鼓 動 3
夜でもないのに、何故かイサは部屋に一本の蝋燭を灯した。新しい蝋燭だが、細くて小さいものだった。白い小皿の上に、ぽたり、と一滴蝋を落として、そこにぴたりと蝋燭を立てると、化野と白也と自分とが座る真ん中にそれを置いた。
ゆら、ゆらと火は揺れる。居住まいを正したりなどせず、イサは胡坐を組み、怠惰な姿勢のままだった。
確かに、七年経っている。イサの上も同じにその時間が過ぎたはずなのに、彼はせいぜい、二、三年しか年を取っていないように見えるのだ。ギンコとの歳の差を、わずかしか感じないような。
「さて、と。あんまり長く話してもあれだから、この火が消えるまでぐらいにまとめようかな、ってね。楽にして聞いていいよ。緊張したって、別に何か変わるわけじゃないから。で、さ、先に聞いとくけど、白也は実はギンコのことが、少し、怖いんだろう」
問われた途端、白也が緊張を強めたのが分かった。するなと言われても到底無理な話であるらしかった。きちりと正座をして、膝の上に置いた手でこぶしを作っている。そうして眼差しはずっと、揺れる蝋燭の火の上に。
「……はい。怖い、です」
白也の声に、化野が何か言い掛けるが、視線を一瞬割り振るだけで、イサが彼の言葉を止めた。
「仕方のないことだ、白也。あんたが悪いわけじゃない。あいつの寿命のこともある。ヌシ様に対して、どこか冷めた所作をするのも気になる筈だ。そんなふうに、ギンコが他者と違うことは、他の里人の誰もが知らない、或いは知っていて何とも思わなくなっても、あんただけはずっと心に残していただろうし、それが神官たる証だとも言える。でも、あんたと比べて蕾は殆ど何も見ていない。知らない。なのにあの子はギンコを怖がる。どうしてだと思う?」
その問いかけは、化野と白也の間の空間に放たれた。けれど化野には答えが分からない。白也は暫し黙ったのちに言った。
「神官だから、ですか…?」
「まぁ、そうに決まっているんだけどさ。蕾は『ヌシ様』に近いんだ。白也とナキ島のヌシ様よりも、蕾と此処の『ヌシ様』の方が遥かに近い。それはこの土地のヌシ様が、まだ、生まれたばかりの、幼い存在、だからだ」
「え…」
不思議なことを言われたような顔を、白也はした。ヌシ様はヌシ様だ。生まれて七年にしかならないのは知っていても、幼い、などという言葉はそぐわない。それではまるで、不安定で弱いと言っているように聞こえてしまう。
イサは白也のそうした気持ちを分かっていて、何も言わず、ただ軽く肩をすくめた。
「とにかくね。ヌシ様は幼くて全てに経験が浅く、それ故、ナキ島のヌシ様ほどには揺るがない存在じゃあ無い。だからこそ神官の蕾には、ヌシ様の揺らぎが伝わってしまうってことなんだよ」
「ヌシ様の、揺らぎ…」
おうむ返しに白也は言ったが、化野は何も言わなかった。ただ彼は、既に半分近く減ってしまった、蝋燭の火を見ている。これ以上、何か聞くのが怖かった。
蕾がギンコを怖がっていることは、かなり前から気付いていた。見目のせいかと最初は思い、そうじゃないことにやがては気付き、けれども、じゃあどうしてと思うと、まったく理由のわからなかった、それ。
あの子の怯えはヌシの揺らぎ。
ヌシはギンコを、恐れている、と。
つまりはそういうことなのか。
「でも」
白也が何かを言おうとしている、化野は炎を見たまま唇を引き結んでいた。逃げたかった。こんな話をしているこの家から。でも無意味だと分かっている。例え此処から逃げても、それ以上何処にも逃げられないからだ。
「ちが…違う…」
唐突に言葉を零したのは、俯いたままの化野だった。無意識に零れた言葉だった。白也が青ざめた化野を気にする。
「先生?」
「…まぁ、さ。蟲が見えてもいないあんたには、ちょっとわけが分からなすぎるんだろうけどさ」
イサは軽く言いながら、眼差しでは化野を刺していた。それ以上たじろぐな。それ以上此処であんたが揺らぐな。幼いヌシはナキ島の歳更るヌシよりも、ずっと人に近い場所に居る。聞いていないとも限らない。言葉が分からなくとも、空気は伝わるやもしれぬ。
「で、白也、何?」
「あ、いえ。でもギンコさんはいい人だし、渡守の役目もしっかり勤めてくれていて、勿論、この土地や里人や、ヌシ様に何かするなんてことはあり得ない。それでも、人と違うヌシ様には、伝わらない、と…?」
「…どうだろうね。言葉で説明するわけにいかないし。だけどギンコ自身、蕾の様子に気付いているし、俺が言わなくたって、蕾を通じて見えているヌシ様の揺らぎは分ってるさ」
だから大丈夫、と。言葉では言わず、イサはけれど、そう言ったかのように、静かに笑った。蝋燭が、もう燃え尽きようとしている。その炎の上を凪ぐように、イサの片手が空を一閃した。
じ…っ。
音もなく消えた炎。火の消えた途端に現れた煙が、生き物のようにうねって、やがては見えなくなった。
「あんたって、本当に隠し事が出来ないたちだよね。それでよく医者なんかやってる」
白也の家を後にして、石敷の小道を踏み歩きながら、イサはそう言って化野を笑った。
「前に里人から聞いたよ。二年前のこと。ここで一人死んだ時、あんた、何日も普通じゃなかったんだって? 笑わない、必要最低限しか喋らない。あまりもの食べず、十日ほどの間塞ぎ込んでた、ってね。過ぎてしまってから言っても、と思って言わなかったけどさ」
イサは一度立ち止まり、足を止め自分を振り向いた化野にこう行った。
「ヌシが揺れると蕾には不安が伝わる、って話をさっきしたよね。丁度いいから、あんたにはこの際もうひとつ付け加えとく。あんたが揺らぐと、ギンコはそれこそ大揺れだ。決まり切ったことでぐらぐらすんなよ。死にゆく里人を、あんたは救えないって、あんなに言ったのに、それか」
イサはまた歩き出し、肩を軽くぶつけながら化野を追い抜いた。
「ってね。こんなふうに、俺があんたを責めたこと、ギンコに悟らせるなよ。嫌われちゃかなわない。協力しやすいようにしといてよ」
道が分かれるところを直角に折れて、イサはそのまま里を出ていくらしかった。
化野が屋敷に戻ると、部屋の中の大きな机には、イサが置いて行ったメモ書きが数枚、飛ばないように本を重石に置いてあった。次にギンコが渡守に出る時、役立てられるような詳細な内容。
何時頃なら何が手に入りやすいか。どの業者にどんな話をつけてあるか。里から持ち出す売り物の土は、どのぐらい必要か。土の小分けの要望、種の類の需要の有無。
一枚一枚目を通し、イサのしてくれていることの綿密さを思う。さっき会ったのに、いつも本当に助かっている、と、礼を言うのを忘れていた。これからもよろしく頼むと頭を下げることも。
不甲斐ないことばかりだと、どさり、椅子に腰を落とし、ようやっと化野は、奥の部屋からの物音に気付く。
「ギ、ギンコ? 戻って居たのか。さっきイサが」
「あぁ、漢方の書に目を通していた。次はここら辺の、もう少し詳しい内容が知りたいかと思って。専門書は取り寄せが必要なこともあるから、少し厄介だが。手回しすれば可能だとイサが。取り寄せたり予約したりすると、どうしたって記録が残るから、それを。……どうした?」
「ギンコ」
問いかけには答えず、化野はもう一度ギンコを呼んだ。奥の部屋には入らずに、化野はもう一度、居間の椅子に深く身を沈める。ギンコは作業の手を止め、化野の隣に座った。
「疲れた顔だ、化野」
「お前も、そう見えるよ。少しは休んでくれ。イサと一緒に戻ったのか?」
「いや、電車を一本ずらして戻ったんだ。なるべく目立たないように。そうだな、少し休む。でも、イサが資料を置いて行ってくれたから、次の渡守までにやりたいこと、里の皆の言う、して貰いたいことを整理しないと」
作業を中断したくせに、ギンコの手には専門書が一冊。化野はその本を取り上げて、テーブルの上に置いて、その手でギンコの腰を抱いた。
「疲れたから」
「うん」
「お前が欲しいよ」
「繋がらないぜ? それ」
「そんなことはない」
「鍵をかけないと」
「悪いことをするわけじゃない」
抱き寄せられて、化野からの口付けを受けて、ギンコは服を乱される。化野の目の前で、若いままの彼の体は綺麗だった。化野は自身も服を脱ぎながら、自分と彼との体の差異を、どうしても考えずにはいられなかった。
「ふ…」
「何笑って」
「お前をなるべく何度も抱きたい。だってまだ、思い出していないことがあるんだ。このままは嫌だ」
時間は減っていく。
このままで死ぬのは、
嫌なんだ。
お前を置いて。
お前を、置いて。
あぁ、酷い話だ。この里で人が死んだとき、俺は、救えないことに傷つきながら、俺も同じだと思っていた。俺は不死じゃない。死ぬんだ。死ぬ…。
化野は、医者であるよりも前に、医者であることよりも激しく、ギンコを想う存在だった。
「教えてくれ、ギンコ」
「わかったよ」
化野は目を閉じて、ギンコを愛撫した。消えたはずの蝋燭の火が、ちらちらと何かを燃やして、何処かで確かに、揺れている。
続
ナキ島とこの土地の差異を考える。そして過ぎ去った七年というものを考えます。七年って、短いようでいて長いですよね。生まれた子が小学生に上がるぐらいの年月。この里に小学校はないけれども。
(子供にものを教えるのは、誰かが手分けしてやってるんだろうな、とかも思ったりする。そういうの考えるのは楽しい。何もないからこそ、時間が余ったりは絶対しない暮らしだな、とか…)
化野とギンコの歳の差がじわじわと開いていくことを、作中で書いたことは無いように思います。難しいなぁ。でもわくわくもする不思議な感覚。まだ30代前半よね。まだ若いよね化野。でもギンコのがもっと若いのよ。
と、とにかく楽しんで頭使って、頑張りますっ。
2020/08/22
