鼓  動    6




 川魚の焼いたものと、菜のおひたし、それに煮物と、味噌汁。化野と二人で作ったそれへ、ギンコは殆ど手をつけていない。なのに、小さな音を立ててテーブルの上に箸を置き、ギンコはどこか空虚な顔をしていた。

「食べない、のか?」
「そう、だな。…考えてみたら。食べなくても」
「具合が」
「…違うんだ」  

 うっすらと笑って、目の前の魚の皿を、ギンコは自分の体から遠ざける。

「食べようが食べまいが、命に別状ない俺が、この狭い土地で限られたものを」
「何言ってるんだ」

 化野の声は怒気を孕んでいた。今までそんなことを言ったことはないのに、美味しいと言って食べていたのに、今更そんな。

 けれど、彼は己の声に慄いた。叱るつもりなどない。ただ、そんなことを言って欲しくはなくて、もしも本当に必要ないとしても、今までと同じにしていて欲しくて、どう言っていいのか言葉が選べない。

「…だが、腹は、減るんだろう…?」
「おかしな話だよ。必要ないのに。仮に食べなくて多少痩せても、ある一定以上肉が落ちれば、喰わなくても元に戻る。傷が治るのと同じだ。死なないようになってるんだ」

 言いながら、ギンコの眼差しが、すい、と静かに化野の目と合った。暗い目だ。化野は胸に何かが刺さるように思いながら、視線を逸らさないように、目を閉じないようにして、そして言った。

「俺は、お前と今までのように食事がしたいよ。そんなことを言わないでくれ、ギンコ。どうしても気になるなら、これからは俺の分を半分お前に」
「…はは」

 ギンコは笑う。そうして立ち上がり、置かれてしまっている化野の箸を、彼の手に持たせた。

「お前は喰わなきゃ痩せるし、死んじまうだろ。ちゃんと食べてくれ。なんなら俺の分もお前が」
「お前が食べないなら俺も」
「…明日からは食べる。今日だけ、勘弁してくれ」

 化野の傍らに来ていたギンコが、急に彼の後ろ髪を掴んで、強引に仰のかせた。そうしてギンコは彼の唇を己のそれで覆い、短く貪るように吸ったかと思うと、部屋を出て行く。

「ギンコ…!」
「散歩に行くだけだ。すぐ戻るから、ついてくるな」
「ギ…」
「さっきみたいなことはしないよ、約束する」

 一人残された化野は、追い掛けていきたい衝動を殺し、気が進まないまま夕食をとった。今、口にしているものを作っている間も、ギンコは殆ど黙っていたのだ。あんなことを話した後だから、いつも通りとはいかない。そう思って、化野もうまく話しかけられなかった。

 自分のことを、酷い恋人だ、と化野は思う。ギンコの方がずっと苦しいのに。苦しんできたのに、これからも苦しむのに、あんなふうに責めた。言いたくないことを無理に言わせた。

 味もろくに分らないままで食事を終え、片づけも終えて、彼は窓から外を見る。

 木々の向こうには海は見えない。潮の香もしない。波音もない。七年も此処で過ごしてきたのに、今更そのことに違和感を感じた。奇妙だと思う。ギンコに会う前だって、海の見える場所に住んでいたわけじゃなかった。なのに、此処じゃない、と頭の何処かが違和感を訴えている。

 ナキ島に帰りたいのとも違う。あの島の記憶は奇妙なほど淡くて、うっかりすると全てを忘れてしまいそうだ。でも、じゃあ、この懐かしさはなんだ。もっとずっと古い記憶だろうか。多分、最初の「俺」の。

 気付いたら彼は、視線の先にギンコを見ていた。散歩に出たはずのギンコが、二階の窓から見える場所に居る。ただぽつんと立って、真っ直ぐ前を向いている。

「ギンコ」

 ぽつり、名前を呼んで。それからはたと気付く。薄いシャツ一枚でギンコは吹く風の中に居る。髪が、シャツが揺れている。だから毛布を一枚ひっつかんで、化野は外へと飛び出した。

 傍へ走って行っても、ギンコは振り向かなかった。後ろから毛布ですっぽりと包んでも微動だにせず、まるで人形のように、冷えた体を毛布越しに抱かれた。もし今、腕をほどいたら、ギンコは立っていることさえしないのではないか。

 包んだ時、ゆら、と揺れた体の存在感が、変に淡くて、化野は怖くなった。

「ギンコ」
「……」
「ギンコ、なんとか、言ってくれ」
「うん」
「寒く、ないのか?」
「……寒いよ。これだって、おかしな話だけどな」

 泣きたくなる。どうしてそんなふうに、自分が、人間ですらないようなことを言うんだ。

「おかしか、ないだろ…?」
「…そう思うかい?」
「思うよ。だって」

 化野は毛布の合わせ目から、片手を内側に滑り込ませ、シャツ越しのギンコの肌に触れた。夜風で冷えてはいても、ちゃんと温かい。鼓動を感じる、息遣いも。冷たい髪の隙間から、唇で彼の首筋に触れれば、脈拍を感じる。血の流れている証拠だ。

「お前は、あたたかいじゃないか」
「化野」
「ん…?」
「さっき、お前の口を吸ったろう」
「あぁ」

 動作は乱暴だったけれど、酷く真摯だったと化野は思う。あの一瞬に彼は、不安と安堵を同時に感じた。求められる安堵。傍にいる安堵。それでいて、突き放されるような、距離を感じるような。

 ギンコは言う。笑みをのせたような、静かな声で、穏やかな言い方で。

「お前の唇が暖かくて、舌が、熱くて。喉には呼吸があって」
「…そりゃあ、そう…」
「鼓動していて血が通っていて。毎日食べるものが、血肉になってお前を生かしている。そのことが、俺は何より、嬉しいんだよ。俺が食べないとしても、お前は食べてくれ。俺が寝ないとしても、お前は眠ってくれ。俺が俺自身を雑に扱っても、お前はお前を大事にして、怪我も病気も、しないで、くれ」

 お前も食べなきゃ駄目だと、眠らなければいけないと、言おうとした。でもその言葉を化野が言う前に、ギンコはさらに言葉を被せた。

 俺の為に。

 と、彼は言ったのだ。

 俺の為に。

 俺の為に。
 俺の為に。

 殆ど息だけの声だった。何度も繰り返された。何度も、何度も。化野が言おうとする言葉を封じるように、繰り返される。その声は、壊れた人形の声のような声だった。抑揚すら同じに思えて、化野は恐ろしくなった。

「ギンコ…っ」

 毛布でくるんだままのギンコの体を、強引に自分へと向かせて、顔を見ると、ギンコの目の中には、声とは真逆の感情が満ちていた。零れない涙でその目は濡れて、あまりにも綺麗で、化野はその眼球に唇を寄せた。ギンコは目を閉じずに、その口付けを受けた。

「ふふ、ふ」

 触れられた瞬間、痛みがあって。化野の唇が離れると、ギンコは瞼を伏せて笑った。痛い、ということがおかしく思える。そうして毛布の中から両腕を出して、化野の首と背中を、彼は抱いたのだ。

「ふ…。恋人の気が、ふれていて、お前も大変だ」

 ざざぁ、っと木々の葉が一斉に音を立てた。その音をギンコは、

「あぁ、蝶がうるさいな」
 
 と、言った。 

 

 
 その夜。ギンコは眠らなかった。化野と共にベッドに入りはしたけれど、瞬きすら殆どせずに、化野の姿を彼は見ていた。そんなギンコを化野が見ていると、命じるように、お前は眠れ、という。お前が寝ないと、俺が眠れない。そう言われて、化野は無理にでも眠った。

 翌朝、化野は窓辺に立つギンコの姿を見る。いつものように、彼の背中に、おはよう、と言って起きて台所へ行き、朝食を用意した。二人分きちんと、いつものように。いや、いつもより多い。昨日ギンコが食べなかった分も、温めてテーブルに並べた。

「約束だ、ギンコ。食べてくれ」
「…あぁ」
「食欲が無かろうが、食べなくても問題無かろうが。…気が、ふれていようが。お前は俺の大事なギンコだ。あまり心配をかけられると、俺の、健康が損なわれる。ちょっとやそっとじゃないぞ、著しくだ。だから、食べてくれ」

 脅迫のような言葉に、くすり、とギンコが笑う。化野は目に力を込めて、ギンコを見た。そして箸で飯粒の塊を挟んで、まだ椅子にすら座っていないギンコへと差し出した。

「なんなら給仕してやる。そら、食べろ。夜は、寝るまで俺の方が見守るし、怪我や病気はお前だってするな。雑になんか扱ったら、憤慨するぞ。ブチ切れて、そして、片時も離れず見張ってやる。渡守の時だってついていく。ヌシが許すとか許さないとか、知るか」

 ギンコは苦笑したままで、テーブルに近付き、差し出されている飯粒を口で受け止めた。咀嚼しながらその苦笑が、ほんの少し泣きそうな顔になって、隠される。

「こら、そんな顔してる暇があったら、喰え。次はどれだ。卵焼きか? 鮎か? 味噌汁の具か? 大根菜だぞ」
「お前には、適わない」
「今頃分かったか。次、漬物な。塩気が強いから次は飯」

 真顔で並べられる言葉に、ギンコは笑わずにいられない。笑うような心境じゃないはずなのに、抗えない。矢継ぎ早に食べさせられて、目で小さく笑いながら、満腹になった。納得いくだけギンコに食べさせたあと、化野はやっと自分の分を食べ始め、もぐもぐと口を動かしながら言った。

「俺も、どうやら少し、気が違っているらしい」

 医者として、と、化野は続けた。

 丁度その時、外を通る里人たちの声がした。朗らかに朝の挨拶をしあう、よく知った声。化野は後ろめたそうに、声の聞こえた方の耳を、軽く塞いだ。





 





 化野がぐらつくと、ギンコも。イサの言った通りだよな、って思って。というか、ギンコはずっと前から、真っ直ぐに立つことができない程、ぼろぼろなんだよね。精神の話ね。体は癒えても心の傷はどうしようもないから。そしてそんなギンコを支えることができるのは、やっぱり化野なんだよ。

 ギンコの口から過去の話を聞いたからってことはないと思うけど、化野は今回、ぐっと「化野」に近付いたのではなかろうか。どうにかなりそうだったギンコが、少し救われたように思うんです。書いてて本当にほっとした。ラスト、またちょっと不穏だけど、大丈夫よ(多分)。

 ではでは、また次回っっ。ありがとうございましたーっ。




2021.01.24