想 影 sou ei 1
「…まぁ、構わんよ……」
その男はそう言った。冷たい風の吹き荒ぶ、古い病棟の屋上で。
ギンコは声も無く、ほんの少し目を見開き、笑っている想い人を見つめ返した。やっぱり、医者なんだな。白衣が似合う。最初の「お前」は白衣など着てはいなかったが、清潔そうなそのナリが、お前らしい、と思わせる。
「でも、その代わり『事』の前に、そんなことを言い出した理由のすべてを、俺に話せ」
「…な…っ…」
ギンコは思わず拒否しかかった。やっぱりあまりにも急ぎすぎたのだ。だけれど急いだのにも事情はあった。化野が、誰かと結婚の約束をしようとしていることを聞いてしまったからだ。恩のある人物にどうしてもと言われ、好きでもない相手と生涯の約束をすると。
「嫌ならしょうがない。それなら俺も『うん』とは言えんな。男のお前を抱けなんて言われたら…。昔から、わけの分からないまま従わせられるのは嫌いだ」
なら、なんで好きでもない女と…っ。
言葉にしなかった思いを、目を読んで知ったのだろう、化野はうっすらと笑う。
「しょうがないだろう。こっちは会った事もないが、向こうはずっと前から俺を知ってて、それで好きだったって話なんだから、しかもその人は、あまり長くは生きられないそうでな、主治医、兼、夫として、俺に傍にいて欲しいんだと」
「そんなのは…」
放っておけば、いいだろう。なんて、そんな言葉は言えない。事情の欠片も話していないギンコの言動は、化野には訳が判らないに決まっていた。確かに、同じ病院の職員として、ここ半年は多少の交流があったが、せいぜい何度か酒を飲みにいったくらいだ。
「俺…だって、前々からお前を好きだった…」
「そんなことを言い出すくらいだ、そうなんだろうけどな。前々からったって、お前がここに来たのは半年前だし、せいぜいそのくらいの…」
「やめろ…ッ」
言われたくない。そんなことは。半年? そんな程度の想いじゃない。俺がお前を想い始めて何年経つのかって? 教えられるもんなら教えてる。想いの長さで、その女に勝てるというのなら、ここから叫んでやってもいい。
ギンコは化野の言葉にではなく、むしろ自分の中の想いに追い詰められた。諦められる筈はないのだ。彼には化野しかしない。
「本当に、全部話したら抱いてくれるか…」
「嘘は言わない。でもお前が聞かせてくれる話が、でまかせじゃないかどうか、俺はどうやって判断したらいいんだろうな?」
「それ…は…」
ギンコは目を閉じて唇を噛んだ。真っ白な髪が強い風に乱れて、青ざめた顔がよく見えた。白い髪に緑の瞳、その外見のせいか、いつも項垂れてばかりいた彼の顔が、案外整っていて美形だったことを、化野は今更のように感心していた。
「証明することは、たぶん、出来る。でも…お前、随分荒んでるんだな。そんなだなんて、俺は知らなかったよ、化野先生」
悲しげな顔をして、ギンコは言った。優しくて真っ直ぐな「化野」を、彼はずっと愛してきたけど、人は育ち方によって残酷な程に変わっていく。疑い深い彼の態度に触れて、ギンコは嫌悪の代わりに悲しみを抱いた。
お前、どんなふうに今まで生きてきたんだ?
本当は真っ直ぐで優しくて、
誰からも愛される人間のはずなのに。
「…で? いつ話してもらえるんだ? その話。先方へは週明けにも承諾の返事を伝えるつもりでいた。少し先へ伸ばした方がいいか? お前にも少しは心の準備がいるだろう」
「今夜でも…。いや、先生は今日は深夜までの勤務だったよな。明日は休みで、休み明けは遅番。なら、明日の夜」
「そういえば、お前って前も俺のシフトを完璧に覚えてたっけ、そこらへんから気付くべきだったな、俺も案外迂闊だ」
なんでもないことのように、化野は笑った。「昔」のままの笑い顔に、少しの陰りが滲んで見えて、ギンコは辛そうに顔を歪め、その顔を隠すために項垂れる。何も知らなかった今日の午前中までが、早くも恋しくなっていた。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
日差しの差す病院の廊下で擦れ違いながら、ギンコは化野に挨拶する。彼の勤務場所は薬剤管理室だから、仕事場で会うこと自体少ない。少し歩いてから、化野は角を曲がる前に振り向いた。そうしてギンコが脚を止めて自分を見ているのに気付いて、少し驚いたように眉を上げる。
なんで向こうも振り向いてるんだ?
別にこっちは、どこも珍しくないのにな。
そう思うのは、化野がギンコの見目を酷く気に掛けていて、たまに居合わせるたびに盗み見てしまうからだ。老人のそれとは違って、ほんの少しの濁りもない白い髪。そして、視力の有無を疑いたくなるような、不思議な緑の目。
これから昼の休憩で、特に急いでもいなかったから、化野は気まぐれを起こした。廊下を速足で戻って、ギンコの前に立つと、昼食を一緒に取れないかと提案したのだ。
今まで何度か一緒に飲んだことがあったが、それも偶然同じ店に居合わせて、席を共にしただけだったから、そんな申し出もどうかと思いはした。それでも、深夜まで他愛のないことを話した、その時の会話が、妙に心地よかった覚えがあったのだ。
「え…?」
「あぁ、誰かと予定してたか? なら今度でいいが」
「いや予定はない。行くよ。この近くで?」
「うん、緊急のことを考えなきゃならんからな」
ちら、と時計を見て化野は言った。
「時間は」
「休憩が二時間あるんだろ? 知ってる。先生は今日は勤務時間が長いから」
「へぇ、よく知ってるな」
「あ、いや、薬剤室に、医師の勤務表が貼ってあるんだ。こっちの仕事にも多少関係があっ…て…。そんなことより、どこにいくんだ?」
項垂れて言う顔が、長めの前髪に少し隠れる。もっと正面から見たいのに、と化野は無意識に思っていた。
「どうするかな、飯が食べたいんだ。朝はちゃんと食べれなかったんでなぁ」
言いながら既に、彼の脚はここらで気に入りの店に向いている。ギンコが行き先を知る筈はないのに、曲がり角を折れるたびに、彼は戸惑わずに歩いていく。
「…行き先、分かってるのか?」
「いや? でも前に先生が食べてるのを窓の外から見たことがあったから、向こうのイタリアンかと」
「ははっ、正解だ」
構わないか、と化野が笑いかけると、ギンコは一瞬彼と目を合わせて、またあっと言う間に俯いた。
「なんだ、お前。猫背だなぁ」
そう言って化野は気軽にギンコの背中に触れる。びく、と大袈裟に反応して、ギンコは迷惑そうにこう言った。
「触らないでくれ、化野先生。苦手なんだ、そういうの」
「…そりゃ、すまんな」
足元の石畳に、秋風で踊る枯れ葉が滑っていく。それを暫く眺めてから、もう一度ギンコの顔を見たら、なんだか頬が染まって見えた。唐突に何かの答えが見えそうで、化野はいぶかしげにその横顔を見続けていた。
知らないことを知るのは好きだ。だけど今は、本当は、そういう心の余裕が足りなくなっている。別にこだわりなどない選択肢の片方を、急に選ばされる局面に、少なからずの動揺が。
好きな人などいない。でも、いずれはせねばならないこと。だったら恩のある人のために、勧められた方を選ぶだけだった。
「先生?」
ギンコが彼を呼び止める。行き過ぎそうになっていたレストランのドアを、ギンコと二人でくぐった。
続
11/10/23
↓ 2へ続く
想 影 sou ei 2
フォークにパスタを絡めながら、化野は酷く普通の言い方で言ったのだ。最近の天気のことや、前に一緒に飲んだときの酒の話など、変哲も無い会話が続いたすぐ後のことだった。
「今度、結婚することになってな」
パスタの中に隠れて残っていた海老を、化野はフォークで弄んでいる。皿にカチカチとフォークの先が当たる音は、ほんの微かだったが、その時、ギンコの耳にはその音が酷く耳障りに聞こえた。それを聞きながら、ギンコは何も返事をしない。
どんな他愛の無い言葉にも、丁度良く相槌を打っていた彼の声が途切れたのを、化野はまったく気付いていなかった。
「結婚なんて、一生しないかも知れないとか思ってたんだが、案外あっさりそういう話が来るもんだ。昔、随分世話になった人の娘さんでな。実は会ったことも…」
パリン…っ。
足元で、いきなりガラスの割れる音がして、化野はやっと顔を上げた。彼らのテーブルのギンコの側が、びしょ濡れになっている。まだパスタが残っていた皿の中も、テーブルの上も、さらにギンコの膝まで。
「おい、何して…ッ」
状況からいって、グラスを倒して水を零したあげく、落として割ったのはギンコだろうに、彼はテーブルの上の一点を見つめたまま、凍りついたように動かない。
「お前っ、膝、ずぶ濡れ」
「……あ…、悪ぃ、あの…すまない。ちょ…、と、ぼうっとして…」
店のものが飛んできて、テーブルの上や椅子の下を綺麗にしてくれ、別の店員が、ギンコに怪我の有無を聞きながら、濡れた服を拭くためのタオルを手渡してくれる。指し示された方向にあるのは紳士用のトイレで、ギンコは店員に急かされるように席を立つ。
ギンコがトイレに消えてから、他の客に「お騒がせしました」と頭を下げる店長は中々の対応で、椅子が濡れてしまったことを考えてか、別の席に案内してくれようとまでした。食後のコーヒーは状況的に辞退して、化野はギンコの行ったトイレに向かう。
入っていくと、洗面台の前で真っ青な顔をしたギンコが、濡らしたズボンにタオルを押し当てていた。化野の顔を見て、彼ははっきりと視線を逸らして俯く。
「…どうしたわけだ?」
「ど…。だから、ぼうっとして…」
「なんでぼうっとしてたか、聞いてもいいか?」
「………」
長い沈黙だった。化野は急かさずにじっと待ったが、その視線を逸らさずに、真っ直ぐギンコを見ていた。青ざめた顔も、震え続けている指も、何か言いかけては閉じられる唇も。
「俺の結婚の話がショックだった、とか?」
馬鹿げた冗談のつもりが半分、けれど残りの半分は、それを聞いたギンコの反応を試したのだ。ギンコはずっと逸らしていた瞳で化野を見て、まるで責めるような顔をした。付き合ってる彼女に、別の女との結婚を告げたなんてわけでもないのに、そんな顔をされる意味が判らない。
「勘違いだったら悪いけど、お前」
「……違う…」
「っ…!!」
どん、と化野の体を突き飛ばし、ギンコは外へと逃げ出した。勿論、店の払いもせずに、だ。化野は店内に戻って二人分の代金に、割ったグラスの分を考えて上乗せし、店員にそれを押し付けて店を出た。
休憩は二時間もあるのに、まだ四十分程度しか消化していない。このまま病院に戻れば、夕方頃に残り一時間の休憩が取れることになる。どっちへ逃げたかもわからないギンコを、探す気にはなれなかった。見つからないと思ったし、見つけたら見つけたで、残り一時間と少しくらいじゃ、話も聞けないからだ。
「拠りによって、あいつがね…」
多分、惚れられているのだ。十中八九、間違いなくそうだろう。逆にそれ以外の理由を考える方が難しい。特に不快感はなかった。彼はギンコの「外見」が好きだったからだ。見ていると本当に不思議で、その感覚が気に入ってた。
もしも付き合うとかになったら、もっといつも見ていられるのかと思うと、それも悪くはない気がする。だけれど化野が自由でいられるのも、あと数ヶ月程度のことと、彼自身で決めたばかりだったのだ。
会ったこともない女と結婚すると同時に、同性の同僚と不倫とか? そんなのドラマでも知らないな。頭を一つ振りやって、意識の下へ雑事を押しやると、化野は仕事場である病院へと戻っていった。
視線を感じて、化野はふと顔を上げた。そろそろ夕の色を濃くする風景の中、ぽつん、と立っている人影が目に止まる。もう外来は終わりだから、人が他に見当たらなくて、ギンコの姿は目立って見えた。
人がいようといまいと、本当はいつだって目立ちそうな外見なのに、普段そう感じられないのは、気配の薄さのせいだろうか。
「休憩、一時間いいかな?」
「あ、ええ、いいですよ。先生は中夜勤でしたよね。軽く仮眠、とられます?」
古株の看護士が言って、化野は曖昧に頷いてから言い直す。
「いや、ちょっと近場まで出るかもしれないけど、ちゃんと電波の届くとこにいるよ」
そう告げて、化野は窓に近付いた。外に立っているギンコが、彼の姿に気付いて真っ直ぐにこちらを見る。化野はゆっくりと片手を上げると、人差し指を立てて上を指差した。屋上へ誘ったのだ。話があるのは分かってる。
逸る足で医師控室を出て、化野はエレベーターと階段を使って屋上に行った。ギンコは既にそこで待っていた。三階建ての病棟だが、外の螺旋階段を登ったらしく、少しばかり息を切らしていた。
「そんな急いでこなくてもいいのに。誘ったのはこっちだし」
「…でも、その理由を作ったのは俺だから」
「まぁ、そうだな。俺から話があるわけじゃなくて、お前の話を聞こうと思ったんだ。で? 昼のこと、話してくれるのか?」
そう言ってやると、ギンコはゆっくり首を横に振った。
「先に、教えて欲しいんだ」
「…何を?」
「あんた、俺をいつも凄く見るだろ?」
「あぁ、そうだな。見てるよ」
真っ直ぐにそう言ってやれば、ギンコは微妙に顔を歪めた。悲しんでいるのと、嬉しそうにしているのと、どちらにも見えた。悪びれずに薄っすらと笑って、化野は続ける。
「だってその外見だろう? あんたも見られ慣れてるのか、そんなに気にしてないふうだったし。嫌だったか? それならもう見ないようにするけどな」
「嫌なわけない。嬉しいと思ってたよ。深い意味がなくたって、そんなこととは関係なく…。でも、俺もあんたを見てた。いつもずっと見てた。あんたのことが…好き、だからだ。…昼間、気付いたろ? 俺の気持ちに」
上着のポケットに手を入れて、凍えるように身を縮こめて、ギンコは言った。そうして一呼吸置いて、こうも言った。屋上は風の音が強くて、その声は小さかったけれど、それでもはっきりと聞こえた。
「あんた、男に興味は? 遊びでも試しでも何でもいいから、一回だけ、俺を抱いてくれないか?」
化野は返事をしなかった。それでもギンコと視線を重ねたままでいたら、彼は泣き笑いのような顔をしてさらに言った。
「その結婚相手に返事をする前に、なるべく早く抱いて欲しいんだ。朝だろうと昼だろうと、俺は構わない。どんなやり方でもいいし、酷くされてもいいから、どうしても、一度…」
沈黙が刃のように、ギンコに刺さるのが見えるような気がした。黙ったままで見つめられていることも、苦しいんだろうと化野は思った。もう、風の音しか聞こえなくなったこの場所で、白い髪を乱しながら、ギンコの唇が動くのが見える。
そこから放たれた幾つかの言葉も、その強くて真摯な想いごと、形になって、見えるように思えた。
すき なんだよ あだしの …
続
11/10/30
↓ 3へ続く
想 影 sou ei 3
入院患者の容態が不安定で、定時よりも帰りが遅れた。いつもなら着替えてから帰るのに、化野は珍しく白衣の上にそのまま上着を羽織る。十センチばかりの「白」を、コートの裾から覗かせたなりで、タイムカードを押していたら、お疲れ様ですと看護士が声を掛けてきた。
「あ、そうそう。先生、駅まで歩いていくんでしたか? だったら気をつけて下さいね」
「…? 何が?」
「最近、このぐらいの時間になると、外に変な人がうろついてるみたいなんですよ。引ったくりかもしれないし、変質者なのかも…。何だか物騒ですよね」
「あぁ、わかった、気をつけるよ。君も気をつけて」
そうやってそつのない返事をしておきながら、化野は裏門を出た後、そのやり取りをすっかり忘れた。すぐそこに見えた小さなアパートから出てくる、ギンコの姿が見えたからだ。白い髪は闇に目立つ。薄暗がりに小さな灯りが見えるのは、きっと煙草を吸っているのだ。
昨今珍しい歩き煙草か? そんなにマナーが悪いようには、見えなかったが。
ギンコの姿はすぐに角を曲がり、さらに速い足取りで進んでいく。彼の姿が、今は使われていない職員寮の方へ行くので、尚更気になってついつい化野は後を追った。こんな時間にどこへいくのだろう、とそう思う。
寮の敷地は病院の土地で、コンビニの一軒だってないし、二棟立っているその向こうは、何もないただの空き地だ。その空き地の前まできて、ギンコは立ち止まり、ふ、と斜め上を見上げてこう言った。
「なぁ、頼むから俺に付き纏うのはやめてくれ」
「……な…」
自分に言ったのかと思って、化野はぎくりとする。
「お前らは、そうやって俺の傍に居たいんだろうが、俺は…化野の傍にいたいんだよ。俺の居場所は、あいつの傍しかないんだ…。だから今だけ、散っててくれ…。明日は大事な日なんだよ」
勿論、その言葉は、化野に向けたものではなかった。化野のいる方に背を向けて、ギンコはずっと上の方ばかりを見ている。そうして、すぅ、と煙草を吸い込んで、夜目にも真っ白な煙を、何もない空間に吹き付けた。
「悪いな…。お前らには罪なんか、ねぇんだけどな」
なんだ? いったい、誰に話しかけてるんだ? ここには俺とギンコしか…。そう思っていた化野の後ろから、いきなり誰かがこう言ったのだ。
「…それ…白衣だろ…? あんた医者だろ…?」
唐突に話しかけられて振り向いた化野の顔を、食い入るように男は見ている。その男の目は酷く濁っていて、狂気の色を滾らせていた。
「やっと見つけた…。そうだよ、あんただ」
「何のことだ、人違いじゃぁ…」
それは、化野が見たこともない若い男だった。真っ黒な上着を着て、真っ黒な帽子を被って、まるで…変質者か何かみたいな。ぞくり、と悪い予感が背筋を駆け上がり、化野の視線が男の右手へと滑り落ち…。
「…あんたが悪いんだ。全部、あんたが…!」
「化野…ッ!」
きらり、と何か鋭いものが光った瞬間と、後ろから体を引き倒されるのとが同時だった。背中と腰を地面で打って、短く呻いた化野の耳に、それこそ、その耳を塞いでいたいような音が飛び込んでくる。
ぶし…ゅ…っ
仕事柄、血の匂いなんか嗅ぎなれている。だけれどこんな音は聞いたことがなかった。治療でだって手術でだって、そんなに無造作に人の体を切り裂いたりしない。だからこんな音はしないし、こんなに大量の血が、あたりに飛び散ったりもしない。
「うわ、ぁあ、ぁあああ…っ! 違う、あんたじゃない! あんたじゃないっ。俺が殺したかったのは…っ、そっちの医者で…っ! 俺、関係ない人を…っ、わぁ、ぁあぁ…ッ」
包丁を持った手をガクガクと震わせたまま、男は這い蹲って逃げようとしていた。化野は必死で追い縋り、その男の足首を一度は掴んだが、滅茶苦茶に暴れられて、掴んだ指が解けてしまったのだ。
けれど、あぁ…本当なら、加害者ではなくて、被害者の方を先に気にするべきだったのだ。彼は医者で、他の誰よりも的確に応急処置が出来る筈だった。なのに、そっちを振り向くのが酷く怖くて…。
「あぁ、あ…」
「ギ……ギン…コ…」
「……だいじょう…っ…」
震えながら、やっと三つ言葉を放ってから、やっとギンコの方を振り向いて…。
けれどそこには、誰も、いなかった。
被害者は消えていた。そして加害者も、発見された時にはもう死んでいた。持っていた凶器で、自分の喉をついて自害していたのだ。男の身元はすぐに調べがつき、一年前の丁度今日、この病院で婚約者を亡くした男だと分かった。
逆恨みなのか、病院側にも少なからずの否があったのかは分からない。化野とギンコの勤務する病院は、都内でも有名な大病院で、医師の数だけでも100近いし、転勤による移動もあるから、一年前に居た医師が、今もいるとは限らない。
化野には怪我はなかったのだが、あんなことがあったのだから、と、公休も絡めて少し多めの休みをもらった。もっともその休暇の間の何時間かは、警察に色々と聞かれて潰れたが、とりあえず、事件から二度目の事情聴取も済んで、一人部屋に籠もり切りで過ごしている。
「…あいつ、焦った、のかもな……」
医療ミスがあったかどうか知らないが、あの男にとっては、自分の婚約者を殺した医者が、この病院にいるはずだったんだ。一周忌までに仇を打とうと、そう思い詰めて、ぎりぎり間に合うあの日に、白衣の裾を見せた俺が、ひと気のない場所へ歩いていって…。
「あぁ…とんだ災難だ…」
そう言いながら、化野は目の前のペットボトルを取ろうとして、一度は伸ばした手を引っ込めた。あれからずっと、手が震えて震えて、止まらない。ベッドに横になって目を閉じて、化野は警察官との会話を思い出す。
『あなた以外に、襲われた人がいたのを知ってますね?』
…ええ、知ってます。
あの男が「関係ない人を殺した」とか、
言ってるのが聞こえたから。
『その人に心当たりはないですか?』
…いえ、声も聞いてないし、見てないし。
俺が見たのは、加害者の男が逃げてく姿だけです。
『そうですか。しかしあの血痕の様子だと…』
…し、死んで…?
『あるいは。少なくとも平気で立ち去れる筈がない』
…なのに、居なかったんですね。
怪我人も、遺体…も…。
あ、あの……。
その被害者、うちの病院関係者…ってことは…?
『調べましたが、今日までで全員に連絡が付きました。
病院関係の方や、出入り業者の方ではないようです』
…そう、ですか……。
化野は、警察の質問に嘘をついたのだ。どうしてそんなことをしたのか分からない。その方がいいのだと、根拠もないのにそう思って、咄嗟に一つ嘘をついたら、その後はそれを取り繕うしかなくなった。
目を閉じたまま、化野はギンコの姿を思い浮かべる。あの、自分が気に入っていた白い髪と、緑の瞳と、自分を好きだと言った声と言葉と…。そして、あの時、彼を庇ってくれた腕の感触と。
「ギンコ…」
お前、どこにいる…? どこにいるんだよ。そんなに俺が好きなら、無事な姿くらい、見せろ。じゃなきゃ、この震えは止まらない。ずっと、止まらないんだよ、ギンコ…。
ベッドで体を縮こまらせて、化野は何度も彼の名を呼んでいた。
続
11/11/03
↓ 4へ続く
想 影 sou ei 4
たった二日の休暇を残して、やっと指の震えが止まった。そうなれば外出したい先は一つで、やりたいこともそれだけだった。化野はいつもと同じ電車に乗り、いつもの道を通って病院に行く。
あの日、ギンコが出てきた小さなアパートの前も通った。だけど、どの部屋に彼が住んでいるかは知る筈もない。女物の服が干してある窓でもないだろうし、子供の自転車の置かれたドアでもないだろう。洒落た淡いクリーム色のカーテンの二階の部屋も、違うように思えた。
残りの左上の部屋は、カーテンもなく、室内の家具の一つすら見えなくて、そこに化野はギンコの姿を探してしまう。人影はなかった。人の気配もしないようだ。視線を逸らして彼は病院の門を通り過ぎる。目的の場所に一番近い通用口から入って、薬剤管理室の、開いたままのドアをノックした。
「ギンコ君は今日は、勤務してるか…?」
一番傍にいた女の薬剤師に声を掛けると、彼女はなんとなく変な顔をして、化野の胸にネームカードを探す。
「あぁ、外科の化野だ。今日は本当は休みなんで、ネームはつけてないんだが」
「外科って」
「…外科一棟の、医者の化野」
あまりにも大きな病院なので、外科と言っても一棟から三棟まであって、一棟に所属するのは地位も腕も高いことを意味する。
「あっ、一外の…すみません、薬管とはあまり接点が無いので、お顔も存じ上げなくて。え、と、ギンコ、という薬剤師でしたか?」
うろたえている彼女の言葉を聞きながら、そうだろうな、と化野は思っていた。薬剤管理室と一人の医師の接点など、本当はほぼ皆無なのだ。ギンコが化野のシフトを知っていたのは、彼の「想い」に他ならない。
内心を表さず、淡々と無表情でいる化野の様子に、ますます彼女はうろたえて、壁に貼られた勤務表を見つめていたが、
「あれ、何見てんだ? ギンコなんて、そんな珍しい名前の薬剤師、いないですよ、先生」
見かねたのか、奥にいた別の職員がそう言った。化野は眉を顰めて言いつのる。此処で働いているのを見た事だってあるのに、そんなはずはないのだ。
「いるだろう、白い髪の」
「あぁ! なんだ、シロノ君のこと。白い髪して緑色の目の、やたら変わった姿の人でしょ? そういや銀野って書いて、シロノって読むんだっけ。辞めましたよ、先週いっぱいで」
「…え」
口聞けないんじゃないかってくらい、無口だったけど
凄く物知りで仕事も早くて、殆ど休みもとらないで
よく働いてくれたから、いきなり辞めちゃって大変で
こんな忙しい時にさ、参りましたよ、ほんと。
忙しいわりに仕事の手を止めっぱなしで、男は化野の前まで出てくると、何だかじろじろと彼の顔を見て言った。
「一外の化野先生、じゃなかったでしたっけ。それこそ先週、向こうの寮のとこで、不審者に襲われたのって。あんとき発見された大量の血痕の謎って…どうなっ…。あ、ちょっと!」
お喋りな男の興味本位な目に、心底苛立って、化野はものも言わずに背中を向けた。とにかく、ギンコはもうここにはいないのだ。でも本当の名前が判った。あのアパートに行って表札を見ればいい、また見失ったわけじゃない。
会えなくなった、なんて訳じゃない…そう思っていたのだ。けれども…。
化野が帰路についたのは、とっぷりと日も暮れた時刻だった。アパートにギンコはいなかった。左上のあの部屋は空き室で、住んでた男は越して行ったばかりだったし、他の部屋の住人に聞いても、大家に連絡をとっても、彼がどこへ行ったのか、どんな人間なのかさえ、知るものはいなかったのだ。
病院へ戻って人事で聞けば、何か手がかりがあるかもしれなかったが、どうしてか、何をしても無駄足になる気がしてならない。
「このやろう…。あの言葉は嘘か…?」
ぽつりと呟いて、項垂れていた顔を上げながら、耳の奥でギンコの声を思い出す。
俺の居場所は、
あいつの傍しかないんだ…
「俺の傍しかないんなら、いきなり消えたり…」
言葉が止まって、彼はその一瞬、小さな眩暈に襲われた。眩しすぎるほどの灯りで照らされた、高級マンションの入口前に、求めていた姿が立っていたのだ。
「…お前…ッ!」
「………」
ギンコは何も言わず、そっと人差し指を立てて、自分の唇に当てて見せた。自分の唇が塞がれでもしたように、化野は言葉を止めて、つかつかと彼へ近寄り、伸ばした腕でギンコの片腕を捕まえる。随分力が入っていたのだろう。痛そうに、ギンコは顔を歪めた。
「離してくれ…約束を…果しに来たんだ。それとも…もう、遅いか?」
「何が遅…っ」
あぁ、そうだ。恩師の娘への、結婚の承諾の返事の期日がもう過ぎてる。向こうから連絡が無いのは、たぶん事件のことを知っていてそれで、こちらが落ち着くまで待っていてくれるのだろう。
「…いや…まだ返事はしてないが」
「よかった……」
貧血で倒れる寸前みたいな顔色をしてはいるが、ギンコの肌が暖かいのが、着ている服の布越しでも分かる。幽霊ではないようだ。それに、夢でも幻でもない。聞きたいことや知りたいことが、頭の中でごちゃごちゃに入り混じっていて、化野は疲れたように息をついた。
「…顔色が悪い」
「何がだ! それはお前だろうっ、あんな出血して、あんな…あんな怪我…っ。お前…。いや、全部…部屋で聞こう。九階だよ。一人だから、気兼ねもいらない」
「知ってるよ、先生のことは、何でも」
部屋へ案内すると、ギンコは化野が部屋の照明をつけようとする手を止めた。カーテンを大きく開けば、空に掛かっている半月が、淡い光を部屋の中に投げかけていて、暗がりではないし、互いに相手の表情も見える。
「今、ちょっと顔色が悪すぎてね。医者の前でそんなんじゃ、お前、職業意識が騒いで落ち着かなくなりそうだから、このままで」
「何を馬鹿な」
「いいだろう? 本音を言えば、真昼間みたいな灯りの下で、打ち明けたい話じゃないんだ…」
「わかった、照明はいいさ。でも一番先に聞きたいのは、この前のことだ。怪我をしたのはお前じゃないのか? あの出血で治療とかは、どうし…」
ばさ、と、ギンコはいきなり服を脱いだ。コートを脱ぎ、その下に着ていたセーターを脱ぐと、白いシャツのボタンを上から外していく。
「そんな顔、しないでくれ。話より先に抱いて貰おうなんて思ってないよ。…あの日刺されたのは確かに俺で、血を流したのも俺だ。別に殺されてなんかないのに、あの時の男は自殺したんだな。可哀想だったが…お前が無事で、よかった…」
言葉は震えているくせに、化野の目に映るギンコの姿が変に淡々としていて…。彼は化野を真っ直ぐに見て言うのだ。
「…もっと、見えるように窓へ寄ろうか?」
「傷…」
「あぁ、あの時のだ」
月明かりが、彼の体を照らしている。曝された脇腹には、数十針も縫わねばならないほどの、大きな傷が斜めに。だが、その傷はもう塞がっていて、怖いほど生々しい跡が、皮膚の上に残っているだけだった。
「有り得ない…。どう…いう…」
「どういうも何も、そういう体なんだ。今から、証明する」
胸を曝した片腕を、ギンコはするりと後ろへ回して、その手に何かを握って、静かにかざした。小さなカッターナイフだ。カチカチと音を鳴らして、剥き出しにした刃を、左腕の内側に…ぴたりと、当てて…。
「…っ、やめ…ッ!」
「手間は取らせないから」
刃を滑らせると、白い腕に、つう、と、赤い筋が浮いた。けれど、滴りが零れる前にじわじわと傷が塞がって、ほんの数分。そうして後に、薄紅色の線が残るだけだった。
「…傷が治りやすいだけじゃない。…不死なんだ…。不老不死」
零れた言葉は、本当に小さくて聞こえにくくて、なのにギンコがなんて言ったのか、化野には分かった。不老不死? 何を言ってるんだ? そんなものは、物語の中だけの…。
「ふ、ふざけ…」
「ふざけてこんなことを言っても、いいことなんか無い。もっと見せようか? お前に信じて貰えるまで」
「…やめろ…。もういい…わかった」
化野はギンコから視線を離した。奥にあったベッドに、彼は座り込む。項垂れて、暫し顔も上げない彼の耳に、服を着なおす音が聞こえ、ドアを開ける小さな音も届いた。
「待てよ。どこへ行くんだ…」
「………」
「まだ、話は終わってないんだろう」
「……」
ドアに触れたギンコの手が、びくりと震えた。振り向くのが怖いのだ。もしも化け物でも見るように、化野がこっちを見ていたら、心はズタズタに裂ける。体の傷はすぐに治っても、心を引き裂いた傷はずっと癒えないから。
だが、そうやって怯えているギンコの耳に、次に届いた化野の言葉は、どこか呆れ返ったような響きをしていた。
「…少し、酒を飲ませてくれ。軽く酔うくらいじゃないと、頭がおかしくなりそうなんだ。それにお前、不死だかなんだか知らないが、だからって、刃物の前に飛び出すなんて、どうかしてる」
ギンコは振り向いて、化野を見つめる。棚からとっておきの酒を取り出しながら、化野はそんなギンコを見ていた。
「命を救われた上、そのせいで人一人死んだかと思って、昨日まで手の震えが止まらなかった。他人のことで、こんなに心が動いたのは、本当に初めてだよ」
グラスを二つ出して、化野はテーブルにそれを並べていた。
「明日も休みを取ってあるから、酔いながら、お前の長い話でも聞かせてもらうさ」
続
11/11/13
5へ続く
想 影 sou ei 5
関係ない人を殺した。
そう言って狂ったように喚いている男の声を聞きながら、あの時、ギンコは必死で上着を脱いだ。そうして裂けた腹を覆って、血が滴らないようにして逃げた。彼が逃げた場所は、そこからかなり移動した空き地の草の中。出血が鈍くなるまで待って、世が明ける前に人目を気にしながら家へ戻った。
それから、完全に血が止まって、一時間かそこらで傷が塞がれば、ふらついていても表面上はただの貧血。切られたのがギンコだと、化野は何故か誰にも言わないでいてくれて、だからこそ彼も無関係の振りができた。再度、詳しい調べが入る前に、適当な理由で病院をやめて、あとに残ったのは、化野との約束だけ。
そうして今、ギンコは化野と二人で、彼の部屋にいる。
洒落たホームバーのスツールに、並んで座って同じ酒を満たした、同じグラスを手にしているのだ。チン、と、どうした意味でか、化野はギンコのグラスに自分のグラスを当てた。それをあおって、彼は聞いた。
「何で病院辞めたんだ」
「…そんなこと聞いたって…」
「何でも話す約束だろ?」
それは違う。そういう約束じゃぁない。ギンコは思ったが、別に話すのは構わなかった。むしろ、言いたくない沢山のことを言わされるまでに、覚悟をする時間が足りていなくて、ありがたいと思ったほどだ。
「…出血多量の死体か、重症の怪我人がどうしても見つからなきゃ、警察が『血液からDNA鑑定』とかをやり出すかもしれない。病院に勤務してる全員の血を調べて、とか言い出された時に、あそこにいるわけにいかないだろ。俺は普通の体じゃない…」
「言うかな? 医師に看護士に介護師に、技師に薬剤師に事務員に、掃除の出入り業者まで入れたら、何百人になるんだかわからないしな、あのマンモス病院じゃ。それでお前は行方を眩ませたわけか。たった数日で引越しまでして…。そんなふらふらの体でな」
「たかが貧血。どうなったって死なないと分かっていれば、無茶とも思わない」
ギンコは淡々とそんなことを言う。視線はずっと化野を見ていない。逆に化野の視線は、痛いくらいギンコに刺さり続けた。その眼差しを感じて、彼の体は震える。まだそんなふうに感じていい時じゃないのに、何か甘いものが心に満ちて、ギンコの翡翠色の目が揺れていた。
「不死…ね。確かに、医者の心理がぐらぐら揺さぶられるな。いろんな意味で…。腕見せろ」
「あんな傷なんかもうすっかり塞がってる」
「いいから見せろ早く」
わかったよ、と、息だけで返事をして、ギンコはシャツの袖を捲り上げた。切ったのは腕の内側の、肘から手首までの数十センチ。袖は十センチかそこらしか捲くらなかった。その腕に、化野の指が触れてくる。するり、と滑った指先に、ギンコは声を堪えた。
「…っ…」
「まだ痛みはあるのか」
「…違う。そうじゃない」
「じゃあなんで、そんな顔して」
「す、少しは…考えてから聞いてくれ…」
あぁ、なるほど、と化野は呟く。理由に気付いておいて、彼は指を止めなかった。ゆっくり上へと滑らせて、袖に隠れた部分まで撫でていく。さらに肘を越えて、もっと奥へ、上へ…。カウンターに置かれているギンコの逆の手が、ぶるぶると震えて握り締められていた。
「嫌なら腕を引っ込めないか? 普通」
「…嫌とか、そんな…。ぅ…ぁ…」
腕を見せろと言ったくせに、覗き込むように顔を寄せて、彼はギンコの顔を見ていた。肌に文字でも書くように、化野の指が動いている。
「もう…やめ…ッ…」
はぁ、はぁ、と息が上がったギンコの呼吸。青白かった頬に少しずつ赤みが差して、声を堪えて噛んでいる唇が、色っぽいと思った。
「確かに腕の傷はもう、跡まで消えかかってるみたいだな。じゃあ、今度は腹を見せてくれ。さっきはちゃんと見えなかったが、さすがにまだ、見るからに『傷跡』だった」
「………意地が悪い…」
目を見開いて化野の顔を見た後で、ギンコは、か細くそう言った。瞳には涙が堪っていて、化野は知らない間にそれに見惚れていた。そのことに遅れて気付いて思う、不思議だ、と。
「…そうだな、確かに相当意地が悪い。でも、好きなんだろう、俺のことが」
とうとう零れた涙が、カウンターの上にぽつりと落ちる。
「あぁ…好きだよ、化野…」
それは、躊躇い無く刃物の前に飛び出すほどの想いだ。あの瞬間、不死だからとか、どうせ傷が治るからとか、そんなことを思っている暇など欠片もなかった。失いたくないから、ギンコは化野を守った。彼の傍にいることが、ギンコのすべてだから…。
「…お前、綺麗だな」
そう言った途端、ギンコははっきりと顔を赤くして、恨むように化野を見た。
「寝室はそっちだよ。腹を見るなら寝てもらった方がいいし、月明かりが、丁度ベッドの上に落ちるんだ。さぞよく見えるだろう、お前のその体が…」
そうして化野は自分のグラスに酒を満たして、まだ一度も口を付けられていないギンコのグラスに、それを小さくぶつけた。最初よりも、もっと澄んだ音が響いた。
「考えたんだが…。別に順序が変わっても、することは同じなんだ。お前の話を聞いてから抱いても、お前を抱いてから、話を聞いても」
「……」
ギンコは何も言わなかった。化野は立ち上がって、幾分強引にギンコの腕を掴んだ。ベッドまでの距離は短かったのに、そこまでいく間に、ギンコはうわ言のように呟いていた。
すきだ
すきだよ
あだしの…
続
11/11/20
6へ続く