想 影  sou ei  6  





 好きだ

 愛している

 愛しているよ お前を


 言葉にしなくても零れ落ちてしまう想いが、ギンコ自身を揺さぶっている。腕を引かれ、ベッドへと導かれて、目の眩むような思いがするのだ。意識が途切れそうなくらいに高ぶって、今、この刹那を、胸へと刻み付けていく。

 化野が俺を見る。化野の手が腕を掴む。その言葉が自分へ向けて語られるだけで、魂の底から喜びが満ちるというのに。これから抱かれるのだと思うと…。あぁ、この瞬間に誰かが本当に、殺してくれるのなら、と、ギンコは愚かなことを考えた。

「怖いから震えてるのか?」

 意外そうに少し笑って、化野が言った。また、恨むような目で、ギンコは彼を見て、導かれるままにベッドの脇に座る。

「怖いからじゃ、ない」
「じゃあ、何故」
「…教えなきゃ駄目か? そんなことまで…」

 そう言って、ギンコが答えることを拒むと化野はいぶかしむような顔をする。

 だって、どうせ、嬉しいんだと言ったって、
 今、この瞬間のお前には分からないだろう。
 俺の痛みも、喜びも、罪の重さも。

 ギンコはシャツをするりと脱いで、何も言わずに胸を曝した。さっきの部屋よりも明るく思える月の明りが、化野の言っていた通りにベッドへ降り注いで、白いギンコの上半身が、隅々まではっきりと見えた。

 斜めに走る傷跡は、すっかり塞がっているとは言え酷く生々しくて、化野は右手を伸ばして指先でそこに触れた。びく、とギンコの肌が震える。

「……」
「本当に塞がっている。縫った跡も無いのに」
「…あ、ぁ…痛みも、もう…あまり無い」
「さっきの腕の傷と同じように、この酷い跡も消えてくのか?」
「多分、な…。ここまでの深手はあまり経験無くて、どの…くらいで消えるかは分から…、ん…、ぁ……」

 つう、と化野の指が傷の上を辿る。脇腹へ指先を滑らせ、今度は手のひら全体で、彼はギンコの胸に触れるのだ。跳ね上がりそうな声で、ギンコはそれでも言った。

「横に…なろうか? 先生、その方が、見やすいなら」
「そんな上擦った声で、よく言う」
「しょうがないだろ…。…お前が…好きなんだよ…」

 はっきりと声に出して、ギンコはそう言い、肩に手を添えられながらベッドに横になる。改めて化野が見たギンコの目には、涙が滲んで潤んでいた。
 怖いほど真っ直ぐな思いを向けられて、化野はいつの間にか、ギンコから視線が逸らせなくなっていたのだ。こんなに強く、真摯に思われたことなど無い。見つめたままで胸を辿ると、小さく開いた唇を震わせて、ギンコは喘いだ。

「あ…ぁあ…」
「お前って、結構、馬鹿だな。恋愛感情なんか一時の、ただの、気の迷いなんだぜ…?」

 すさんだ声でそう言った直後に、化野の唇が、そっとギンコの唇にかすめた。躊躇うように触れた癖して、そのあとでもう一度重なったキスが、同じ名前の行為とは思えないように、深くて、深い。

「…んん…ッ、ふっ」
「嬉しいのか?」
「……あぁ…」
「キスくらいでそんな顔」
「…お前には、分からないよ」

 ちらり、と笑ったギンコの顔が、酷く綺麗に見えた。

「男となんか、こんなこと、初めてだ」
「…知ってる」
「でも、やり方くらいは知ってるけどな」
「あぁ…だろう、な」

 胸に触れていた化野の指先が、偶然みたいに胸の突起に触れて弄る。浅く繰り返されていたギンコの息に、細い悲鳴が混じった。片手の指先が、シーツに刺さって掻き乱している。

 あぁ、化野、化野

 動き出した秒針が見えるよ

 あと、たった何分だろう

 お前が俺を思い出すまで…

 何十年も探し続けて、たった半年と少し前に見つけたお前が、とうとう今、俺を抱いてる。もうすぐなんだな、お前が俺のことを、好きだと、愛してると、言ってくれるまで、そうして抱き締めてくれるまで。
 そしてお前のこれから先の人生は、すべて俺に奪い取られてしまうんだよ。何もかも捨てて、お前は俺を愛する…。

 こんなにお前を愛しているのに、こんなにお前に愛されたいのに、どうしてだろう。時々俺は、無性にお前に憎んで欲しくなる。もしも本当に、お前に憎しみを向けられたら、その時こそ、俺は狂うのかな。

 もう、擦り切れそうな遠い記憶の中のあの日。お前を失ったあの時すら、狂うことも出来なかった俺なのに。あぁ、そうだよ、化野。お前の言葉通りだ。

 俺は馬鹿なんだ。こんなに愚かなんだ…。


 そうして、甘い息遣いが、部屋の空気に幾つも溶けている。月が見ているような気がして、化野は途中で、カーテンを半端に引っ張って閉めた。

 指先で触れても、軽くキスをしても、濃く唇を求めても、果ては馬鹿だと貶めても、それでもギンコは嬉しそうだった。ずっと潤んでいる瞳も、うわ言みたいに名前を呼ぶ唇も、愛撫のたびに乱れていく白い髪も、シーツを掻く指も…。その一つ一つに喜びが染みて見えた。

 衣服を全部奪われたその体の隅々までで、多分、ギンコは俺を愛している。それが分かる。ひたされるように。溺れそうなほどに。

 全身全霊を掛けて、なんて言葉は、ドラマやなんかでよく耳にするようなただの例えで、現実にはそんな思いは存在しないと、笑い飛ばすことも、きっと今は出来ない。だって、そんな姿が今、目の前にあって、俺へと想いを見せつけているから。

 何で知ったか覚えてない程度の知識で、たどたどしい化野のやり方を、ギンコは酷く甘い目で見ている。脚を開かせてから、自分のジッパーを下ろして、高ぶったものを取り出すとか、どうしたら入るか分からないまま、何度もしくじったりとか、そんなことまで、幸せそうな、とろけそうな目で見るのだ。

 居た堪れない気がして、化野は一度きり、つい言った。

「…慣れない俺とじゃ、きっと随分痛いから、入れられたらそんな顔してられんだろうよ」
「あぁ、でも…いいんだ…」

 ギンコは笑う。滲むように。苦痛までも包むように、静かに。

「お前がくれるものなら、痛みだってなんだって、俺は嬉しいんだ、化野…」






11/12/04

↓7へ続く

















想 影  sou ei  77





 結婚すると言った時、あんな顔して嫌がったくせに。
 抱いてくれなんて言ってきて、あんなに必死だったくせに。
 なんだって嬉しいなんて、お前は、随分嘘つきだよ。


 広げられた脚の位置を微妙に変えて、ギンコはシーツから腰を浮かせた。導かれるように体を重ね、どちらかというとギンコのリードで、そうしてそれでもたどたどしい仕草で、化野はギンコの中に自身を埋めていく。

 浅い息を無理にでもゆっくりに変えて、ギンコは力を抜いて受け入れる。中を小さく震わせながら、ぽつりと言った。酷く苦しそうに。痛みを堪えるみたいに、顔を歪めて。

 あだしの … あぁ、俺を
 許してくれなくたって、いいんだ …
 許されないようなことを、
 俺は、お前にするんだから。

 そして、その時、引き攣れた声を上げたのは化野だった。

「…ひ、っあ…ぁ…ッ!」

 頭に、何か刺さったのかと、思ったのだ。それほどの痛みだった。化野は激しく仰け反り、そのままギンコの胸の上に額を伏せる。彼の唇から零れた唾液と、額を濡らす汗とを感じて、ギンコはもっと、顔を歪めた。初めてじゃないから、分かる。これは「あの痛み」だ。何度この瞬間を繰り返しても、同じように「化野」を訪れる苦痛。

 思い出すことと、引き換えに。

「あ、化野…」

 震える手で、ギンコは化野の額に触れ、首筋に触れる。痛みは一瞬で過ぎ去ってなどくれない。苦痛にのたうつ化野の体。ギンコと繋がっていた箇所が、捻じ切られるように離れる。
 そうだ、こうして化野はいつも、俺のせいで苦しむのだ。思い出して行くのと同時に、何度も何度も吐き気や頭痛に苦しめられ、それでも思い出してくれるのだ。
 
「あだしの…、化野…」
「ぁあ…あッ、く、ぅ、ぁあ…!」
「あだし…」
 
 彼の体を支えながら、ギンコの指が震えている。苦しむのを見るのは、初めてじゃなかったが、それでも、異変に気付いて動揺する。こんなに? こんなに苦しむのだったか…? 体が痙攣するほど? 言葉も出せないほどに?

「や、嫌だ…。化野…こんな…」

 自分の身を切られるような辛さが、ギンコの心を引き裂いていく。こんなことなら、思い出してもらわなくてもいい。忘れたままでいい、苦しめるために出会ったんじゃない…!

 びく…、と一際大きく痙攣して、化野はそれきり気を失った。そんな彼の体を仰向けにさせ、ギンコは彼の鼓動を聞いた。息遣いを聞いて、唇を噛んで、化野の胸の上に、重みをかけないように額をつける。

 そんなのは、酷い嘘だ。
 思い出さなくていいだなんて、
 本当にそう思っているなら、
 俺はもう、俺じゃない。

 傍にいたら、目を覚ましたとき、また化野は苦しむのだろうか。離れれば苦しめずに済むのだろうか。大切そうに、化野の髪を撫でて、ギンコはベッドを離れた。裸のなりで、肩にシャツをひっかけて、離れた場所にある椅子に座った。このまま出て行くことも出来ない自分を、彼は嘲笑う。

 好きだと、愛している、と、そう告げながら、なんてエゴだろう。苦しめると分かっていて、すべてを奪うと分かっていて、それでもお前に愛されたいだなんて。愛して欲しいだなんて。

 疲れた顔をして、ぼんやりと椅子の背に寄り掛かって、明け方の光が窓から差す頃、そんなギンコが気付かないうちに、化野は意識を取り戻していた。仰向けの楽な格好で横たえられて、ちゃんと胸まで毛布を掛けられて、化野は首だけをそっと動かして、ギンコの方を見ていた。

 ギンコはうっすらと目を開いてこちらを見ているのに、放心しているのか、化野が自分を見ている事に気付いていない。青ざめた顔をして、苦しそうな表情をしている。涙が見えないのに、ギンコが泣いているように見えた。

 化野は、思っていたのだ。

 さっきは、実際、頭が裂けるのかと思い、あまりの激痛に意識が一気に飛んで、気を失う前に、たった今、目で見ているものも触れているものも、何も分からなくなっていた。その代わり、頭の中に流れ込んできたものを、彼は感じていた。

 何十、何百という映画のワンシーンを、凄い速さと精度で目の前に見せ付けられた気がする。しかも一つ一つに現実感を伴って、だった。見たのは自分の姿だ。それと、傍らにいるギンコと。そうして化野は、何度もギンコと出会い、彼を愛し、そうして…何度も彼の前で、死んだのだ。

 不死だ、とギンコは言った。不老不死だと、死ねないのだ、と。聞いたことと、見せられたものとを突き合わせて、分かることがある。とても理解し難いような、でも、恐らくは現実で、真実であることが、分かった。

「不…死…」

 ぽつり、と化野は言った。あぁ、何でその言葉だ、と自分の不手際に腹を立てながら、仕切りなおす気持ちで彼は言う。

「…ギンコ?」

 ぎくり、としたように、ギンコは顔を上げて、泣きそうな目をして化野の姿を見た。

「あ…。だ、大丈夫…か?」
「…何が? あぁ、頭痛とかか? うん、まぁ、まだ痛いが、今は随分楽だよ。さっきはただの頭痛ごときで、死んだかと思ったがな」
「…そうか…」
「頭痛薬とか、効くのかな、この痛みに」
「………さ、ぁ、多分…」

 ギンコの受け答えに、化野は軽く笑う。

「だって、ただの頭痛と違うだろう? これは、膨大な量の記憶を、いきなり受け止めさせられた脳が、堪らず悲鳴を上げたとかそんなのだ、きっと」
「化野…」
「なぁ? 抱いた後で色々教えて貰おう思っていたが、なんなんだ、これは。抱いた途端に、聞く必要が殆どなくなった気がするんだがな」

 横になったままで、化野は両腕を持ち上げて自分の額に触れた。痛みは微かにあるものの、今は随分楽だった。

「おい、なんて顔してるんだ、お前。分かってて抱かせたんだろう? 違うのか? いろいろ見えたからな、隠そうったってもう無駄なんだぜ。こっち、来いよ、ギンコ、今すぐだ」

 片腕を差し伸べて、化野は歪んだ笑みを見せる。ギンコは化野が差し伸べてくる手に近付き、ベッドを軋ませて、彼の傍に座った。

「『結婚の承諾をする前に、たった一度でいいから、俺を抱いてくれ』か…? 参ったよ。俺のこと、随分荒んでるとか言ってくれといて、お前だって相当だろ」

 このやろう、出来るか、他の女と結婚なんて。

 溜息混じりにそう言った化野の言葉が、ギンコの胸に刺さった。項垂れて、ぽろぽろと涙を零すギンコを見て、少し意地悪そうな顔になり、化野は笑っていた。満足そうな笑みだった。





11/12/11

↓8へ続く



















想 影  sou ei  8





 
 来い、と、化野はそう言った。言いながらギンコの腕を引いて、抗い掛けるのを許さずに、抱いたままベッドに横になった。片手で毛布を肩まで引き上げて、間近からギンコを見る。真っ直ぐな目だ。ひねくれた彼に似合わないような、真摯な。

「なぁ、ギンコ…」
「ま、また、酷い頭痛が来ちまう…から…」

 だから止せ、とでも言いたいのか、ギンコはふるふると首を横に振る。そのたびに白い髪が乱れるのが、堪らなく綺麗に見えて、じっと見つめたままで化野が言った。

「なんだよ、こうして抱いてるだけでも、毎回ああなるっていうのか? ずっとか? それ」

 抱いてくれって言ったくせに、たった一回で「ドクターストップ」とか、冗談だろ、と、化野は笑う。それでもギンコが不安そうにしていると、渋々腕を解いて、でも代わりに顔を寄せて唇を重ねた。

「キスは平気らしいな」
「…ん、ッ、ふっ…」

 また口付け、離してはまた吸い付く。ちゅ、と小さく音がして、遠ざかったと思ったらまた重ねられる、そんな繰り返しが、暫く終わらない。ギンコの切ない目から涙が零れる。

「駄目だな…。余計したくなる…。男と初めてなのに、初めてじゃないみたいな。いや、初めてじゃないんだよな、本当は。過去に…何度も…」

 する、とシーツの上を化野の手のひらが撫でた。そのままギンコの腿のあたりに触れ、するするとズボンの布地の上から、化野はギンコの脚を撫でる。

「こういうのは?」
「ぁ…あ…っ」
「抱けと言ったくらいだ『セックス』ってのがキーなんだろう? だったらこのくらい…」
「…ッ、や…っ」

 ジ…と、ファスナーが下ろされて、その中に化野の指が入ってくる。人差し指の先だけで、遊びのようにそこを弄られて、ギンコは辛そうに身をよじった。
 意地が悪いと言われ、自分であっさりそれを認めた化野のこと、楽しそうな顔をしながら、とうとう手首までをそこに忍び込ませて、彼は右手全体でギンコを愛しみ始めている。いつの間にかボタンも外され、ズボンの前は既に開けられていた。

「気持ちいいか…?」
「んぅ…、ぅ…あっ、ぁ…っ」
「…男が喘いでる顔が、こんな色っぽいとは思わなかった。見てるだけで、こっちまで」
「やめろ、って…あだし…っ」

 ごそ、と化野が体を小さく揺する。中途半端で苦しい姿勢だったが、彼はギンコのそこに片手を突っ込み、もう片方の手で、自分のそこに触れた。もう、随分前からすっかり高ぶって、本当はすぐでもどうにかしたかったから、自分の手で触れても充分感じる。
 ましてや今、目の前でギンコが泣きそうな顔までして喘いでいるのだ、先走りの精液で、そこを既に濡らしながら、言葉ではいつまでも嫌がり、体はちっとも嫌がっていなくて。

「あ、あだし…の…。もう、い…っ、いっ…ちまう、っ…」
「どうしたらイくって? こうか?」
「ふぁ…ッ、ぁ、ひ…っ」

 するり、と、根元から先端へと指先で辿り、先端の穴をぐりぐりと弄ってやると、ギンコは体を痙攣させながら、とうとう化野の手のひらに放ってしまった。
 汚れた手のひらを気にしながら、腕の中ほどでギンコの頭を抱き寄せる。素直に引き寄せられ、化野の肩に額を押し付けながら、ギンコは小くて淫らな揺れを感じていた。化野が左手で、自身のものを扱いている「揺れ」だ。 

「…ふ…、滑稽だよなぁ…、男、二人で…」

 上擦った声でそう言った暫く後、化野の体が跳ねるように震え、少しの間、彼は目を閉じていた。疲れてだるくて眠くて、見るからにそんな顔をしながら、傍らのティッシュを数枚引っ張りだし、手のひらの汚れを適当に拭き取った後で、彼は枕に頭を乗せなおす。

「逃げるなよ? ギンコ」

 差し伸べた化野の手が、ギンコの片方の手首を掴まえた。そう言った途端、すとんと眠りに落ちた化野を、ギンコの眼差しが見ている。
 逃げるなよ、なんて…。逃げるはずがないのに、どうして化野はそんなことを言ったのだろう。罪の重さに喘ぐギンコを、どこかで分かっているのか。それともただ、傍にいさせたいと思ったからなのか。

「…逃げないさ…。俺の居場所はいつだって、お前の傍にしかないんだから」

 手首を掴んだ化野の手に、ギンコはそっと額を付けた。沢山、俺のことを思い出してくれ。でもどうか、苦しまないでくれ。思い出すために、そして、思い出した過去のせいで。

 月は雲に隠れたのだろうか。部屋の中は随分暗かった。暗がりが、ギンコの目には、蝶で埋めつくされた「黒」に思える。真っ黒な中を裂くように、白い蝶が一匹だけ。
 酷く怯えて、ギンコは化野の胸に顔を埋めた。聞こえる鼓動を数えながら、やがては彼も眠りへと落ちていた。

 


「……随分待って頂きましたが、今日はお返事を…。え? いえ、大丈夫ですよ、かすり傷一つ負っていませんから。それよりも…」

 朝の光の中に、化野の声が聞こえていた。窓辺に立って、ケータイを片手に持ち、硝子にもたれて彼は誰かと話をしている。

「申し訳ありません。ご希望に添えないので…。はい……。えぇ…今日ですか? 勿論です。はい、わかりました」

 相手が電話を切ったあと、そのままケータイを耳の傍に持って、化野はぼんやりと何かを見ていた。電話の間も、彼はずっと見ていたのだ。ベッドで毛布にくるまり、疲れた顔をして眠っている恋人の姿を。

「寝たふりだろ、下手だな」

 冷たいくらいの声で彼がそう言うと、ギンコの肩が小さく跳ねた。黙って起き上がり、くしゃくしゃになった髪を自分で撫でて、ギンコは恐る恐る化野の方を見る。彼がどんな顔をしているのか、見るのが怖かったのだ。
 化野は殆ど無表情だった。無意識の仕草だろうが、片手で額に触れて眉を寄せる。

「頭痛がするのか…? もう少し、横になってた方が」
「だから、休んで治るものじゃないんだろ? 昨夜はあれから何もしなかったから、追加で思い出してもいないし、頭が痛んだわけじゃない。ただ…最初のあの、凄いのを思い出しただけだよ、ギンコ」

 思い出しただけで蹲りたくなるような、あの凄まじい痛み。獣のように呻いて、もがいたのかもしれないが、自分ではそれも覚えていない。恐らくは、膨大な記憶を得るための痛みなのだろうが、逆に自分の記憶の一切が、ばらばらに弾け飛んでしまいそうな…。

 記憶喪失、か? 俺がまた?
 あぁ、冗談じゃないな。真っ平だ。

 歪んだように笑った化野を、ギンコはただただ心配そうに見ている。化野はそんな彼の方を見もせずに言った。

「ちょっと出掛けてくる。すぐ戻ると思うが、戻らなかったら適当にそのへんのものを食べるとか、テレビを見るとか、好きにしててくれ」
「…どこに」
「さっきの、聞いてたんだろ? 例の、自分の娘を俺にくれようとした人のところだ」
「戻らなかったら…って?」

 問い掛けられて、化野は振り向いた。何か、ショックを受けたような顔をしたギンコを、彼はいぶかしむように見る。

「話が長くなるかもしれないからだ。…おい、二度と戻らないって意味じゃないぞ」

 もうシャワーも浴び終えたらしく、ワイシャツとスーツに身を包み、ネクタイをしめる化野。出掛ける支度をしながら、彼はもうギンコの方を見ていない。記憶は戻った筈なのに、あれがただの夢だったのかと、ギンコは不安になる。

「俺も、ついていっていいか…?」
「…いいけど。なんだ? お前に愛の言葉の一言も言わない俺が、ライバルの女を振るのが見たいのか? 案外いい趣味だな、お前」
「そ、そんなんじゃ…」

 言い当てられて、ギンコは震えた。そんなんじゃない、なんて、言い切ることは出来なかった。半分は当たっていたからだ。残りの半分だって、当たったも同然。化野が何も言ってくれない分、何かで少しでも安心したい。それで他の誰かが泣くとしてもだ。

「待ってくれ、俺も急いで支度する」

 ギンコはベットから抜け出しながら、何も言わずにこっそりと見た。好きで堪らない化野の姿を。記憶が戻っても、こんなにもつれない化野の背中を。






11/12/22

9へ続く↓

















想 影  sou ei  9 




「見えるだろ? あの豪邸だよ。俺の勤め先の理事長の御自宅さ」

 化野は助手席のギンコに、そう言って話しかけた。変わらない冷めた物言いで、返事をするにも言葉が少なくなる。ギンコは何も言わずに顔を上げて、金の有り余っていそうな大邸宅の外塀を眺めた。ちらり、と横から化野が彼の様子を盗み見て、世間話でもするみたいに不意に話し出した。

「俺は実は、二十一から前の記憶がなくてね。お前なら、そういうことまで知ってるのかもしれないが」
「…あぁ」

 詳しくではないが、確かにそれも知っている。化野という名前と、医学に関する詳しい知識。それ以外の一切を持たずに、化野はあの大病院に雇われたのだという。

 理事長の遠縁で、今までずっと外国にいたのだという触れ込みだったようだが、それが事実じゃないのは、化野本人にはすぐにわかった。高級マンションの一室をあてがわれ、願ってもない医者の地位を与えられて、何の不満も不自由もなかったけれど、理事長の家族や他の親族と引き合わされることは一度もなかったからだ。

「意を決してはっきり聞いたよ、遠縁だなんて嘘なんだろうって。どういうつもりなのかってね。ふとしたことから俺のことを知って、これは将来有望だ、と思ったんだそうだぜ。今思えば、その頃から俺は、娘婿の候補に入ってたんだろうな」

 娘を貰ってくれ、と言われて、そこですぐに納得がいった。なるほど、記憶が無いのを幸いと、理想の娘婿、兼主治医になるように、俺は育てられてたっていうことか。でも恩があることに変わりはないしな。他に結婚したい女もいなかったし、何もかもどうでもいいと思ってた。

 現にその結婚話も、構いませんよ、と、化野はその場で即答しかけた。返事はゆっくりでいいと言われたから、とりあえず数週間の猶予を貰ったが、YES以外の返事なんてあり得ないことは、理事長だって分かっていただろう。

「なのに今更、断っていいのか…?」
「なら、断らなくていいっていうのか? お前。断らせる気、満々でセックスに誘ったくせに」

 はっきりと聞き返されて、ギンコは言葉をなくした。そうだよ、だから急いだんだ。仮に道端でやる羽目になったって、返事の期日が来る前に抱かれたかった。そこですべてを引っくり返して、化野を自分だけのものにするためにだ。
 返事もせずに項垂れていたギンコは、ふと、視線を感じて前を見た。遠くからの視線だ。家の中から…。

「…二階の窓から、誰かこっちを見てる。…女だ」

 ギンコの言葉に、化野も視線を上げてその窓を見た。黒髪の女が、片手を窓辺に添えてこっちを見ている。

「ふーん。あれが理事長の娘か。年から言えば孫みたいなもんで、今年二十歳だそうだが、結構な美人って感じだな。…お前のことも見られたかもしれん」

 大きな門を過ぎた向こうに、来客用かなんか分からないが、何台か車を停められるスペースがある。まさかギンコを連れて入っていくわけにいかず、化野は車を停めて一人で外へ出た。

「じゃあ、ここで待っててくれ」

 化野はそう言って、ドアを閉める前に車内へともう一度手を伸ばして、彼はギンコの白い髪に触れた。その指が優しく思えて、ギンコの胸が深く鳴る。素っ気無くても冷たくても、化野は化野だ。態度や言葉なんかじゃ気持ちは揺らがない。彼を愛している。

「あぁ、待ってるよ、ここでずっと」
「…今にも死んじまうような顔、するなよ。すぐ戻るさ」
「化野…っ、頼む、こ、断ってきてくれ…!」

 突き動かされたように、そう口走ったギンコの唇へと、化野の指がそっと触れて離れた。大きな鉄の門は、化野が近付くと、どこかで見てでもいるように自動でゆっくりと開いた。大きなその門が、化野を飲み込んでしまうように見えて、ギンコは一人、強く目を閉じるのだった。



「お父様、私、やっぱりこの人じゃ嫌」

 初めて会った女の口から、いきなり飛び出した言葉はそれだった。化野は目を見開いて、その色の白い小柄な女を見ていた。最初、部屋には理事長だけがいて、現れた化野を、色々責め立てようとしていたのかも知れなかったが、突然入ってきた娘の発言に、言葉を失ってしまっている。

「い、嫌…って。だが、前からこの人がいいと…」  
「だって、写真とお父様のお話でしか知らなかったんですもの、御本人を前にしたら、気持ちが変わることだってあるわ」

 慣れた様子で車椅子を操って、娘は化野のすぐ前までやってくると、不躾にじろじろと彼を眺め回す。最後にじっと彼の目を見つめてから、もう一度父親に向き直ってはっきりと言ったのだ。

「頭がよくって仕事熱心で優秀で、お父様にとっても恩があって、きっと私のことを大事にして下さる、そういう方だと聞いてたわ。でも私、この方と結婚するくらいなら…、お父様が二番目にお勧めの、もう少しお年が上のあの方の方がいいみたい」
「そ、そんなことを言っても、お前…」

 たじたじ、という言葉を絵に書いたような理事長のうろたえぶりに、化野はつい笑ってしまいそうになって堪えた。

「そうそう、お父様。私、絶対ずっと飲んでいなくちゃならない、いつものお薬、間違って捨ててしまったみたいなの。手元には今日の分しかなくなってしまって、どうしたらいいかしら?」

 それを聞くと、理事長は見る間に青ざめた。最後に威厳を掻き集めた様子で、化野の方を強く睨むと、

「君にはもう用は無くなった。娘のことだけじゃないぞ、病院でもだっ。出て行きたまえ!」

 そんなせりふを投げ付けて出て行ってしまった。慌てるあまりか、大事な一人娘を、化野の前に置き去りに。娘はまた車椅子を操って、化野を見上げて言ったのだ。にっこりと笑う顔が、さっきまでよりずっと穏やかで理知的に見えた。

「ごめんなさいね、振り回してしまって。聞いてるんでしょう? あと四、五年しか生きられない可哀想な娘なんだって。でも、だからこそ私、とっても理想が高いの」

 そう言って彼女がいくつも並べた理想は、あまりにも突拍子がなかった。

 娘の喜ぶ縁談だと、父が思える程度に優秀な人。
 人生に興味が無くて、どうでもいいと思っている人。
 それでいて、出世や名声、お金が大好きな人。
 余所に恋人がいてもいいから、それを完璧に隠せる人。
 病気の妻が死ぬまで、そんな暮らしでも満足な人。
 つまり、なるべく私が罪の意識を持たなくてもいい人。

 そして彼女は最後に、付け加えた。

 絶対に私が、好きになってしまったりしない人。

「だって、好きな人が私のために、人生を変えられて縛られるなんて、そんなの地獄に落ちるより辛くて悲しいことよ。私、そんなことになるくらいなら舌を噛んで死ぬわ。残り数年の命だって、いらない」

 その言葉を聞いたとき、化野の脳裏にギンコの姿が浮かんだ。すぐにでも傍に行きたくて行きたくて、胸が痛かった。

「私ね、さっき窓から貴方達を見たの。とっても素敵な恋人ね。一目見て分かった。…早く行ってあげたら?」

 お幸せに、と、彼女が言った言葉は、もう走り出した化野の耳には届かなかった。



 車のドアが急に開いて、びっくりしているギンコの唇を、化野はかすめるように軽く塞いだ。

「行こうか」
「…ど、どうしたんだ、化野。いきなり」
「恋人にキスして悪いか? 嫌だったのか?」
「い、嫌なわけない、けど…こんなとこでっ。み、見られたら」
「別に見られてもいいんだ。もう、どうだって」

 多分、明日、当たり前のように病院に出勤しても、もう自分のデスクは無いだろう。割り当てられてた患者も取り上げられて、きっと、あのマンションもすぐに追い出される。だから急いで帰って、必要なものをまとめて、出て行く準備をしなければならない。

「お前さ、俺が貧乏だって、なんだっていいんだろ? あんな立派なマンションに住んでなくたって、デカい病院勤めで地位の高い医者じゃなくたって…」
「…勿論だよ」

 ギンコは詳しいことなど聞かなかった。なんとなく察しはついたし、それでも自分を選んでくれたのだと思えただけで、切ないくらい幸せだった。

「俺は、お前の傍にいられるんなら、なんだっていいんだ。それだけで、いいんだ…」
「俺もだ」

 慣れないことを言ったからか、化野の視線が逃げている。幾らか乱暴に車を走らせながら、彼の唇がさらに何かを言い掛けて、言えずに閉じてしまった。でも、ギンコには届いた。その心に真っ直ぐに、刺さるほど深く。血が流れそうなくらい深く、深く。

 好きだ、と、愛している、と。それが言葉になどなっていなくても、化野のそんな想いがギンコを包んで、彼の不安を消して行く。


 あぁ、蝶よ。
 あの日、残酷に俺の運命を変えた蝶たちよ。
 俺はお前たちに感謝している。
 酷いと思いながら、すまないと心で詫びながら、
 それでも化野が、俺へとこうして繋がれたことが
 こんなにも嬉しいのだ。
 消えない罪の意識を、確かに胸に抱きながら。






11/12/31


10へ続く↓

















想 影  sou ei  10 




「名乗った途端に切られたよ」

 コンビニで、ギンコは化野の荷物の発送手続きをしていた。ケータイから病院へ電話を掛けていた化野が、苦笑しながらそう言って、ギンコの手元を見下ろす。荷物を出した送り状を、小さ過ぎるくらいに折り畳んで、ギンコはそれをコートの内ポケットにおさめていた。
 元気のない化野に比べて、ギンコは何も特別なことなど起こっていないかのように、今までと同じ態度でいる。

「でも、予想通りなんだろ? 今頃はお前のマンションにも、立ち退かせようと業者が来ている頃だろうぜ。急いで出てきて正解だったんだ。良かったな」
「…そうだが」

 理事長に逆らったせいで、化野は一瞬にして色んなものを失ったのだ。仕事と、住まいと、車と、銀行口座。記憶を失っていた彼を拾ってくれた恩人だとはいえ、そこまで委ね切って気にしてもいなかった自分の能天気さを、化野は今更のように後悔する。

 医院でのポストは勿論、理事長名義のマンションも車も。殆どの私財を預けていた口座もそうだ。給料を振り込む先に指定するよう言われ、カードを持たされてはいたが、名義は理事長だったから、あっという間に止められた。

 他人をそんなに信用して任せちまうだなんて、お前はやっぱり『化野』だな、と、ギンコが言った言葉には、一欠けらの嫌味もなく、彼の懐かしむような表情が不思議に思えた。

 理事長の家を辞した後、真っ直ぐマンションに戻って、幾らかの身の回りのものと、どうしても奪われたくないものだけまとめて、二人はすぐに出てきたのだ。途中で乗り捨てることになっても、車で行こうと化野は言ったが、それにはギンコが賛成しなかった。

「車も理事長名義なんだろう。下手すると、盗んだことにされて大変だぜ。持ち歩きたいもの以外は、とりあえず送っちまえるから、歩こう、化野」
「歩こうったって、どこまで」
「…足を止められる場所までさ」

 そんなふうに言ったギンコの姿が、なんだか急に大きく見えて、化野は益々自分を情けなく思ったのだった。

 コンビニで箱に入れた幾つかのものを送ってしまうと、二人はそれぞれ鞄一つずつを持った身軽な格好になれた。覗く前に畳まれてしまった送り状には、一体どこの住所が書かれていたのだろう。きっとギンコの住まいなのだろうと思っていたが、至極真っ当なその想像はすぐにも覆された。

「…明日まで少し、ネットカフェかなんかで時間潰しててくれないか、化野。さっきの荷物の送り先に、すぐ向かわなきゃならないんだ。電話できる相手じゃないから、荷物より先に俺がいって話をしないと、受け取り拒否されちまう」
「え? お前の家に送ったんじゃないのか?」
「俺には家はないよ」
「で、でも、あのアパートには住んでたんだろ?」
「あぁ、あそこは病院に勤めるために借りてただけだ。住まいも不定じゃさすがに雇って貰えない」

 まるで、当たり前のことみたいにギンコは言う。仕事も家も、車さえ失ったと、化野は落ち込んだ気分でいたのに、考えてみたらギンコもそうなのだ。仕事は辞め、住まいは引き払ったばかり、車なんか元々持ってない。

「じ、じゃあ、何処に送ったんだ? お前だって今住んでるとこがないなら、アパートを引き払った荷物は?」

 そう聞くと、ギンコは背中に背負った大きめの鞄を片手で、とん、と叩いてみせた。

「俺の家財道具はこれだけだ。そんな驚くことないだろ? 過去の俺を見たんなら、ずっと昔の俺の暮らしもわかってるんじゃないのか? とにかく、少しどっかで時間潰しててくれよ。そうだな、半日くらいで戻ってこられると…」
「俺も行く」

 コンビニを出た後、今にも一人で歩いて行ってしまいそうなギンコに、化野は急くようにそう言っていた。どことも知れぬところへ、一人でギンコを行かせたくなかったし、嫌な予感がして堪らなかった。電話出来ない相手って? 先に約束もしないで荷物を送って、着く前に承諾を得に行くだなんて、普通のやり取りじゃないだろう。

「来て欲しくないな…」
「絶対行く。一人じゃ行かせない」
「…分かったよ」

 ほんの数秒迷っただけで、ギンコはあっさりそう言った。そのあとで言い訳のように、彼は呟く。

「そういう目ぇしてる時のお前は、てこでも動かせんからな、昔っから」

 電車のホームで並んでいるとき、コートのポケットに両手を突っ込んで、前を向いたままギンコは言った。

「来るのはいいけど、口出しはせんでくれ。前からの馴染みの相手で、あの病院に潜り込めたのも、そいつの手助けあってのことなんだ。記憶を失くしてるっていう、お前の過去を教えてくれたのもそいつだよ。まぁ、便利屋、とでも言うかな…。数年来の付き合いだ」
「どんなヤツなんだ?」
「どんな…って、会えば分かるだろ?」

 今知りたいんだ、と、化野が聞いても、ギンコは聞こえない振りをした。白い髪をして、緑の目をしていて、ホームでも電車の中でも、ギンコは酷く目立ったが、まるで無機物になってしまったかのように、彼は向けられる視線に無反応だった。

 何年、何十年、もっと…。この外見のままで彼が生きてきた、その年月の重みを、ほんの少し、本当に僅かばかりだけ、化野は知った気がした。友人同士の距離で、化野はギンコの隣に立って、電車の揺れに身を任せている。
 ごとん、ごとん、と規則的に続く電車の音が、胸へ入ってただ抜けていく。ギンコにとって、時の流れはこんなようなものだろうか。降りる用事のない駅のように自分に関係なく、後ろへと流れて遠ざかっていくもの。

 そうだとすれば、俺という存在はギンコの降りる駅だろうか。消えてしまうまでの間、彼がそこにいたいと願う街だろうか。俺という存在は、お前に何をやれるのだろう…。

「ギンコ」
「…どうした?」

 傍へ寄って、化野はギンコの肩に額を乗せる。嘘を言った、揺れに少し、酔ったみたいだ、と。我が侭を言った、どこかに寄っていかないか、と。そんな化野の態度に、ギンコは何を思うのだろう。ただ、嘘なのは見抜いているらしく、少しも気遣ってはくれなかった。

「酔ったんなら座れ。どっかに寄ってく時間はねぇんだ。具合悪いんならやっぱり、俺だけで行くから、お前は…」
「嫌だ。真っ平だ。何処だってお前と行く。俺を離すな」
「あぁ、困ったヤツだな。あんまり…」

 困らせんなよ、とギンコは続きを言ったが、彼の言葉の中身を覗き見るみたいにして、空耳で別の声がした。

 あんまり… 喜ばせんなよ…。





「こ、ここ…?」
「あぁ」

 電車に一時間半揺られて、乗り換えて更に一時間。二人が下りた駅は酷く辺鄙な田舎町だった。鈍行で二時間半なら、彼らが出てきた都会からそれほど離れていないのに、まるで時に忘れ去られたような…。駅も無人で、構内は枯れ葉が吹き込んだままで、それらがカサカサと隙間風に踊っていた。

 そんな古びた駅を出て、道行く人も殆どいない町中を、ギンコはどんどん奥へと入って行き、足を止めたのは見るからに廃屋。

「人、住んでんのか? こんなとこに」
「馬鹿。聞こえるだろ。ちょっとここで待っててくれ」
「い、嫌だというのに」
「お前な…」

 呆れたように言い返そうとしたギンコの声が、少し笑っている。なんだか、色んなものを失ってしまった化野が、失くしたものと引き換えに、ギンコのよく知っている『化野』へと、どんどん近付いてきている気がするのだ。嬉しくない筈がなかった。

「中で話をつけてくるだけだ。気難しい相手なんだぞ。知らないヤツを連れて入って、断られたらどうする。俺だけだったら九割引き受けてもらえるってのに」
「…でも」
「でももへちまもねぇよ、もう荷物は送ったんだぞ。拒否されたら、お前がどうしても手放せないって言ってた、医学書とかそういう…」

「うるさいな」

 唐突に、中から声がした。若い声だった。ギンコや化野と同じくらい、だろうか。

「あ…悪ぃ、イサ。また頼みがあって来たんだ」
「だろうね。頼みごと以外でお前が寄るなんてないしね。ま、入ればいいよ、連れも一緒で構わない。…お前がそれでいいんならね、ギンコ」

 イサ、というのは名前だろうか。変な響きだと思った。最後に付け加えられた言葉に、ギンコは何故か逡巡している。化野は横合いから手を伸ばし、扉であるらしいものを横へと勢いよく引いた。開くと上から山ほど埃が降ってきて、ギンコと化野の頭に降り掛かった。

「あーぁ、そこ、扉に見せかけてそうじゃないんだけど。修繕代も一緒に貰うよ、悪いけどさぁ」

 畳敷きの床に、大きなソファを一つ置いて、そこにその声の主が座っていた。口調がまるで子供みたいだ。

「へーえぇ、それがお前の想い人かい? とうとう手に入れたんだ。よかったよね」

 男はそう言って、奇妙な匂いのする煙草の煙を、唇から細く漂わせた。ギンコの体に染み付いている匂いと同じだ。化野はそう思いながら、招かれるままにそこへと足を踏み入れるのだった。






12/01/15


11へ続く