鼓 動 8
「彼はギンコ。君らがこれから暮らすことになる、タツミの土地の住人だよ。二十人足らずの中でたったひとり、こちらとむこうを行き来してる。渡守、って言ってね。俺の手を借りながら、向こうに持ち込む物資を調達する、大切な役割だ」
で、といったん言葉を区切ってから、イサは彼女ら二人を促した。薄笑いの顔が、いつもよりも倍増しで胡散臭く見える。
「彼にも自分たちの話をしてもらえるかな。包み隠しなくね」
「なんで初対面の人に、いきなり私たちの話を」
不満と不安の混じった顔をして、そう言ったのは美咲の方。海衣も戸惑った顔をしている。
「今言ったろ? 二十人足らずで暮らす集落に、あんたらはこれから仲間入りする。自分たちのことを何にも知らないままで、受け入れろってのは虫が良すぎない? 俺が言ってもいいけど、他人の主観が入ったりしたら、あんたらやだろうし? ギンコは突っ立ってないで座んなよ」
椅子を指し示され、黙って従いながら、ギンコは匂いに気付いていた。彼女ら両方か、それともどちらか一方から、微かに消毒液の匂いがする。医者の匂いだ。
「わかった。話すよ。長くなるけど、勘弁してよね」
そう切り出した美咲はテーブルの上に置いた両の手を、ぎゅっと強く握った。その手の上に、そっと海衣が手のひらを重ねた。
美咲の職業は教師。半年と少し前まで、デルハルガルという小さな国で、ボランティアで働いていた。
乗り物は牛かロバ。電気も水道もないという未開の地で、酷く貧しいのだが、国から些少の手当を貰えていたし、村人と一緒に自給自足が主だったから、本当に飢えることはなかったそうだ。
日本での教員資格のある彼女が、何故そんなところでボランティアをすることになったかも、彼女が自発的に話した。大学時代にバイトしていた託児所で、連続幼児傷害事件。犯人が分からないままで、被害者の一人が重い障害を残し、その容疑者に、彼女の名前があがってしまったのだという。
身に覚えのない彼女はそれを否定、証拠不十分で不起訴となったが、無責任な噂から、子供たちの親は彼女を犯人だと思い続け、噂はますます広がっていく。そんな状況で、教師の仕事になどとても付けず、日本に居ることも出来なくなり、彼女は異国に逃げたという。
「そのままデルハルガルにいても良かった。でも、ずっとついて来てくれた伴侶が、重い病気にかかったの。だから検査と治療のために、一緒に日本に戻ってきたんだけど、その途端に見つかってしまった。…私を犯人だと思っている人たちにね」
ギンコは黙って聞いていて、彼女が言葉を切ったあとも、何も言わなかったのだけれど、その無言をどう思ったのか、美咲は鋭い目を彼に向けてきた。
「治療や検査なら、彼女だけ国に戻ればよかったのに、って貴方も思うんでしょうね。でも離れたくなかった。海衣は時々意識を失ったりもしてたんだ。もしかしたら、もう生きて会えないかもって思った」
言いながら、彼女の目はますますきつくなる。ギンコを睨み据え、何も言わないイサをも睨んだ。
「悪いっていうの? 私たちは同性だけど互いに唯一の伴侶。それで駄目なんだったら、受け入れてくれなくたっていい」
はぁ、と短く溜息をついたのはイサだった。肩をすくめて、ギンコを見やり、それでも最初に言ったのは、海衣の病気のことだった。
「それがさ、蟲患いだったってわけ。彼女ら。隠れるようにして、大きい病院を色々まわって、原因不明、どこも悪いところはない、なんて診断結果ばっかり喰らってね、もう二人で死のうか、なんてなってる時に俺の仲間と偶然接触。蟲は俺でもあっさり払えたし。…こんな睨まれるなんて、正直心外」
おどけて笑うイサには何も反応を返さずに、ギンコは一つ質問した。翡翠色の瞳で、海衣を真っ直ぐに見る。
「…あんたは、医者かい?」
「そうです。それが…なにか?」
「いや、医者に教師、か。タツミの土地には必要だ」
ギンコがそう言った途端、ガタリと音を立てて、イサが椅子から立ち上がった。
「喉が渇いたからコーヒーでも入れてくるよ。インスタントだから、あっという間に戻るし、待っててよね」
そうやってイサが部屋を出て行くと、海衣は美咲の肩に手を触れて、柔らかく笑んで言ったのだ。
「美咲、あの人を手伝って来て」
「なんで私が」
「だって。私、コーヒーはミルクとお砂糖入ってないと駄目だから、それを言って頼んで欲しいの」
わかったわよ、もう。などとブツブツ言いながら、彼女が部屋を出て行くと、それまで自己主張など一切しなかった海衣から、今度はギンコを見つめ返したのである。
「一つ、教えて。イサさんにも聞いたけど、彼はその土地に住んでいるわけじゃないっていうから、本当に住んでいる人に確かめておきたいの」
「……何を?」
「二十人足らずっていうその里の人たちの中に、未婚の男性は何人いるの?」
ギンコは目を細めて、少し考えた。異性と結婚していない男の数を答えるのなら五人。けれどもそれでは、彼女の知りたいこととは違う気がする。では三人と答えるべきか? 説明もせずにそれを言えば、きっとあとで、嘘を吐いたと思われるだろう。
「……五人」
「そんなにいるのね…。失礼を承知で聞くけど、もしかして、あなたもその一人」
「こーらこらこらっ、わざわざ俺が席外した時に、その話蒸し返すかなぁ。さっきなんて俺のことまで、結婚相手探してないのかって聞いたよね? タツミの土地の住人でさえないのさ、勘弁してくれる?」
がちゃん、と音を立ててイサはテーブルにトレイを置いた。音のわりにコーヒーは一滴も零れていなくて、何気に彼は満足げだ。不揃いでバラバラのマグカップを、雑な仕草で置いて行きつつ、彼は既に言い終えていただろうことを繰り返す。
「俺は結婚してないけど、相手なんて探してない。大サービスで新情報も付け足そうか? 好きな人はいるけど、その人にはちゃんと相手がいる。俺はそれを一生応援する立場。それで満足なんだ。…これで理解してくれた?」
「でも、まだ若いもの。私たちと同じぐらいでしょう? 気が変わるかもしれないじゃない」
ひとりだけカフェオレの海衣のためのカップを、丁寧な仕草で差し出しながら、美咲が言った。するとイサはすうっと目を細め、極間近から彼女を睨み据えた。
「若かったら、今現在好きな相手のことも、あっさり忘れて他に鞍替えするだろうって? あんた、それ自分達に言ってるのとおんなじ、だけど?」
「やめろイサ」
「やめて、美咲」
「…ごめん。今のは私が悪かった。取り消すよ」
美咲はすぐに謝った。眼差しでだけだが、イサにも謝辞を伝えている。イサはギンコに対して、視線を流しただけで無言でいたが、短い沈黙のあとに、こう言った。
「応援してる、ってことは覚えててよね、ギンコ」
それを聞いた美咲と海衣は、思い浮かんだことを言葉には出来なかった。
イサが想いをかけているのは、ギンコのパートナーなのだろうか。それとも、もしかして、ギンコ本人なのだろうか。美しいギンコの姿を見ていると、後者のように思えてならない。もしもそうなら、今の経緯を重ねて詫びるべきだ、と。
ギンコは誰のことも視野には入れず、窓の向こうの庭木を眺めながら、音のないため息を、静かに吐いた。
「話はわかった。俺ひとりの感情で受け入れるか否かが決まることじゃないが、俺は二人を歓迎するよ。タツミはいい土地だ。待っている」
ギンコがその家を出ようとしたら、イサが追いかけてきた。急に呼びつけて悪いね、と彼は言って、玄関の戸を閉じる前に、ギンコはそれへの返事ではないことを返した。
「イサ。見た目の年を俺に合わせるのは、そろそろ無理があるだろ?」
背を向けたままの、ギンコの淡々とした声。
「えぇ? そう? 彼女らは騙されてくれたけど?」
「それでも。周囲に置いて行かれるのは、慣れているから、そんなことはしなくていいんだ」
ギンコはくるりと身を返し、数歩分、イサに近付いた。手を伸ばした彼の指がイサの髪に触れる。目を開けたまま寄せられる、血の気の薄い顔。そんな彼の唇が、イサの唇の端ぎりぎりに触れて、離れていった。
「感謝してるよ、イサ」
「…俺もさ」
出会ってくれたことに、感謝している。愛させてくれたことにも、ずっと。
「十日もしたら、彼女らを連れていく。里のみんなにどこまで話すか、誰に何を話すかは任せるよ、ギンコ」
ギンコは頷き、里へと帰っていった。
続
たーのしー。いや、読む方は楽しくないかもしれない。淡々としてるもんね。すみません。これを書く前に準備として、タツミの土地に住む人々の、今現在の年齢を全部書き出して、この人とこの人が一緒になってて子供が出来てー、とか細々と考えたんたけど、面倒くさい筈のそんな作業も楽しくて、時間かけてしまいました。作中には出ないのになにしてるの、って話。
変なことにこだわる癖が出たみたいですねー。でも楽しければいいのだ。へへへ。
淡々としてるけど、物語のクライマックスへ向けての大事なとこなんです。なんとなく分かってもらえると嬉しいです。医者と教師、ですもんね。うん。いや、わからんか…。続きを書くのも楽しみですっ。わーいわーいっ。ではっまたーっ。
2021.03.21
