記  憶    28
 




 タツミの里の宴会は、夜遅くまで続いた。食べて飲んで、歌って騒いで、みんなで笑い合った。飲み過ぎて、或いは騒ぎ疲れて眠たくなって、ひとりひとりと潰れていって、そんな中、一番最後まで起きていたのはハツエだった。

 白々と夜が明ける頃、老女は一人立ち上がる。そうして彼女は、歩き慣れた里の道を歩き、自分の家へと戻るのだ。数年前まで伴侶と暮らした家だった。老女は言う。その家には今、確かに彼女しか居ないけれども、彼女はひとりではなかった。

「じいさんや…」

 呼び掛けて、返事を貰えたかのように、ハツエは笑んで、うん、うん、と満足そうに頷いた。

「…大丈夫さぁ、一緒にいるよ」
 

 

「ばあちゃんが居ないっ」

 最初にそう声を上げたのは誰だっただろう。驚いて、みんなで館の中を探した。きっと家に戻っただけだよ、見てくるよ、と、ひとりが言って、外へ飛び出そうとしたその時だった。

「おやおや、みんな、なに探してるんだい?」

 今の今まで居なかった筈のハツエが、朝の光の差す窓辺に立っていたのだ。心配していたみんなは一斉に肩の力を抜く。

「ばあ様を探してたんだよ。どこ行ったのかと思って」

 駆け寄って、リョクヤがそう言った。ハツエのことを、自分の祖母のように大事に思っている彼だ。この間も彼女を背負って、もう此処を離れるのだからと、里中をゆっくり歩いてやっていた。ハツエはリョクヤを見てにっこりと笑う。

「…あたしはね、何処にも行かないよ」

 酷く透き通った顔だった、見ていて不安になるほどの。

「え…」
「何処にも行かない。みんな、あたしを此処に置いていっとくれ」

 その一瞬、誰も何も言わない。本当は誰もが心の隅で、案じていたことだったのかもしれなかった。

「な、何言ってるの、ハツエさんっ」
「そうだよ、ここは誰も居なくなるんだよ?」
「もうヌシ様のご加護もなくなる。此処に居たら…っ」

 ただ、ひとりで、死ぬだけ。だけれど、そんな恐ろしい言葉を、口にできるものは…。

「おばあちゃん、死んじゃうんだよッ。ここは一人で暮らしていける場所じゃなくなるんだからっ」

 裏返ったような声で、そう言ったのはミサキだった。駆け寄って、ハツエに縋りついて、彼女は涙を流していた。

「そんなのっ、ひとりで死ぬなんて、絶対にダメだよ…ッ」

 ミイでさえが驚いて、立ち尽くしたままで居る。それでも、少し遅れて彼女は気付いた。きっとミサキは、自分のひいばあちゃんのことを思い出している。看取ってくれた見知らぬ人は居たにせよ、身内の誰も傍にいてやれなかった。ひとりで逝かせた。その後悔が、今あふれ出したに違いない。

 ミサキの言葉にはっとして、みんなが改めてハツエを説得しようとする。でも、彼らが言葉を選ぶほんの少しの沈黙に、ギンコの言葉が変に響いて聞こえたのだ。

「恐らく、死ぬのとは…少し違う。今なら彼女は、死ぬわけじゃない」

 ギンコは部屋の奥の椅子に一人座って、ほんの少し首を横に傾げ、静かなさまで老女を見ていた。
 
「ヌシがまだ、完全には消えずに此処に居て、細くだけれど里のみんなと繋がっているのを感じるんだ。里を出れば切れてしまうような、弱弱しい繋がりに過ぎないのだろうが。ハツエさんが此処に残るのなら、きっと、彼女のことはヌシが…」

 ヌシが隠す、包む、覆う、それとも、ひとつになる、とでも言えばいいだろうか。それ以上は言葉を選べず、ギンコは黙った。ヒトの側にいるよりも、自分は向こうに行きたいのだと、ハツエはきっと思っている。そう思っている人間を、しばしば、蟲はあちらへ『連れてゆく』。

「で、でも…っ」

 それでも何か言い掛けたみんなの顔を、ハツエはゆっくり、順番に眺める。

「…あんなに大事に思ってた島のことも、もう全然分からなくなってしまった。あたしはもうこんなおばあちゃんなんだから、ここを離れたらまた忘れる。里のことも、里で一緒に暮らしたじいさんとのことも、みんなのことも。もうそんなのは、嫌なんだよ」

 そして老女はギンコを見て、皴の刻まれた頬に笑みを浮かべるのだ。

「あたしはギンコさんのいうことが分かる。死ぬわけじゃないんだって、なんでだかよく分かる。ヌシと、此処での思い出と、じいさんと、あたしとで、居させておくれ。なぁ、みんな。…今まで、ほんとうにありがとう」

 ミサキはまだ泣いていたが、ミイに宥められて老婆の体を離した。リョクヤは堰が切れたように号泣して、まるで小さな子供のように、ハツエに抱かれて頭を撫でられていた。その涙はもう、諦める為の涙だった。

 あと数日しか一緒に居られないのは、彼女を此処に残していっても、そうでなくとも変わらない。でももう本当の意味で、彼女とだけは永遠の別れになる。みんなハツエの傍に集まって、教えて欲しかった刺繍を習ったり、古い昔の歌を一緒に口ずさんだりするのだった。

「流石は島の民、里の仲間だなぁ」

 ギンコの隣の椅子に力なく腰を下ろして、化野が言う。そんな彼へと視線を向けて、ギンコは彼にだけ聞こえる声の大きさで話した。

「俺はお前がずっと黙ってたのが意外だよ。こういう時、一番強く引き止めるのがお前だし、最後まで諦めないのがお前だと思っていた」
「…俺だって、少しは変わったのさ」

 化野はギンコの手首を捕えて、その脈拍を計る。異常が無いと分かっても離さずに、手の甲へと指を滑らせ、ぽつり、ぽつりと呟いた。

「俺は医者だから、患者を生かすことが仕事だし、何の努力もせずに誰かを死なせるのは、よくないことだと思っていた。でもヒトは、生きてさえいれば幸せってわけじゃないんだよな。もう死なせてくれって、患者にも、患者の家族にも縋られたことがある。生きる方が、遥かに苦しい場合も、確かにあるんだ」

 生きる、とは何だろう。生命活動を止めないことを、生きるという。だけれど、精一杯生きて、生きて、もういい、これ以上はもういいんだと、当の本人が望んだ時、無理に引き止めず逝かせてやることの方が、生かす、という言葉に相応しいのかもしれない。

「なぁ…? ギンコ…」

 そう呼び掛けた化野の顔は、青ざめて見えた。まだ明け切らない朝の光のせいではない、本当に青ざめて、怯えた顔をしていた。

「…んん?」
「いや、なんでもないよ」
「聞きたいことがあるんなら。…まぁ、聞きたくても言葉にしたくない時も、あるよな…」

 今度はギンコから化野の手を取って、自分の手の指と、彼の指を絡ませる。温かな手と手だった。そこにぬくもりがあるということが、化野は心底嬉しく、その温もりがいつかは消えることを思うと、そうして触れているのが怖ろしかった。それは、これまでずっと、ギンコだけの苦しみだったけれど、今は。

「ギンコ、もし」
「…あぁ」
「お前が」
「あぁ」
「……なんでも、ない」

 言いかけては黙る化野の隣に、ただ、ギンコは居る。そんな彼の指の爪が、彼の髪が、多分、少しずつ伸びている。その意味を考えるのが、化野は怖いのだった。
  


   

 その日、翌朝、もう一度ハツエの気持ちを確かめて、ギンコはイサに電話しようとした。そうしたらリョクヤが、自分が言いたいと言ってきて、携帯端末の使い方を教えてやった。泣きながら、彼はイサに話をする。イサは殆ど相槌だけを打って、ハツエの願いどおりにすると約束したそうだ。

 更にその翌日から、数人ずつ、里人は里から出て行く。五日ほど経ったある日は、ミイとミサキが里を出る番だった。イサを待っている時間、ミサキがギンコにこう聞いた。

「教えてよ。あたしもミイも、もともと蟲が見えないけど、此処で暮らしている間は、時々気配を感じる時があったんだ。そういうのって、この里を出たら無くなってしまうのかな」
「…個人差があるから、分からないけどな。此処に居る間に体質が変わったのかもしれないし、此処に居る間だけ敏感なのかもしれない。何故、今、そんなことを?」

 すると彼女は、嵐が来た日に、化野に話したことを、ギンコにもざっと話した。一人暮らしをしていた曾祖母。知らない医者に看取られて死んだ彼女は、恐らく蟲が見えていた。彼女の見ていた蟲を、もしも見られるなら自分も見たいのだと。

 高台にある家、其処からは小さな湾と海が見えるのだという。遠くから聞こえる波の音、微かに感じる潮の匂い。

「私が子供の頃、おばあちゃん、ずっと言ってたんだ。ミサちゃんにも見えたらいいのに、とっても綺麗なチョウチョなんだよ、って。白と、黒の。出来たら一度でも、その蝶を見てみたくて」
 
 彼女がそう言った途端、ギンコの顔からは、一瞬で表情が抜け落ちた。

「それ、どこ…」
「ミサキ、ミイ、支度は出来ているよね」

 いつからか傍に来ていたイサが、ギンコの言葉を遮った。ギンコはミサキたちを引き留めることなく、化野と共に彼女らに別れを言って送り出す。ただ、イサはギンコを一度だけ振り向いて、言ったのである。

「ギンコ、知りたかったら、俺に聞いて。多分、一番知っているのは、俺だから」












 
ちょっと短めですが、今回はこれでっ。思い悩みまくっていたわりにサクっと書けたのです。サクっと書いていいところだったのか、っていう不安はあるけども! けどもねっ、これでっ。

 命に対して考える化野先生、いろいろと思うところはあるようです。ではまた、次回っ。



2023.06.24