記 憶 27
化野が行きたいと言ったのは、じい様のところだった。ギンコも礼を言いたいと思っていたので、すぐに二人で向かうことにした、けれど、じい様の部屋に一歩足を踏み入れた時、ギンコは不自然に足を止めたのだ。部屋どころか家の中に誰も居ないのは空気で察していたが、それだけではないと彼には分った。
「留守かぁ。タツミの里のことで、みんな出払ってるんだろうか」
そんな化野の言葉を聞きながら、じい様がいつも座っていた場所を、ギンコはじっと見ている。鉢植えに植えられた草花が、萎れたままになっていて、そこに視線が吸い寄せられた。触れると、数枚の花弁がはらはらと落ちる。
「ギンコ?」
「何でもない、出ようか」
「あぁ。じい様には会いたかったが、今日は仕方ないか。じゃあ里へ行こう。みんなのことも気になる」
里に一度戻りたいと言ったのも化野だった。ついさっき出てきたばかりの駅へと戻って、来合わせた電車に二人で乗る。昼間だというのに、車内は混んでいて座るところが無く、ドアの近くに立った二人の視界を、風景がどんどん流れていく。
「お前が行きたいところって、遠いのか?」
「…どうして?」
「いや、後回しでいいって言うからさ」
「そうだな、そこそこ遠い。そこで少しゆっくりしたいから、後がいい」
ギンコはどこか上の空だ。具合が悪いんじゃないかと、何度も声をかけたが、三度に一度は返事が返らない。電車がトンネルの中に入った時、車内が一瞬で真っ暗になって、窓にギンコの横顔が映った。そしてその隣に化野の顔も。若い顔だ、と化野はギンコの顔を見て思う。隣に映っている自分の顔は、随分老いているように見える。
「何をそんなに見てるんだ?」
ギンコが言うので、化野は彼の耳元に少し口を寄せ、思っていることを素直に言葉にした。
「俺の恋人は、いつまでもきれいだなぁ、と思ってな」
「……何言ってんだよ」
言いながら、ギンコは化野へと顔を向け、彼の唇の端に軽く触れた。
「うお!」
「おい、大声出すなって」
「や、その…う、嬉しくてな。こんな中年相手にさ」
「…それ以上言うと怒るからな」
ぷい、とまた横を向いたギンコの顔が、硝子に写って少し照れて見える。まじまじと見ようとした時、電車はトンネルから抜けてしまった。
乗換駅で降りて時刻表を見ると、少し時間がある。売店でおにぎりを四つ買ってきて、二つずつで早めの昼食を取った。自販機で買った紙コップのコーヒーも美味しい。飲み終えた空の紙コップを受け取ろうとして、化野はふと気付いたのだ。
「…なんか、ギンコ」
「ん?」
「髪が伸びてないか?」
俯きがちの彼の前髪が、鼻の先あたりまでを隠しているのを見て、化野はそう言った。ギンコは顔も上げずに淡々と、そうかい、と返事をした。
「そう見えるんなら、そうなのかもな」
前にギンコが言っていたのを、化野は思い出していた。切れば伸びる。だけれどある一定まで伸びたら伸びなくなる、と言っていたんじゃなかったろうか。その、ある一定は多分、今の髪の長さよりも短い筈で。
化野は今度はギンコの手を見ようとした。彼の爪を見ようとしたのだ。けれどギンコは化野に背を向けるようにベンチに座っていて、手は見えない。胸が良くない意味で高まって、化野はそれ以上、何も言えなかった。まさかな、と思う。そうして考えないようにした。
電車はどんどん進んでいく。昨日、あんなにも苦しい思いをしていた無人駅で降りて、背の高い草の迷路を彼らは歩いた。永遠に歩かねばならないのかと思ったあの時間を思うと、化野の胸はまた軋むけれど、今は光を浴びて揺れる草が美しいと思う。もう昼を随分過ぎて日は傾いていて、草の中を通り過ぎた風が、肌に冷たかった。
開きっぱなしの黒い門に近付くと、丁度その内側からイサが出てきた。二人の姿に気付いて足を止め、近付いてくるのを待ち構える態になる。
「なんだよ、ギンコ。行きたいところへはもう行ってきたのか?」
「いや、まだだけどな。後にしたんだ、そんなに急ぐこともないと思ってな」
「…ふぅん」
化野が、何気なくイサに問いかけた。
「イサ、じい様は? 実は家に行ったんだが、誰も居なくて」
「…じい様は、居ないよ」
ふと視線を下げる姿を、ギンコが何も言わずに見ている。
「何処に、居るんだ…?」
また化野が聞いて、イサはからりと笑って見せた。
「…そうだなぁ、きっといつか俺らにまた会えるのを、向こうで楽しみにしてると思うよ。用があるなら、その時に」
それを聞いて、化野はやっとそのことに気付いたが、ギンコは恐らく、問う前から分かっていた。じい様の部屋のあの空虚な感じは、あるじを失った部屋でしかありえなかったからだ。
「えっ、い、いつっ?」
「いつって、少し前だよ。年だったからさ、仕方ないだろ」
「そうか…。それは、その、お悔やみを」
伝えたいと思った感謝が、悲しい形で宙に浮いてゆく。そのことを思って言葉に困り、化野がやっとそんなふうに言うと、イサはさっきよりももっと深く笑った。
「ははっ、いいよ。そういう普通なの、うちらには無縁だからさ。葬式もないし墓も無いんだ。だからさ、なんか思うことあるんだったら、心の中でじい様に言ってやって。きっと届くよ。ギンコ、お前からなら、特にね」
握ったこぶしで、ぐ、とイサはギンコの胸を押す。イサはそれ以上何も言わない。あの時抱いていた気持ちを今更知って欲しいなんて、きっとじい様は思わない。
「あぁ。…いつになるか、分からないけどな」
ギンコはそう言った。今までならきっと、そんなふうには言わなかったろう。向こう、というのは死んだ後の世界のことだ。彼岸の国。生きていている時はけして辿り着くことが無い。イサはそんなふうに言ったギンコのことを、じっと見詰めた。
「改めて思ったんだよな、俺。死なない生き物は居ないんだ。お前にしたって、人の視点で考えるから不死に見えるだけ。いつかは死ぬ」
「………」
それを聞いたギンコは何も言わなかった。ただ静かな目で、視野に広がる草の原を眺めている。風が彼の髪をさらさらと揺らしていた。少し伸びた白い髪を。そんな彼を見ている化野が、酷く物言いたげだった。
「そういや、ケータイ、どうした? まさか駅に置いて来てないよな?」
イサがそう聞いた。化野はポケットから取り出したそれをイサに見せる。
「持ってるさ。ギンコの体のことを思うと、手許から離したくはないが、このまま里に持って入っていいのか、聞きたかったんだ」
「そうだなぁ、ヌシの気配はまだ感じるし、一応、門の外に置いとくべきなのかなと思う。気持ち的にも、そうだろ? もう出て行くとは言え、何ていうのかな、敬意…みたいなさ」
少し思案したあと、イサはすぐ傍の温室にちょっと入って行き、すぐに戻ってきた。落とさないよう両手で持っているのは、小振りの四角いガラスケース。小さめの観葉植物の鉢を収める、透明な箱である。吊り下げる鎖なんかもついていて、それをイサは門柱にうまく固定した。
「電話ボックス、ってわけじゃないけどさ。全員が此処から出て行くまで、どうしたって何日かはかかる。お前らに限らず、俺になんか用があったら里の誰でも使えばいい。ってことでどうだ? 里は静かだから、着信音も案外、館まで聞こえるかも」
「苦労かけるな、イサ」
「今更。俺らは元々、そういう役割だよ」
充電については、化野かギンコが気にかけておくこととする。そこまでを決めて、イサは彼らに背を向けた。そうしてすぐに、背の高い草の迷路の中に入って、見えなくなった。
「先生っ、ギ、ギンコさんもっ!」
「無事だったんだね、よかったっ」
「足はあるねっ、大丈夫なんだねっ?」
二人が里に入っていくと、その姿を見つけた里人が、みんなして二人を取り囲んだ。ギンコなどは酷く心配されていて、左右からいろいろと言われ、取り縋ってくるものまでいる。
「あたしゃもう、あんたが死んじまったかとっ」
「う、うぉぉぉぉっ」
「ちょ、おいっ。大丈夫だって、うわ…ッ」
終いには尻もちをついてしまったギンコに、化野は笑いながら手を差し伸べる。
「ほら、お前があんまり心配掛けるからだぞ、ギンコ」
「ひとごとのように言ってんじゃないよ先生っ、先生のことだってみんな心配してたんだからね!」
「そ、そうか、すまんな」
戻ってきてよかったと、化野は心底思う。みんなを安心させることが出来たし、こんなに大事に思われているギンコを見れたのも嬉しい。
「でも丁度いいとこに戻ってきたよ、今夜からずっと宴なんだ。みんなそれぞれ持ってるものを持ち寄って集まるんだよ」
数日もしたらみんな里から出て行って、此処には誰も残らない。だからこそ里で得た恵みを余すことなく食べて、楽しく過ごすことに決めたのだという。里で採れた米や野菜や山菜、干した魚や、燻製肉、酒やお茶に至るまで、全部をみんなで味わうのである。
宴の最中、誰もがいろんな懐かしい話をした。里ではすべてのことを、みんなで力を合わせてやってきたのだ。石畳の石ひとつ、畑の畝ひとつ、誰ぞの家の扉ひとつにしたって、思い出がある。けれど、話がこの里にきた時のことになると、少し曇った顔になった。
「ナキ、島…だっけ」
「あぁ…」
「どんなところだったっけなぁ、島なんだから海に囲まれてて」
「そうそう、いいとこだった、よな?」
懐かしもうとして、だけれど誰の頭の中にも、ナキ島のことが鮮明には浮かばない。靄の中、霧の向こうみたいに、いくら目を凝らしたって、おぼろにしか見えない、故郷。
「なんでこんなに覚えてないのかなぁ」
「それはよ、ほら、前のヌシがもう居ないから」
少なくとも、人と接点のある場所にはもう居ない、ナキ島のヌシ。ヌシと共にあちらへ行ってしまった島。島に残った、かつての仲間達も諸共に。
「あの、さぁ。そしたら俺ら、此処のことも忘れるんだろうか。こうして今集まっている、みんなのことも…?」
誰かが言って、宴の席はしんと静まり返った。
「それは無いんじゃないっ。だって、イサは会えって言ったよ」
「そうだ! そうだよ、大丈夫っ。前の時とは違うって」
「だよなぁ」
そんな時、輪の中から誰かがすっ、と立ち上がった。タツミの里で一番の年かさ、ハツエであった。
「おばあちゃん、どうしたの? お手洗い?」
近くにいたセキが声をかける。
「ううん、お腹いっぱい食べ過ぎて、ちょっと苦しくなっちゃってね、向こうで休むよ」
「そっか、じゃあ布団敷いてあげよか?」
「大丈夫、寝たくなったら自分でするさあ」
寒くないように肩掛けを羽織ると、老女はみんなから少し離れ、縁側に出て腰を下ろす。ぽつんと座った背中が、小さく淋しそうに見えた。
続
やっと続きが書けましたっ。凄く悩んだわりに、けっこう当初の予定通りになったっていうのが、良かったのか、それともどうなのか…。ちょっと心配ですけどもっ。あと、おばあちゃん、のことは結構、迷いまくりました。決めてもまた迷ってしまって、っていう…。人間、何が幸せかって、その本人にしか決められないよなぁ…と思いました。
それではまた次回ーっ。
2023.06.10
