鼓  動    7




「今日は随分いい天気だ」

 化野は館の二階から、タツミの土地を眺めていた。木々や家々で遮られてはいるものの、ずっと見ていると里人の姿が幾人も目に映る。今日のような風のない暖かい日は、みんな家の中になどいない。

 草の上、切り株、岩の上などに座って、それぞれ何か手仕事をしながら、他愛ない話をしているのだろう。声が聞こえるようだ。本当には聞こえなくとも、話している内容まで分る気がしてくる。

 たった二十人足らず、みんな、家族みたいなものだからなぁ。

 セキのところの三人姉妹が、ぱたぱたと道を駆けて来て、館の手前で道を折れ見えなくなる。多分、山に入ってすぐのところで花を摘むのだろう。藍色の花が沢山咲くので、それで布を染められないかと、里の女たちは最近そのことに夢中なのだ。

 蕾も姉妹と一緒に楽しそうで、何よりだと、化野は笑んでいるのに、心の底では気持ちが晴れない。

 何故里人たちは、あんなに穏やかにしていられるのだろう。生涯出られない狭い土地。病気や怪我の治療は出来ることが限られ、要らなく痛い思いをするかもしれない。苦しい思いをするかもしれない。そのうえで助からず死ぬことだってあるのに、何故。

 彼らはきっと自分が死ぬとき、大事な誰かが死ぬときでも、これが寿命で当たり前なのだと、最後には納得して逝けるのだろう。

「…俺はきっと、それが出来ない」

 想像しただけで胸が割かれるような心地がする。死に逝く自分を見ているギンコの姿が、目の前に見える気がしてくる。どんなに苦しむだろう。どんなに孤独を味わうだろう。

 それに。

 俺が逝った後までも、ギンコがこの土地に囚われるのなら、あいつは次の俺を探すことも出来ないのじゃないか? ギンコは死ぬことすらも出来ないんだぞ。

 次に転生した自分に嫉妬する心は、彼の中にもう無い。あるとしても、ギンコを想う気持ちの中に、それは溶けて混ざった。今はただ、少しでも長く生きたいと彼は思う。ギンコの為に、ギンコの為に。

 見上げると空は青く、一羽の小さな鳥が、窓の向こうを斜めに飛んでいく。視野からすぐに消えたその鳥は、明らかにこの土地の中に一度は入り、そのまま飛び去って行ったのだろう。

 ヌシは、里人だけをこの中にとらえているのだろうか。ひとりひとりの体にしるしとして、蝶となる花を与え…。

 タダハルさんが島を出た時、どんなふうだったのか。聞いておけばよかった。と、化野は思い、そう思った自分の思考にぎくりと慄いた。

「いったい、俺は、何を…」

 かたん、と小さな音が部屋の中でして、彼は弾かれたように振り返る。水路の掃除を手伝いに行っていたギンコが、いつの間にか戻っていたのだ。昨日は化野が手伝った。染物をするのなら水がいる。川の傍でするとしても、水をどこにどう引くか。そちらは男たちの仕事だからだ。

「どうしたんだ、そんな驚いて」
「いや、ただ、考え事をな」
「そうかい…?」

 ギンコは化野に近付いて、後ろからするりと彼の首筋に触れた。そのぬくみを感じて、ギンコはうっすらと笑む。

「あたたかい」
「お前の手、なんだか今日は冷たいな」
「水に触れて作業していたからだろう。水路は上手く行きそうだよ。ばあさまの家の近くに引くことになったんだ。作業をするのに女たちが集まって、ばあさまも楽しいだろうってさ」
「そりゃいいな」

 ギンコの手を首筋から離させ、そのまま指を絡めて、化野は彼の顔を見ずに、指を見ている。

「にしても、そんな青い布ばかり作ってどうするんだ。みんなで青を着るのかな」
「どんなに沢山花を摘んだって、染められる布はほんのちょっと、何枚かさ。染物するには湯を沸かさなければならないだろう? そんなに沢山薪をそのために使うわけにいかないからな」
「そう、か」

 そんなぽっちのことの為に、里全員で楽しそうに。

「凄いな、みんな」
「凄い?」
「楽しいことを見つけるのが巧いんだな、と思ったんだ。だから豊かでいられるんだろう。ちょっと、羨ましい」

 化野がそう言うと、ギンコは微かに声を立てて笑った。無理に自分の方を向かせて、彼は化野の唇を小さく吸う。あの日からギンコは前より、ずっと化野に触れるようになっていた。

「昔、俺がずっと思ってたことだ。お前を見て、ずっと、いつも。お前はいつも楽しそうだった。俺の話を聞いていつも嬉しそうにしてた。見えもしない生き物のことを聞いては、いつか見たい。俺もその生き物に関わって生きられたらと、飽きもせず繰り返してた」

 でも、とギンコは言った。後ろから回した手で、化野の胸に触れて、ギンコは何かの音を聞くように目を閉じる。

「でも、今はお前の中にも蟲が居るようなものだろう? ヌシが里人ひとりひとりに与えた、ヌシの一部。聞けるのは俺ぐらいだろうが、こうして静かにしていると、時々羽音がするんだ」

 パタパタパタ

  パサパサパサ

 虫籠の中に閉じ込められて、もがく蝶の羽音のように。

 化野はギンコの手の上に自分の手を重ねて、じっと感覚を研ぎ澄ませたが、鼓動以外の何も感じなかった。

「時々、腹立たしくなるけどな…」

 ギンコの言葉はまだ終わりではなかった。

「お前の中に居座るなんて、例えヌシのしたことでもいい気はしない。出て行けと、言いたくなる。共に居るために、自分たちで選んでこうしたことだと、分かってはいるけどな」

 化野の鼓動が、急にうるさくなった。どくん、どくん、と響いている。ギンコは化野の胸から手を離し、体を離した。

「それは…」

 可能なことなのか? 出て行かせる、なんてことが。聞いてしまいそうだったその言葉は、ぎりぎりで止めて飲み込んだ。外からはまた里人の声や足音が聞こえる。窓の外を見ると、大きな笊いっぱいに摘んだ青い花を、娘たちが運んでいるところが見えた。

「綺麗な青に染まるといいな」

 ギンコは言って、窓から遠いソファに座り、化野の医学書を捲った。

「お前も一緒に楽しめよ、化野。昔の、聡いけれど能天気なお前も、お前の中にいるんだ。もしも本当に何処か少し、違えてしまっていたとしても、お前は小さな里で、みんなに慕われている化野先生だ」

 そしてギンコは顔をあげて、化野を真っ直ぐに見る。

「俺はそんなお前が、好きなんだ」
「ずるいなぁ、お前は」

 そんなことを言われたら、不誠実な医者になど成り下がれない。

 窓から外を見ると、さっきとは別の鳥が空を飛んでいた。どうやら今度は雉であるらしい。三日ほど後、その雉は里に迷い込んできて、皆の食料となった。

 さらにその数日後、イサが里に訪れた。彼はギンコを里の外まで連れ出して、自分たちしか居ないことを確かめてからこう言った。

「伝えときたいことがあってさ。長くなりそうだし、他の誰にも聞かせたくないんだ」

 ギンコは頷いて、その足でヌシの場所に行き、いつもの手順を踏んだ。地面から現れた蝶が、彼の体に吸い込まれて消える。本当は、常から里人すべての体の中に、ヌシの一部があるのだから、これが形式だけのことだとギンコは既に分かっていたが。

 それでも彼はそのたびに、化野のいる此処に、必ず戻ると願いをかけるような気持ちになるのだ。




 約束したのはいつもの場所だ。イサや爺様の住む家。案内も請わずに入っていくのはいつものこと、奥まった部屋に入る前に、小さく声をかけると、どうぞぉ、と、少しおどけたイサの声が中から応じた。

「急に呼んで悪いな。あいつ、また駄々を捏ねなかったかい」
「いつの話をして…」

 扉を開けて中に入りながら、言い返そうとしていた言葉が止まる。イサ以外の、二つの視線が彼を見ていた。若い女が、二人。
 
「彼女ら、タツミの土地の新入りだから。ちょっとばかりややこしい事情があるんで、まずギンコに先に教えとこうと思ってさ」

 静かな表情のまま、ギンコが視線をやると、二人の女はそれぞれで軽く会釈をする。髪の短い女は美咲、髪の長い女は海衣、と名乗った。ふたりとも、酷く疲れた顔をしていた。




 

 






 前から考えてはいたのですが、この連載の着地点に後々関わってくる、新展開、ってヤツですなっ。新しい展開を持ち込むと、一時的にサクサク書けるようになるのですが、ストーリーが迷走する時も多々なので…っ。き、気をつけたいですっ(汗)

 ふたりの女性の性格とか、まだちょっと決めかねているのでそれも考えねばだったり…。うん、頑張るよっ。ではでは、また次回っ。



2021.02.27