのは、やっぱり持ち込まない方がいい。島の人たちの感情を逆撫でしちまうかもしれないから」
ギンコの言葉に反論はしないまでも、ちょっと呆れたようにイサは肩を竦める。
「便利さに慣れちゃってる俺なんかは、到底住めそうもないなぁ。まぁ、頑張ってよ。化野先生も、ギンコもね」
俺はこのまま、この船に乗せてもらって戻る。そう言ったイサの言葉に安堵しながら、化野はギンコの手にしているHDを受け取った。何故かは分からないが、持ち込めないというなら置いていくしかないのだろう。でも置いていくって、いったい何処に? 家は無いし、預かってくれる知人や友人もいない。だからと言って、捨てるのは…。
手にしたそれを、じっと見つめる化野。ギンコはそんな彼の顔を覗き込んで聞いた。
「大事なものなんだろうな。他の本やファイルと同じで、それも医療関係の資料とかなのか?」
「…そういうのも入れてあるけど、これは…」
化野は二十歳くらいのころ、それより前の記憶の一切を失った。このHDはそんな彼が、唯一身につけていたものなのだ。その時は中身は殆ど空で、医学書の一部を丸写ししたようなテキストが、いつくか入っていたきりだった。そしてそこに打ち込まれた名前で、化野は自分の名が「化野」なのだと知ったのだった。
だから…大事かと問われれば、彼にとって本当に大事なものだ。たったそれだけのものだとしても、これは記憶の一切を失う前の、彼の生きた軌跡。唇を噛んで項垂れた化野を、気遣うように見て、ギンコは言った。
「化野。だったら、これだけはイサに預かっていてもらえば」
「いいよ? でも預かり賃はギンコから貰うけど、それでも構わない?」
「…真っ平だっ」
激しく言い放ち、化野は殆ど衝動的に、それを海へ投げ捨てようとした。彼のすることを読んでいたように、それを止めたのはイサで、止めた理由はギンコが言葉にした。
「漁場に捨てんなって、漁師のおやじさんたちにどやされるぜ、化野。本当にいらないって言うんなら、ここで壊して廃棄物にして、船から廃棄されるものと一緒に本土で捨ててもらうことになる」
「…わかった」
ガシャ…っ。乱暴に足元にそれを放り出して、化野は自分の足でそれを踏み砕いた。曲がって歪んで割れてしまうまで、執拗に踏み付けて、ゴミ捨て場が何処にあるか聞いてそこへ捨てた。
「…すまんな」
「なんでお前が謝るんだ? お前がイサと、またそういうことになるくらいだったら、こんなもん別にどうってことない。気にしないでくれ」
大事なのは過去じゃない。
今と…そしてこれから先の未来、だろう?
囁くように告げられた言葉を、ギンコはゆっくりと噛み締めるように目を閉じた。船はやがて島に近付いてゆき、デッキから見た風景に、化野は不思議そうに首を傾げた。
「なぁ? 別にそれほどの田舎に見えないんだが。ちょっとくらいさびれてても、あれは普通の町だろう? 電線や街灯が見える。随分古い型だが、普通に車も走って…」
「あの島じゃない。ほんとに何も聞いてないんだな、あんた」
いつの間にか傍にイサが来ていて、デッキの手すりに両肘を付き、風に髪を吹き乱されながらそう言った。口元は笑っているが、何故か目が笑っていない。
「あんた開けっぴろげだから、こっちも一こと言ってやるよ。俺だって、あんたのこと好きじゃない。俺も結構、ギンコのこと気に入ってるんでね。横から出てきて掻っ攫っていくみたいで、何でだよって思ってんだ。蟲も見えないくせに。ギンコのこと、全然分かって無いくせにな」
「イサ…!」
「…嘘は言ってないよ」
イサはギンコに抱きついて、その髪に唇を押し当てた。押し付けるように顔を髪に埋め、掻き分けて首筋に口づけする。ギンコはそんな彼を邪険にはしなかったが、なんだか淡々としていた。軽く瞼を伏せて、イサの腕に手のひらを添えただけ。
化野は、電車の中でのことを思い出していた。あんなとこであんなことをして怒られたけど、でも、キスした時のギンコは、こんなふうじゃなかった。キスする時だけじゃない。化野が見るたび、手が軽く触れるたび、わななくように震えて甘い息をつくんだ。
「イサ、一応、礼は言っとく。荷物持ってきてくれて、ありがとう」
「なんだよ、いきなり」
イサは礼を言った化野を睨んで、それ以上はもう何も言わずに二人に背中を向けた。漁船は港に一度は入るが、ギンコと化野を下ろしたらすぐに帰っていくのだという。ギンコはイサが去るのを、振り向いて見もしなかった。
「お前って、ほんとに…」
俺のことしか大事じゃないんだな。
俺しか見えてないみたいに。
そんなことを思ったが、それを言葉にするのは止め、漁師たちに礼を言って、港についた船を降りる。さっき受け取ったダンボール箱の中身を、重さを半々にするように二つに分けて持ち、そこからは延々と海沿いを歩いた。港から砂浜、砂浜から岩の多い波打ち際。段々と人家が消えて、無人島のように見えるところまで来た。
重い本を持った腕が痛くなり、時々休みながらだったが、随分と長い距離を二人は歩いた。歩き始めてすぐ、人が待っているから、とだけギンコは言って、それ以上はずっと口を開かなかった。
「…見えるだろ、あの舟だ」
「え…、あれ? こ、小舟じゃないか」
示された場所を見ると、そこにはボートですらない小さな舟が一つ。櫂が二本と、長い竿が一本あって、化野やギンコよりも年若い男が一人、真っ白い服を着て舟の横に立って待っていた。
「その人ですか?」
「あぁ、そうだよ。よろしく頼む」
「禁忌のものは持っていませんね?」
「持ってない。ないな? 化野」
「あ、あぁ…持ってないよ。さっき捨てた、あれだけだ」
捨てた、という言葉を聞いて、男は微かに微笑んだ。それでも、言葉だけでは駄目なのだろう。
「改めさせていただいても?」
「あぁ」
「では、上着だけ脱いで頂けますか」
ギンコがコートを脱ぐ。化野もそれに従ってジャケットを脱いで、舟の中に置いた。男はまず二人の持っていたものから改め始める。そして、ギンコの体やズボンのポケットを簡単に確かめ、化野のことは、それよりも随分念入りに確認した。脱いだ上着の内ポケットの中に手を入れ、入っていた万年筆までよくよく見て、納得するとそれを元に戻しながら言った。
「失礼しました。こういうものに電池が入って、時計になってるのもあるそうですが、違うようですし、他にも気になるものはありませんでした。このままあちらに渡ります。どうぞ舟に乗って下さい」
「乗ろう、化野」
言われるままに、化野はその小舟に足を踏み入れる。ギンコも続いて乗り込んで、二人が乗ったあと、白い服の男は舟の後ろに軽く手を添え、ゆっくりと海の方へ押す。
すると、不思議なことが起こった。
まるで呼ばれるように、波が打ち寄せてきたのだ。干潮だったのが、その一呼吸の間に、いきなり満潮になったみたいな波の寄せ方をした。少し揺れますよ、と男は言って、身軽く舟に飛び乗ってくる。もう舟が揺らぐほどの波が来ているのに、彼の足先は少しも濡れていなかった。
「どうやら、歓迎されてるようだ」
「そうですね。安堵しました」
にこ、と、また男が笑い、櫂にも竿にも手を触れず、二人と少し離れて舟底に腰を下ろす。
「辿り付くまでは小一時間かかりますが、この分ですと何事もなく行けるでしょう」
男は不意に膝を付き、手をついて言ったのだ。
「ようこそ、ナキ島へ。一同を代表して、今日は俺、白也がお迎えに来させて頂きました。お医者の先生、どうぞ我ら島民をよろしくお願いします」
「あ、いや…こちらこそ…」
今、まるで意思があるもののように、波が舟を運んでいる。ただじっと乗っているだけで、化野にもそれが分かって、それまでの常識が通用しない場所に行くのだと、心のどこかで感じていた。色々と、聞きたいことは山積みになっていたのだが、化野は思わず自分も頭を下げる。
「落ち着いていらっしゃいますね。さすがはギンコさんが連れて来た方です」
白也はそう言って、随分と朗らかに笑う。小一時間と聞いていたのに、まだ舟が動き出して十五分かそこら。それなのに彼の笑顔の後ろには、すでにぼんやりと島影が見え始めていた。波の上にいるのは確かなのに、殆ど揺れないのも奇妙だ。
「すげぇな」
ギンコは化野の傍に身を寄せ、気持ち良さそうに潮のにおいを吸い込んでいる。
「こりゃぁすぐでも着いちまうぞ、今までで最速だ」
化野が改めて見ると、確かに島はもうすぐだ。砂浜に沢山の人々が集まって、こちらへ手を振っているのが見え、無意識のうちに化野は立ち上がる。どうしてだろう。何故だか泣きたい気持ちになった。
これが俺の住む場所。
あぁ、そうだ。
これからギンコと暮らす場所なのだ。
終
終…って! すいません、どこまで続くのか分からないので、一度「終」と付けさせて頂きました。次からは島暮らし編としまして「続・想影」で…す。ええー。駄目ですかっ? いや、だってここが一番キリがいいし…っ! どっ、どうぞご容赦下さいますよう。
ここから先は、螺旋シリーズの現代ものストーリーでありながら、まるで過去に戻ったかのようなシーンも書くと思います。蟲師のストーリーらしい美しい情景も書きたいです。はい。
というわけで、ここは逃げますーーーーーーー。
12/04/02