記  憶    29
 




 里から少し、木々の多い方へと分け行ったところに「ヌシ様」の居場所がある。其処だけ木も背の高い草も生えていなくて、大きな石が平たい面を見せて土に埋まっているのだ。川で沢山魚が取れた時、畑で立派な収穫があった時にも、蕾は其処にいるヌシに、感謝を伝えてきた。

 だけれど。

「もう、ここにヌシ様は居ないのかな…?」

 ぽつん、と淋しそうに呟いた蕾の言葉に、隣に居る白也が答えた。

「まだおられるよ。ギンコさんもああ言ってたしね。もしかしたら疲れていて、うつらうつらしてたりするのかもしれないけど」
「…ヌシ様が、うつらうつら?」

 蕾は少しだけ笑った。どんな姿をしているか知らなくとも、眠たい時に自分がうつらうつらするように、ヌシ様がうたた寝していると思ったら、なんだか微笑ましかった。

「ヌシ様も夢を見るのかなぁ、見るんだといいな。みんなのことを、夢で見ていて欲しい」

 誰もが去ってしまっても、此処に残るおばあさんと一緒に、ずっと賑やかだった時間の、楽しい夢を見ていて欲しかった。

 ナキ島のヌシが遠くへ行ってしまったのと違って、タツミの里のヌシは寿命が尽きて、死んでしまうのだとイサに聞いた。運命を共にすることなく、去っていく自分たちだけど、それでも此処で暮らした日々の記憶を、最後にヌシが良いものとして思い出していてくれたら。

 そんなふうに思う自分のことを、なんて勝手なんだろうと蕾は思って項垂れる。白也は彼女の頭を撫でて、静かに微笑むのだ。

「きっと許して下さるよ。だからみんなでずっと、忘れずに覚えていよう」

 タツミの里の里人たちは今、館で寝起きしていた。もうここを離れてバラバラになってしまうから、一時でも互いを感じられる場所に居たいと思うのだろう。

 みんなと言ってももう、半分ほどに減ってしまって、残っているのは白也と、蕾の家族たちとリョクヤの家族、そしてギンコと化野と、此処を離れないことが決まっているハツエ。リョクヤは今日、妻や子と共に此処を離れるから、ハツエの傍に居て、繰り返し繰り返し思い出話をしている。

 ところどころ聞こえてくるそれを耳にしながら、化野もまたギンコの傍を、離れようとしなかった。

「…俺はお前の傍に居るよ、化野」

 何の前置きも無くギンコが言う。自分から離れない化野を揶揄するように、そう言うのだ。

「勿論だ、ギンコ」

 返しながら、化野はすぐ傍らにあるギンコの手を取り、指を絡める。冷たくなどない手、血の通う暖かい手。勿論、死人のように固くなっても居ない。生きているのだから、当然のこと。でも、その「当然」が、揺らぎかけているのではないかと、化野は案じていた。

 部屋の扉が開いて、外に出かけていた白也と蕾が戻ってきた。蕾は家族の方へ行き、白也は何か物言いたげな顔をして、二人に近付いてくる。

「ギンコさんはあれから、体は…?」

 少し聞き難そうな問い掛けだった。里人は皆、大なり小なりギンコが他者と違うことを知っている。老いないこと、もしも大きな怪我をしても、命に関わったりしないこと。それでも数日前の嵐の日、彼がまるで、死んだように見えたことはあまりに異様だった。

「…聞くべきじゃないのかとも思ったんですが、気になってしまって。あの時のギンコさんの…。あれは、この里のヌシ様の変調と、関わりのあることなんですか?」
「あれは、俺の体の問題だ。この里のこととは無関係だよ」

 はっきりそう言われて、白也は息をつく。
 
「すみません、おかしなことを聞いて」
「いや、心配するのも、もっともだ。なんなら、念のためみようか?」

 ギンコはそう言って立ち上がる。化野の手をやんわりと振り解き、彼は当然のように蕾の方へと行くのだ。

「心配しているのは、あの子のことだろう? ヌシが死ぬことで、もしも何か影響があるなら、一番は蕾にだろう思ってるんじゃないのか?」
「そ、それは…」

 殆ど無意識に引き留めようとした化野を、ギンコは一瞬振り向き、凪いだ目で化野を見る。

 傍にいる、離れない。

 目でそう言ったギンコのことを、化野は信じたいと思っている。でももしも、ずっと止まっていた彼の時間が動き出したのなら、それはギンコにとっても、先の予測ができないことなのではないのか。同じ室内にいるままのギンコの姿を、化野の目が追っていた。

 蕾の体に何か異変が無いか、蟲の気配を感じ取り、体調などを聞いて、まだ彼女とヌシは繋がっているけれど、何も心配がないことを、家族や白也に話すギンコ。戻ってきた彼は、青ざめた顔でいる化野を見て、困ったように笑った。

「そんな顔するな。お前の不安がみんなにも移っちまう」
「……ギンコはどうして、そんなに落ち着いていられるんだ…?」
「動揺してたら、ぐらぐらしてるお前を支えられないからだ」

 ギンコのゆるぎない眼差しを見て、化野は無理でもでも落ち着こうと思った。抱き寄せて彼の胸に額を付け、すまない、と短く呟く。気付けばその場にいるみんなの視線が、二人へと向いている。

「…あ…っ。ええと…っ」
「昔から心配性だよな、俺の伴侶は」

 たった一言の、簡潔な説明。周囲の皆も、それを当然のように聞いて。

「ギンコ」
「間違ってないだろ?」
「うん。そうだ、恋人で、伴侶で、運命の繋いだ相手だ」
 
 もしも万が一、ギンコの命の火が消えるのなら、それを追い掛けて、今度は黄泉を共に歩けばいい。一人残されるのと比べたら、死を選ぶのなどあまりに容易い。

 その時、時間の流れがいつもと少し変わった気がしたのだ。不思議な感覚だった。





 夕方、イサがリョクヤとその家族を連れに来た。彼の妻と、まだ小さな息子と、三人でこれから暮らす場所へと行くのだ。リョクヤがハツエの前に行って、彼女の皴深い手を取り、最後の別れを告げる。

「ばあ様、俺は此処を離れてもずっと、ばあ様のこと…」 

 そう 、言い掛けた時だった。其処に居るみんなの見ている前で、彼女の姿がすうっと、薄れて、笑んだ顔のまま消えたのだ。ほんの一瞬のことだった。触れた筈の感触も、何もかも。

「ば…ばあ、さま…? ど、どこに…?」

 みんな、芯から驚いて、でも、殊更に騒ぐものは誰も居なかった。リョクヤでさえが一言そう言ったきり、項垂れてハツエの座っていた椅子に手を置いて、呆然としながらも、其処を大切そうに撫でていた。

 ハツエはきっと、待っていたのだ。自分を大事に思ってくれるリョクヤが、此処を離れる時までは、せめて『人』でいようとしていたのだろう。今やっと彼女は、先に逝った夫のところへ行った。夫との思い出の中、ハツエは今までとは異なるものとして、存在し続けるのだろう。

 がっくりと肩を落として、でもすぐに顔を上げ、彼は妻と子の傍に戻る。そして二人を促し、其処に居る仲間へと、淋し気に笑いかけた。

「じゃあ、皆、またな…っ」
「えぇ、会いましょうね、必ず」
「それまで元気でっ!」

 三人とイサの姿が黒い門の方へ行くのを、ギンコと化野は見ていた。その姿が見えなくなった後、化野はギンコに、こう問いかける。

「ハツエさんは、蟲の側に行ったんだろう? 蟲の見えるお前には、まだ彼女の姿が見えるのかい?」
「いいや。でも、まだかすかに気配は感じるよ。今だけだろうけどな。今に俺にも、何も感じ取れなくなる」

 化野の眼差しが、またギンコを見る。頭から足先まで、本当に其処にいることを確かめるように、消えないのだと信じるために。ギンコは化野の体に手を近付けるだけで、触れずにぽつぽつと話す。

「その存在を感じることが出来ず、姿を見ることも声を聞くことも出来ない相手は、この世に居ないのと同じようなものだ」
「…なんで、今、そんな」
「だってそれは、離れた場所に居て、またいつか会えるのとまったく違うことだろう? いつまで待っていても、声も姿も気配もない。そして分からないだけで存在はしている誰かは、やがて、誰にとっても無となったその事実に、本当に存在を消されていく…んだろうと、俺は思うよ」

 化野の目が、ゆっくりと見開かれる。彼はギンコの肩を掴んで、震える声で聞いたのだ。

「…なんで、笑ってるんだ…? ギンコ…」
「俺は笑っているかい?」
「……いや。…いや、違う。笑うわけがない、笑う、わけが」

 否定しようとして、だけれど己の目に映るギンコは笑っているのだ、今彼が言ったことを、化野は理解したくなかった。分らないでいたかった。

「お前は俺の傍にいるんだろ?」
「居るさ」
「嘘じゃないな?」
「俺は、何処にも行きようがないんだよ」


 夜、草が風で鳴る音を聞きながら、ソファで二人身を寄せている。そんな彼らの元へ、蕾が来て言った。

「ギンコさん、教えて欲しいの。まだ、此処にヌシ様はいるんでしょ…?」

 蕾は自分の胸に触れて言ったのだ。それは、この里に、という問いではないのだと分かる。ギンコは彼女の顔を真っ直ぐに見て、まだ幼いその子の言うことを、深く考えた。

 神官。
 
 ヌシに最も近い里人。
 仮に無意識でも、その息吹を常に感じ、
 誰よりも、共にあっただろう存在。

「そうだな、まだ、蕾の中に、蝶は居るよ。でもヌシとの繋がりのその蝶は、もう少ししたら消えるとさっき」
「違うの、私、連れて…行きたいの」

 すぐ傍にいる化野が、その一瞬、不可解そうに眉を顰めた。その表情はすぐに消されたが、そのあとギンコが言った言葉を聞いて、消した筈の嫌悪感を隠し切ることが出来なくなった。そんな化野の表情を自分の体で隠して、ギンコは蕾と向き合った。

「…ヌシが本当に死ぬまで、お前が『タツミの里』になる、と?」

 蕾は深く頷くのだ。せめて本当に居なくなるまで、ヌシ様の傍に居たい。でもこの里に居るままでは、きっとハツエと同じように、彼女の方がヌシの中に消えることになる。出来ることなら、ハツエと、先に死んだハツエの夫と、里に残るすべての記憶もすべて、自分の中に…。

 でも、ギンコは首を横に振るのだ。駄目だ、と目で語り掛けた。そして蕾が悲し気に瞼を伏せるのを見て、静かに話す。

「ヌシの。里ひとつを包んでいたヌシの力は、ずっと弱くなった今も、死に行くだけの存在になった今も、強いものだ。神官だったお前にもしもそれが出来ても、お前の傍にいる家族に悪い影響があるかもしれない。血が繋がっているから余計にな。…その気持ちだけで、ヌシは嬉しいさ」

 蕾は、心配してずっと自分を見ている家族の元へと、ゆっくりと、真っ直ぐに戻っていった。

「優しくて強い子だ」

 ギンコは言うが、それを聞いた化野は、無理に彼の体を引き寄せて抱いた。痛みを感じるほどの力だった。

「…俺は、怖いよ」
「怖い?」
「蟲と共にあろうとする思考が怖い。幽霊、みたいに、蟲はそういう想いに引き寄せられるんじゃないのか…?」

 何も言わず、ギンコは黙っていた。そんな彼の体を今一度強く抱いてから、化野はギンコを離す。

「悪い。聞かなかったことにしてくれ。ちょっと頭冷やしてくる」

 深夜だというのに、化野は外へと出て行った。開けた扉から、外の風の音や草の音が飛び込んできて、出ていく化野の体と入れ違う。誰からも見えない彼の顔は、何かを思いつめたように暗く翳っていた。











 なんかちょっと終わり方が上手くいかなかったですがっ。そして終わり方が上手くいかないと次回に響くのですがっ、でも精一杯だっっっ。次、また頑張りますっ。



2023.08.13