鼓  動    5




「あまり、近くに来ないでくれ」

 と、ギンコは言った。館に戻り、寝室へと向かい、自分から先にベッドに腰を下ろしておきながら、傍らに寄り添おうとした化野のことを、ギンコは静かな目で押し留めた。

「…なんで」
「見られたくない。酷い表情をする気がするから。…いろんなことがあったんだ。本当に、いろんなことが」

 近付くなと言われても、化野は彼に近付いた。少しだけ間を開けてベッドに座ると、ギンコは恨みがましい目をちらりとだけ化野に向けた。そして、ついさっき泣いたばかりの彼の目元を見て、だからか、咎めはしなかった。

「どうしてお前は、そんなにも知りたいんだろうな。そんなヤツ今まで居なかったよ。多分、記憶喪失になったのだって、その執着と無関係じゃないんだぜ? まだ俺と会ってさえいなかったのに。…まるでさ、何人も、何人分もの記憶を全部、受け入れる覚悟をしたみたいじゃないか。そんなに何もかも知らなくたって、いいだろうにな」

 ギンコは溜息をついた。膝と膝の間に両手を垂らし、がっくりとこうべを垂れて、化野の眼差しから逃げるように。

「俺はさ」

 彼は最初に、そう言った。

「俺はさ、………を、好いていたよ」

 聞こえなかった言葉は、容易に想像がついたけれど、それを自分のことだと、化野は思えなかった。

「会いたかったんだ。いつだって。何度だって。そんな年に何度も会うもんじゃない、長居するもんじゃない、って、分かってて。それでも会わずにいることが出来なかった。自分を危険な存在だと知ったまま、きっと大丈夫だろう、って、根拠のない曖昧な考えで、会いに行っては、すぐ傍にいたんだ」

 ぽそり、ぽそりと、ギンコの言葉は零れ落ちた。小さな小さな声だったから、全神経を集中させなければ、聞き漏らしてしまいそうだった。

「会いに行って何も起こらないと、俺はますます身勝手なことを思った。大丈夫だったじゃないか。何でもなかったじゃないか。次もきっと大丈夫。気を付けているし、何かあったらその時はちゃんと対処をするさ、ってな。……でも…」

 ギンコの両手が、膝の間で震えている。彼はその手で、ゆっくり顔を覆った。

「…大丈夫なんかじゃ、なかったんだ…。危険な蟲を、俺は知らずに引き寄せていた。そうしてあの夜、あの蝶が」
「…ッ…う…」

 バサバサ バサバサバサ…ッ

 化野の耳の奥で、唐突に、大量の音が暴れた。羽音。鳥、ではない、もっと、小さな。けれどもその小さな音の集合体が、酷い程に集まって、重なって、彼の脳内を引っ掻く。でもそれは一瞬だった。無意識に顔の前で手を振ろうとしたが、その時にはもう、何も聞こえない。

「…あだしの…?」
「い、いや、なんでも…ない。気のせいだ」
「聞くのが怖いか? やめようか? 話」

 そう言ったギンコの声が、どこか安堵している気がしたけれど、化野は首を横に振った。

「駄目だ。話せ。話してくれ」
「…そうかい? にしても、長くなりすぎるからな。とにかくその時、俺は沢山の蝶に襲われてな。うっかり一匹を飲んだ。そのせいで恐らく、一度は、死んだんだよ。だから今俺が生きているのは、刻の蝶、というその蟲に、生かされているからだ。自分のしていたことの愚かさを、俺はその日やっと悟り、お前の元を去って、何年も会いにはいかなかった。そして」
「何故」

 たった二音で、化野はギンコの話を遮った。

「何故?」
「どうして、会うのをやめたんだ」
「どう…って、そりゃぁ…危険、だから」

 迷うように答えながら、違う、とギンコは思っていた。人としての生は終わりを遂げ、今や蟲に生かされている自分。もう人間ですらなくなって、化野に気味悪がられるのだけは、嫌だった。

「ギンコ」
「……」
「本当のことを」
「ほん、とうの…こと…?」

 問い返しながら、ギンコは感情の上で化野から逃げた。化野も、ベッドの上に、彼から少し離れて座ったまま、どうしてか実際以上の距離を感じていた。

「ギンコ」
「近付くな」
「どうして」
「触るな…」

 顔を上げたその目が、本当に拒絶しているように思えて、化野はたじろいだ。けれどもしようとしていた動作は変わらず、彼はギンコの腕を掴んで、引き寄せた。

「やめろ触るな離せ…っ」
「ギン…」
「見るな。…嫌だ。嫌なんだ、化野」

 化野の手を無理にでも振りほどき、ギンコは出来得る限り、化野から離れた。ベッドの上に腰を下ろしたまま、ぎりぎりまで離れて、まるで恐ろしいものを見るように、化野を見た。

「俺は、本当はこれ以上、知ってほしくないと思ってる。全部が、全部、俺のせいだから…。お前が病で死んだのも、今そうやって苦しんでいるのも。死んで転生してまで、また俺に人生を縛られるのも。もしも…俺と、出会わなければ…」

 最初から、
 出会うことさえなければ。
 最初のお前は、
 あんな死に方をする筈がなかった。
 
 二人目だって、
 本当の両親の傍で生きられた。
 三人目だって、
 四人目だって、
 五人目だって、きっと、
 そうなのだろう。
 
 俺はお前を、
 ずっと、不幸にするだけだ。

「すまん、取り乱したな。話の続きを、しようか」
 
 長い沈黙のあとに、ギンコはそう言って、うっすらと笑って、話した。

 二人目の化野のことを、ギンコは化野とは知らなかった。赤ん坊を拾って育てたら、その子は姿も仕草も性格も、化野になっていったのだという。そうして、親子ほどの年の差があるのに、それでもその子は、ギンコを愛したのだ、と。

「なぁ? 化野。今こうして此処にいるお前だって、俺が無理に探して、無理に出会わなければ、こんな人生を生きていない。俺を恨みたくならないか? お前がお前以外の今までの化野と、自分を重ねて思えないのは、植え付けられただけの嘘の感情で、俺を愛することに、もういい加減、嫌気が差し」

 ギンコの声が、ふつりと途切れた。化野が片手を彼の顔の前に差し出して、無言で言葉を止めさせたからだ。

「止せ」

 と、彼は言った。

「違う」

 と。

「なんで…。なんで、そんなふうに思うんだ。俺は一言もそんなこと言ってない。思ってない。お前を好きだ。愛してるよ。こんなに人を、想ったことなんてない。俺は、俺以外の『化野』に嫉妬して、憎みたくなるほどの気持ちになるけど、ギンコ、お前のことは、俺自身の感情で好きなんだ。この感情に嘘なんて…っ」

 化野はギンコを見て、その目の中の、うっすらとした笑みを見て、顔を歪めた。100年、200年。何人もの「化野」と共に生きたギンコの言葉は、重くて、圧し潰されそうなほど重くて、怖くなる。もしもそれが「真実」だったなら、と。

「じゃあ、此処にいる俺は、ただ、作られた嘘の存在なのか? お前は俺をこんなに思ってくれているのに、それでも、嘘、だと?」

 ギンコは項垂れていた。化野から顔を隠し、けして見せようとせず。けれど、隠しようもなく、小さく、嗚咽を零した。

「…俺は『化野』だよ、ギンコ。この世に今、たったひとりしか居ない、お前の為の『化野』なんだよ」

 過去の俺もそうだったように、
 俺のあとの俺もそうなるように、
 嘘じゃない。偽物じゃない。
 紛いでもなんでもない。
 『化野』という名で、
 この姿で、医者をしていて、
 お前を、心から愛す。
 それこそが『俺』なのだ。

 何故、こんなふうに存在するのかとか、そんなもの、どうだっていい。お前が求めて、お前と出会って、お前を愛して、死ぬまで、その死の先までも、お前を愛す、ただ一人の『化野』。

「ギンコ。死なないお前の住むこの世界に、常に俺が居るのは、きっと、お前のせいでも蟲のせいでもない。お前を想う『俺』の想いが、いつまでもどこまでも途切れないから、そのせいなんだろう。過去の俺は、だから『俺』なんだ。次の『俺』も『俺』なんだ。やっとわかった」
 
 やっと、そう思えた。

「好きだ、ギンコ。言いたくないことを言わせて、悪かった」

 手を差し伸べて引き寄せると、体を強張らせたままのギンコが、彼の腕に抱かれた。口を吸い、髪を撫で、間近で目を見つめると、その目の奥に、消えない罪の意識が、ゆらゆらと揺れていた。

「…好きだよ」

 もう一度、そう言ってやることしか出来ず、胸が裂けてしまいそうだと、化野は思った。








 


 
 
年を跨いでやっと続きが書けました。多忙期とストーリーの華僑が重なるのって、ほんとあかんって思いました。ギンコの魂についた傷の深さを知った化野は、これからどう変わっていくのでしょう。そして隠してきた心を明かしたギンコは…。タツミの土地は? ギンコの中の蟲は…。

 いつものことながら不穏ではございますが、また続き、頑張って書きますね。ではでは、現実社会もいろいろと不穏ですので、皆々様、油断なく生きて参りましょう。

 

2021.01.03