記  憶    26
 





「ハタリ、って、イサと一緒に住んでたじい様のことじゃないのか? 前にそう呼ばれているのを、聞いたような気がする。あれは…島を出る時のことだったか」

 化野がそう言って、それを聞いたギンコは、驚いたように目を見開く。うっすら思い出した子供の顔と、じい様の顔とがゆっくりと脳裏で重なっていくのだ。本当にそうなのだと、確信できた。

 あの時の子供が、じい様。 
 何度も会ったし世話になったのに、
 気付かなかった…。
 
 本当に俺は、化野のことばかりだ。

「よくそんなことを覚えてたな。みんなもう、島のことは忘れてしまっただろうに」
「覚えてたというより、今、ふっと思い出したんだよ。じゃあギンコはあのじい様が子供の頃にも、世話になっていたってことか。凄いな」
「…そうらしい」

 次に会ったら遠いかつての礼を言おうと、ギンコは思う。皴深い顔で笑んで、ただ首を横に振るじい様の姿が、目の前に見えてくるようだ。

「凄いな」

 どうしてか、化野はもう一度そう言った。イサの存在を知った時、盛大に反発し、苛立った自分を彼は思い出していたのだ。自分がギンコと会う前から、イサもじい様もずっと彼に協力して、それは彼らの生業だからかもしれないけれど、きっとそれだけではない。

「みんな凄い。じい様もイサも、お前も。俺は感謝が足りていなかったなあ。お前といる幸せをくれたすべてに、今からでも感謝しないと」

 ギンコはちらと彼を見やると、静かに笑んでこう呟く。

「俺もだ。じい様にちゃんと、礼を言わないとな」

 ホテルのインフォメーションブックを開いて、簡単なルームサービスを頼んだ。二人でベッドに腰を下ろしそこへ夕食のトレイも置いて、本当に久々に、知らない他人が作った食事をとった。

「美味い」

 と、化野が言う。

「そうだな」

 と、ギンコが返す。それを聞いた化野が、心底ほっとした顔になる。

「食事っていうのはいいものだな。食べられることにほっとする。お前がそうやって、食べている姿にも。一時はどうなるかと思ったんだぞ、ギンコ。お前がもう、死んだかと思った」
「心配、かけた…」
「……あぁ…! 本当にだぞ」

 翌朝早く、二人はホテルを出る。フロントの前を通るとき、化野はホテルマンに軽く会釈をしたが、相手はちら、と目を上げただけで何も言わずに二人を見送った。

「何処へ行くんだ? ギンコ」
「そうだなぁ。お前は今行きたいところがあるか? こちらの世界は久しぶりだろう? あるならそっちを優先するさ。俺のは、あとがいい」




 ギンコと化野が電車に乗った頃、イサもタツミの里へと向かう電車に乗っていた。タツミの里がもう終わることを仲間たちに知らせ、急ぎ最後の準備を進めて貰っている。そして彼はガラガラに空いた電車の、誰も居ない車両の座席に一人で座り窓に肘をついて、流れる風景を見ている。 
 じい様

 と、イサは心の中で呼び掛けた。ギンコはきっと気付いたよ。あいつはじい様のこと、覚えてたんだ。よかったなぁ、じい様。だけど俺はギンコに、もう少し早く気付いてほしかった。やっぱりあいつに伝えりゃよかったよ。じい様が、生きているうちに。

 車窓の風景はまるで、飛ぶように過ぎ去っていく。ギンコは確かに化野のことばかりしか考えていないけれど、自分を好いて、支えたいと思って、心から手を貸した相手の存在は、彼の中で「無」ではない筈だ。イサはそう思っている。

 凄まじい重荷を抱えて、何百年も生きてきたギンコの、その荷物に手を添えて、ほんの少しでも楽にしてやれたのなら、好きになった甲斐もある。出会って、好きになってよかったのだ、と。

 イサはいつもの無人駅で降りて、人の姿の無い道を行き、さらに草の迷路を歩いていく。いつか必死になって覚えたこの道だけれど、きっともうあと何回かしか歩くことは無いのだ。そう思うと少し淋しかった。

 タツミの里の黒い門は、すこし隙間が空いていて、観音開きのそれの左右を、軽く手で押し大きく開く。そのままにして里に入っていくと、里人たちはみんないつも通りに過ごしていた。朝から畑の世話をしているもの、洗濯ものを干しているもの。家の中で朝餉の準備をしているもの。

 もうこの里は終わりだというのに、彼らだってそのことに気付いているのだろうに、なんて穏やかなのだろう。イサは一軒一軒の家を丁寧に訪ねて、温室に集まるように告げて行った。

「朝ごはんが済んでからでいい。そんなに急がないから。あぁ、俺にも喰って行けって? はは。嬉しいね。実は夕べから食べてないんだ。いろいろ忙しくてね。…あんたら、ほんっとあったかいな。俺、好きだよ」

 外の世界であぶれたものもいる。みんな、今の常識なんかも全然知らなくて。だけれどそれだからこそ、こんなに暖かいのかもしれない。

 この里で、手を掛けて育てたもの、里を流れる川や、近くの山の中で穫ったもの。魚や山菜や畑のもの。大事に大事に使っている食器に盛られて、塗りの禿げた箸を添えられて、欠けた湯飲み茶わんには熱いお茶。

 今更どうしようもないけれど、これがもう全部終わりで、みんなバラバラになることが、イサも嫌だった。伝えることだって悲しい。けれども彼は言うのだ。これまで無いぐらい、弱弱しく蝶たちの飛ぶ温室で、皆を前にして、言うしかないのだ。

「此処へきて七年、だっけね。今、八年目か。タツミの里は、もう、閉じるよ。そうするしかないんだ。ヌシ様は、この里を維持していくことが出来なくなった。ナキ島からここへ来た時とは違って、引き継ぐ新しいヌシも居ない。少し前から分かっていたから、里のみんなの居場所は、それぞれ用意してあるよ。だから、行き場所については案じなくていい」

 みんな、身を寄せ合うようにして、イサの話に耳を傾けた。誰も騒ぐものはいなかった。ただ、何人かの零した、深いため息が聞こえた。

「今の言い方で察したかもしれないけどさ、それぞれ、って言うのは、全員一緒じゃないってことでね。淋しいだろうし、嫌かもしれない。でもそれしかないから、申し訳ないけど、勘弁してほしいんだ」

 イサが一旦口を閉じると、里人の中の誰かが言った。

「俺らが居ていい場所、用意してくれたったことだろ。感謝するよ、イサ。里のみんなは、もともと『戸籍』が無かったり、あってもその『戸籍』の人間として生きられなくて此処に居たんだもんな」

 じゃあ最初から、ナキ島やこの里に逃げ込む必要はなかったんじゃないか、なんて言うものは、誰一人としていなかった。問われなかったからイサもあえて説明はしない。数十年、或いは数年、短くとも数か月の間、根回しする期間があったからこそだ、なんてそんな話は。

 イサは何枚かの紙を懐から取り出して、がさがさと開く。前置きなく淡々と読み上げるのは、各人がこれから生きていく場所の詳細と、そこに行くものの名前だ。小さな島。陸の孤島。その土地の名前、そこにある施設。学校など。本当にバラバラだ。

 伝え終えて、紙を畳んでしまい、イサは最後にこう言った。

「散り散りになる。でも、二度と会うなとは言わない。年に一回、二回とかになってしまうだろうけどさ。仕事とかの休みを合わせて、会いなよ。あんたらさ。リスクはあるさ、でも声掛けてくれたら、ちゃんと俺が手伝うよ。勿論、此処の話は外の人間に絶対知られない事。出来るだろ。お互いが凄く大事なら、出来るよな。だって、家族だもんなあ、みんなさ」

 言い終えた頃、その場にいる全員が泣いていた。イサも、一度きり鼻を啜った。温室の天井を見上げると、硝子越しに青い空が見えた。晴れていることに今更気付いて、イサは片手で目元を覆う。

「こういうの、焼がまわったっていうのかなあ」

 


 まだ、住んでほんの数か月の家の縁側に、ミイとミサキは座っていた。もうすぐ此処を離れなければならない。でも二人は満足そうだった。

「行き先、一緒で良かったよね」
「別々だったら、抗議するわよ、絶対」
「だよねぇ」

 そう言って、楽し気に含み笑う。念願の二人暮らしも、出来たと言えば出来た。生まれてから一番幸せな時期だったと、自信を持って言える。目と目を見交わす二人の、本当の気持ちだ。そんな彼女たちの前を、リョクヤに負ぶわれた老女が通る。

「しっかり掴まってろよ、ばあ様。隅々まで歩いてやっから」
「重いだろうに、ありがとうねぇ、ありがとう」
「重かねぇよっ」

 その道の脇に除けて、その二人が通るのを見送ってから、もう一度並んで歩き出すのは、白也と蕾。蕾の家の前には、彼女の家族がみんな出て、そこから見える風景を眺めていた。

「何か、変わったかい、蕾」
「……なんだか体が、軽くなった気がする」
「そうか」
「でも私、それが少し、さびしいよ」

 蕾は白也と連れだって「ヌシ様の居場所」を、最後に見てくるつもりだ。お別れを言う。そしてお礼も。里人皆の分を心を込めて。

 離れたくないな。
 離れたくねぇのにな。
 離れるのは嫌だねぇ。
 離れたくなんか、ないよぉ。
 
 でも、離れて行くんだ、此処を。
 それしかないから。

 みんなそんな気持ちだよ。
 そんな気持ちにならせてくれて、
 ありがとう、ヌシ様。

 今朝、咲きそうだった花が咲かなかった。川の流れが細くなり、今にも枯れそうだ。日差しがあるのに、寒い気がする。里の中を、ゆっくり巡っていた心地よい風は、どこかへ抜けていく。通り抜けていく。広い外の世界へと。

 イサはそれを体で感じながら、自分も本当に、この里の一人だったのかもしれないと、願望のように思う。そう思いながらも、開いたままの門の外に、彼は出ていくのだった。

 
 









 また少し間が開いてしまったぞ。記念日とかあるので仕方ない、とか言い訳しながらも、間が開いて苦労するのは自分なんだなぁ。って身に沁みるのでした。書く前に、こう書こうって言うのを決めて書き始めても、ものの見事に其処を通らなくて笑う。それもまた楽し。

 なんとか次は4月中に書きたいと思っていますっっっっ。



2023.03.12