鼓 動 24
雨はいつしか、小降りになっていた。空も所々がうっすらと明るくて、化野は両脚に力を籠める。もうすぐ駅だ。でもさっき電車の音がしたから、次に来るのはしばらく後だろう。
彼の背中でぐったりと、力を失っているギンコの身が心配でたまらない。死なないし、怪我だってすぐに治る体なのだと分かってはいるけれど、それでも案じて、頭がどうかなりそうだった。
「ギンコ、ほら、駅舎が見えてきたよ。あの中に入れば雨も風も無いし、少しは安心だよな」
ギンコに話しかけながら、彼は自分のことを励ましている。あそこは無人駅だったから、温まれるものなど何もないだろうか、体を拭く布一枚だけでもいい。何か、あったら。
駅舎に入る低い階段、たったの二段だけのそれがきつい。ここまでこれたのが奇跡のような気がしてきた。よろけて、でもギンコを背負う腕に力を入れて、化野はようやっとの思いで中に入っていく。扉を肩で押して入ると、いきなり声をかけられた。
「どっ、どうしたんだ、あんた! 怪我人か…っ」
驚いて、その拍子に少し力が抜けるが、二人の駅員が彼とギンコの体を支えてくれた。
「…なんで。さっき電車の音がしたから、てっきり…もう…」
「あぁ、今は時間合わせの停車で休んでたんです」
「ここは大抵、誰もいないから、俺らも気兼ねせずゆっくりできて。そんなことよりあんた一体っ」
なんて運がいいのだろう、化野はそう思った。実はと言って話をして、すぐに救急車を呼んで貰おうと思ったけれど、その言葉が出る前に、背中でギンコが微かに身じろぐ。
「……あ…、何か、体を拭くものとかあったら」
「あるともさ、待っていなよ」
「あと、もう電車に乗っても…?」
「いいよ、切符は…いや、いいか、それどころじゃないよな」
支えて貰いながら電車に乗ると、シートにもタオルを敷いてくれていた。さらに私物であるらしい手拭いを手渡して貰い、化野は座席に座らせたギンコの顔や髪を、そろりと拭う。
「実は俺は医者なんです。その、こいつの主治医で。だから大丈夫ですから。時間が来たら普通に運行してください。本当に、助かりました。ありがとうございます」
彼がそう言うと、二人の駅員は心配そうにしながらそばを離れていく。水筒をひとつ、よかったら、と言って置いて行ってくれた。あたたかいお茶が入っているからと。当然のように、他には客はいない。
「ギンコ」
化野は返事のあるのを分かっていて、ギンコの名を呼んだ。
「……ん…。あだし、の。…出ちまった、んだな…」
ギンコの意識は戻っていたのだ。さっき耳元でひとこと「やめろ」と言われた。救急車を呼んで貰おうとしていた時だ。
化野は心底ほっとして、座り込んでしまいたい程にほっとして、でも安心しきっていい筈はなく。ギンコの顔はまだ真っ青だ。それに今にも、里に戻れと言われる気がして、化野は無意識に怖い顔をしている。そんなことを今言われたら、怒鳴りつけてしまうかもしれなかった。
「お前が…、お前が門の外に倒れてて、それで……」
「…は、はは…」
「ギンコ…?」
か細く笑う声を、化野はいぶかしんだが、ギンコの中ではたった今、ひとつの答えが出たところだったのだ。
そうか、それでか。
だから俺はあの時、
里の中ではなく外へ出て、
そこで倒れた。
そうしたら、
それを見た化野が自分の意思で、
里を捨てると分かっていた。
遠い遠い昔のことを、ギンコは思い出している。そんなことたった一度も思ったことは無い筈だったのに、それはあの頃もきっと思っていたことなのだろう。里を捨てて俺と共に、と、言いたくて言いたくて、けして言わない、その願い。
「…なんか体に異変は無かったのか? お前、皆には黙って出てきたんだろう? 今頃心配して」
化野はギンコの顔をじっと見て、首を数回横に振る。
「いや、みんな知ってる。殆ど全員門から出て、お前を助けようと手を貸してくれたんだよ」
「…ヌシ、は……?」
「さぁ…。分らない。蕾は『許してくれた』と言ってたようだったが」
「そうか」
短く、それだけを言って、その代わりにギンコは長いため息をついた。あんなにも多くの人々の人生が、自分と化野のせいで動いてしまったのかもしれない。否、化野のせいではなくて、これは自分だけのせいだ。何もかも。
化野が、掴みかかるような勢いで聞いてくる。
「そんなことより! お前なんでっ。体は大丈夫なのか? 本当にさっきは死んでいるのかと思ったんだぞっ、いったい何がっ?」
「…そんなことより、ね」
化野に強く寄りかかっていたギンコが、なんとか自力で体を起こし、上着のポケットを探る、小さな財布を取り出して、彼はそれを化野に押し付けた。
「いくらかは入ってる。乗車賃ぐらい出るだろ。あと、ロッカーの、鍵」
「それなら俺が持ってるよ」
「あぁ、よかった。落としたかと。終点手前の駅の東口のロッカーだ。…今のところ平気だが、もしかするとだが、また…………」
「…また、なんだ?」
言葉が途切れて、化野が問い掛けた時には、ギンコはまた意識を失っていた。取り乱さないように自分を律し、化野は彼の呼吸を見、脈を計ってから、違和感のない程度に真っ直ぐ座らせた。
どくん、どくんと心臓が鳴っている。ギンコのそれは弱弱しいが、化野自身のそれはうるさい程だ。こんなに今強く打ち鳴らす必要なんかない、出来るのならこの強い脈動も、体温も、ギンコと二人で分け合っていたい。そう思う。
駅をひとつ過ぎるたび、ガラガラだった車内に人が増えていく。見られることなんか微塵も気にせず、化野は片手の指を、ギンコのそれとそっと絡めた。
ぱささささ …
何か音がしていた。それは蝶の翅の音だったが、化野の耳にまでそれは届いていなかった。意識の無いギンコだけは、深く眠る暗がりでそれを聞いて、夢の中で、何かを探していた。
あの日。
喉を通った白い蝶は、
どうなったんだろう。
今、どうしているんだろうか…。
里の中に戻れるとは、思わなかった。そんなふうに思っていたのは白也だった。彼はあの時、実は一度も門の外には出なかったのだ。正確には門の外と内の間に立って、何かが体の奥で騒ぐのをじっと耐えていた。
そして今、白也は考えている。
もしもナキ島のヌシ様ならば、あんなことはけしてお許しにはならなかっただろう。そもそも人々は、門から一歩も出られなかっただろうし、それより前に、あんな嵐や雷が里を襲うなど有り得なかった。
今のヌシ様は、ヌシ、は。前にイサに聞いたように、強くはないのだ。そのことを実はずっと思っていた。かつて、ナキ島とナキ島のヌシ様を、もっとも強く感じて生きてきた白也だったからこそ、その差異を感じずにはいられなかったのだ。
これから、どうなるのか。
そんなことを思いながら、館で里人全員の顔をひっそり見渡して、最後に彼は蕾の顔を見る。彼女は辛そうだった。顔色が悪いのも勿論、それだけではなくて、蕾はひとりで泣いていた。
「蕾」
白也はそっと近付いて、傍らに添っていた彼女の両親や姉妹たちを、所作でもって静かに遠ざける。
「大丈夫かい?」
「……白也。わたしは大丈夫…。でもヌシ様は…」
ほんの数時間前から今までの間で、酷く大人びてしまったように見える。まだ子供の筈の蕾の頭を撫で、白也はゆっくり、彼女に語り掛けた。
「いいかい、蕾のせいじゃないんだよ」
「…じゃあ? 誰のせいなのかな」
問われて白也はぎくりとした。でもきっと、何の他意も持たない素朴な問いなのだろう。
「わたしたち、ヌシ様にずっと守ってもらっていたのに、あんなこと。ヌシ様は『ここから出てはいけない』って、それだけしかわたしたちには求めなかったのに、わたし。わたしたちは…」
「蕾、ヌシ様には言葉が無いから、本当のことは分らないけど、ここにみんながいることで、ヌシ様は支えられていたように、俺は思うんだよ。だからヌシ様と、俺たち里人たちは、本当に対等だったんじゃないだろうか」
「…たい、とう…?」
「そう。一方的に守られ、助けられていたわけじゃないってこと。ここにいることで、俺たちはヌシ様を支え、守ってきた」
零れ続けていた彼女の涙が、静かに止まった。
「こうなるしかない時が、きっと来てしまっただけなんだと、俺は思う」
「……じゃあヌシ様は…」
怒ってないのかな?
いなくなってしまうのかな?
もう私たちをここへ、
住まわせてくれないのかな?
どの問い掛けも蕾は言葉にしなかった。白也だってヌシ様のことが分かるわけじゃない。彼は何度も蕾の頭を撫でながら、言葉にはしない心の奥で思っていた。
ヌシ様
もしも贄がいるのなら
それがひとりでいいのなら
蕾ではなく
俺を選んで下さい
他の里人の誰かではなくて俺を
あのひとではなくて
どうか 俺を
いつの間に夕になり、そして夜を越えてしまったのだろう。窓の外がしらじらとした光に満ちている。誰かが、歌を口ずさんでいて、それを皆は静かに聞いていた。
あぁめー に かぁぜー に
つうけーえ てぇもー
おーもーいー いーーずるー
ふー るー さー とー
続
書いてみたら、思っていたより深刻な感じにならず…。あれぇ、って思っている私が居ます。この間までの反動かな? でもタツミの里もこれからどうなるのか、やはり不穏な匂いがしているし、ギンコのこともなんだか…。次回はあまり間を置かず書きたいと思っていますっ。
蕾ちゃんの純粋な涙、白也の思い。そして未だ詳しくは書かれていない里人たちの…。書くの大変そうだ。ちゃんと準備して挑みたいですねっ。
2022.02.06
