鼓  動    4




 鈍い痛みが、波の寄せるように何度も、化野の頭の中を行き来している。精を放った瞬間ではなく、身を剥がして仰向けになった途端、それは訪れた。

 今で、良かった。
 
 などとつい思い、内心で化野は笑いもした。真っ最中だの、まだ身を繋げたままの時だのに、激しい痛みに襲われたら適わん。もしそんなふうだったら、それは愛しい相手との愛の行為を、凶悪な刃物でぶつりと断たれるがごとし、だ。

 望んでいることでも、それは辛い。そんなふうだと、最初の時のように、ギンコは彼を心配する。化野は続く痛みに耐えながら、息を深くゆっくりと吸い、ゆっくりと吐く。幸いにして気付かれず、ギンコは体を拭きにベッドを離れていった。

「あ、ぁあ…ぁ…」

 そうだ。こんなふうだった。思えば久々なのではないか。今度は何が見えるのか。どんな『過去』を俺は知るのか。

 編集が滅茶滅茶な録画を、早送りしたり巻き戻ししたりしながら、無理に見せられているようなものだ。脳裏に流れるばらばらなそれを、なんとか頭の中で切って並べ直して、繋げ合わせていく。本当にそれでいいのかの答え合わせは、ギンコに問えば、分かるのだろうが。

 どうしても、聞けない。

「化野」
「ん、あぁ」
「…何か、思い出したか?」
「あぁ、多分」

 寝室に戻ってきたギンコの声を言いながら、無意識に両手で額を押さえていて、隠すはずだった苦痛を知られてしまう。ギンコは暖かな手のひらで、そっと化野の髪を撫で、額に手を置いてくれた。

「そんな思いしてまで急がなくてもいい…。まだまだ、時間はあるだろう? それに、これ以上知らなくたって、何も」
「嫌だ」
「…化野……」

 やっと見えた断片をなんとか繋ぎ合わせてみれば、それらは既に見たことのあるものばかりで、焦りがひたひたと化野の足元に寄せてくる。知らずにいる過去は、無いも同然だ。過去の俺は、今の俺ではないと突き付けられるような気がする。

 それはただの事実に過ぎないというのに、心を揺らす化野にとって、絶望の塊のようなものだった。


 ギンコが俺のものなのは、
 所詮は「今」だけじゃないか。
 そうして俺が死ねば、
 ギンコは「次」の俺のものになる…。
 あぁ、嫌でたまらない。
 せめて、すべてを知りたい。


「もう一度」
「何言ってんだよ、そんな辛そうにしてて」
「もう一度だ、ギンコ」
 
 化野がギンコの手首を掴む。引き寄せようとして抗われ、狂おしい目で彼はギンコを見た。

「嫌がるのか、ギンコ」
「…お前、おかしいぜ? 疲れてるんだろう、きっと」
「疲れてなんかいない! 例えばそうだとしたって、そんなものはどうでもいい。どうでもいいんだよ…。ん…っ」

 ギンコは化野の唇を一瞬塞いで、それから至近距離で彼の目を覗き込んだ。それから何かを言う前に、もう一度、ゆっくりと唇を重ねる。深い口付けだった。でも、ギンコの方からは、とても静かな。

「…何を焦ってるんだ。俺はお前だけのものだぜ…? 他の誰かに心を揺らされたりしない。お前と共に居るために『此処』で暮らしてるっていうのに」

 自由の戻った唇で、化野はその時、言ってはならないことを言ったのかもしれない。責める相手が間違っている。ギンコがずっと、どんな想いをしてきたのか、想像するだけだって苦しくて気が変になりそうなのに。なのに、化野は彼を、責めたも同然だった。

「お前は、俺だけのものじゃない…。俺はお前のものなのに…。知りたいんだ。全部知って、お前の出会った全部の俺に…なりたいんだ。今までだけじゃない。この先も、ずっとずっと先も、お前の唯一に…」

 ギンコは目を見開いて。それまで化野が、一度も見たことの無い顔をして、酷く唇を戦慄かせた。

「…じゃあ…どうして…。…っ……」
 
 彼は、ぎゅ、と目を強くつぶったかと思うと、ふらり、化野から離れて部屋を出て行った。

「ギ…ン……?」

 


 ギンコは人家の方ではなく、山の奥へと踏み入っていく。今、誰かに姿を見られるわけにいかない。こんな、今にも全部を滅茶苦茶にしそうな顔をして、この里に平和に暮らす人々と会うわけには。

 じゃあどうして。と、呟いた先に、自分は何を言おうとした? どうして死んだんだ、と? 俺が殺したようなものなのに? こんな非道い運命に、化野を繋いだのは俺なのに。何もかも、すべてに俺が悪いのだ。

 いいや、悪いのは…あの。
 あの蟲が、あの蝶たちが…。

 ギンコは胸の奥に灯った黒い火で、同じ胸の中にいる蝶を焼き払いたくて仕方がない。そんなことをしたら、そんなことがもしも出来たら、永遠に繋がっているこの鎖は切れて、楽になれるのだろうか。

 道のない山中を行くと、鋭い葉や枝で、手や頬など剥き出しの個所が傷ついて、その傷が瞬時に治っていく様と、その感覚を感じる。糞喰らえだ、こんな体。

 ふと、折れて尖った太い枝が目に映る。これで胸を刺せば、体内の蝶は苦しむだろうか。自分も同時に苦しいが、意識でも飛べば、この思考からは逃げられる。

 死ねない自殺願望に酔って、ギンコはふらりとその枝に近付いた。こんな気持ちになるのは久々だった。木の幹に生えたままで折れて尖っている枝。なんてお誂え向きなとさえ思う。

「死ぬはずなのに生かされる、その回数に、上限はないのかねぇ。なぁ、蝶たちよ…」

 切っ先を胸にあてがい、力を込めて突き刺す。そうしようとする瞬間に、化野の顔がよぎった。泣いて…。こんなの見たら、化野はきっと衝動的に、自分も死のうと、したり。

 躊躇った、その、時。

「…や、やめろ…ッッ」

 後ろから激しく抱かれ引き寄せられて、ギンコはその相手と共に、斜面を転がり落ちた、のだ。

「やめろ、やめろ、やめ、ろお…っ…」

「死ぬな、死ぬな、死ぬな、ギンコ」

「死ぬなよ、嫌だ…ぁ…っ」

 半狂乱のその声を耳元で聞きながら、二人身を重ねたまま、転がって、転がって、やがては、背を岩に打ち付けて、止まった。ギンコは痛みに呻いて、それでもなんとか、化野の体を庇えたことにほっとして、真っ青になっている、彼の顔を覗き込んだ。

「…死にゃしねぇ……」
「ギン…コ」
「俺は、死にゃ、しねぇよ。悪ぃ、びっくり、させたな。化野」

 化野はがばりと起き上がって、ギンコのシャツの胸をまくり上げ、腹に新しい傷の一つもないことを、目で、手で確かめてから、やっと息を吸った。

 彼はギンコの腹に額を押し付け、そのまま視野に入っている、惨い傷跡を見ていた。もう、随分前になるのに、残っている刃物の跡、ギンコが化野の命を、通り魔から救った、あの。

「ひっ、う……。うぁ、あ…っ…」

 そうして、彼は、目が溶けてしまうのではないかと思うほどに、ぼろぼろと泣いた。ギンコはそんな彼を抱いたまま、ぽつんぽつんと言った。

「…お前、幾つだよ? ガキみてぇに泣くな。そんな顔すると、二人目のお前みたいだ。二人目のお前にゃ、もっと酷いとこ見せたけどな……」

 話してやる、とギンコは言った。そんなに知りたきゃ、話してやるよ、と。









 日々があまりに静かだと、心の奥に抱えた痛みは、かえって表に出てくるような気がして。化野の中に湧きあがっていた心のざわつきは、やっぱりギンコの傷をまさぐってしまうのですね。

 俺が、俺が、と苦しむ化野のそんな姿に、ギンコは自身の罪を思う。あんな日がなければ、そもそも出会わなければ。

 好き合っていても、互いに傷つけてしまうことはやっぱりあるんですよ。寧ろ、だからこそ何もかもが、静かであれずに乱れてしまうような気がします。書いてて苦しいよなぁ、って思うのでした。

 蟲を恨むギンコは、彼らしくないけれどとても人間らしくて、そうだよな、勿論そうだよな、恨みたいよな、憎いよな、って思うの。幸せでいてくれ。どうか少しでもまた、幸せに近付いておくれ。それが束の間に過ぎなくとも。   

 ではまた次回。



2020/10/04