鼓  動    23




 …なにか。

 遠くで、音がする。
 きっといくつもの音が、重なった音だ。

 いいや違う。
 これは、声だ。

 誰かが俺の名を、
 何人もの誰かが俺の名を、
 呼んでいる。
 そんな気がするんだ。

 お前、お前なのかい…?




 男たちは雨の降る中、カンテラの灯を守りながら温室へと駆け付けた。でも其処には誰も居ず、ガラスが割れているなどということもなかったのだ。なら化野は、いったい何をしに何処へ、と、ガラス越しの外へ視線を巡らせ、丁度光った稲光に、確かな人の形を認める。
 
「何してるんだ! 先生…っ?」
「蹲ってるぞ、どっか怪我でも?!」
「そりゃ大変だッ」

 口々に案じて温室の外へと出て、皆で駆け寄ろうとし、はっ、と気付く。

 あそこは、門の向こう。
 里の外、じゃないか。
 出てはいけない筈なのに。
 なんで…。

 足を止めた面々は、だけれど気付く。化野は何かを庇い蹲っている。続いている雨の中、彼に守られている「何か」は、ギンコ、だったのだ。

「せ、先生ぇっ」

 人々は走り出し、開け放たれている門の間を通った。その途端、それぞれが身の内で確かに感じた、ぞろりとした感触。今、何かが起こった。と、そう思いながらも男たちは二人を助けようとする。

「どうしたんだ、いったいっ」
「先生ぇ、ずぶ濡れじゃねぇかッ!」
「ギンコさん怪我してんのかい?」

 皆の顔を見る余裕も無く、だけれど感謝して、化野は震える声で言った。

「…意識が無いんだ……。体が、冷たくて…。館に連れて行きたいのに、どうしても…出来ない…」
「出来ないってっ? なんでッ?」
「大丈夫さ、手ぇ貸すよ、おらっ、みんなでさ」

 皆の手がギンコの肩や腕にかかる。でも化野は項垂れて、力なく首を横に振った。

「ちがう…。違う…、恐らく、ヌシが…許さない…」
「え…」
「…なん、だって?」

 ぽつりと零れた『ヌシ』という言葉に、人々は、さっ、と顔を強張らせる。さっき、体の中を通った、ぞろりとした感触を、彼らは思い出している。

「ヌシ様が…?」
「…まさか、そんな」

 また、化野は首を横に振った。

「いいんだ。仕方ない。こいつのことはだから、俺だけで…」
「先生…?」
「…そっ、そんなわけにいくかよ…ッ?!」

 誰かが怒鳴った。そしてその声を立てた誰かは、カンテラを掲げて走り出し、もう一度門をくぐった。今度は何も感じない。多分感じなかった。だからその男は走って、館の見えるところまで戻り、大きく灯りを振った。

 来てくれ。
 大変なんだ。  
 先生が、ギンコさんが。
 俺らの仲間が…!

 願いの籠った光を館から見た人々は、雨の中を迷いなく駆けてきた。女も子供もみんなだ。ミイもミサキも、リョクヤもコンも、セイゴとセキ、その二人の子供も。そしてみんな化野とギンコの為に、門を越えた。

 何かを感じながら、越えたのだ。

 押しても引いても動かせないギンコに、覆い被さって守りながら、化野はすべてのことを、どう思っていいか分からないでいる。だから、ただただ、ギンコ、ギンコ、と、思っていた。

 激しい風雨の音の中から、その時ひとつの声がしたのだ。

 せんせぇ…。

 何にも邪魔されず届いたような、不思議と真っ直ぐな声だった。声は言うのだ、静かに、短く。

「…せんせぇ、化野、先生…。わたし…ね…」

 皆が視線を送る、里のぎりぎり内側。黒い門に細い手を添えて、立っているのは蕾だった。

「蕾」
「……わたしも、先生たちのこと、助けたいよ、だから」

 皆の見守る前で、蕾の体が動こうとする。だけれど彼女は動けない。震えて、前のめりに進もうとして、でも彼女は胸を押さえて顔を歪めるのだ。

「蕾、いいんだ」
「…だめ、よくない。わたし…。きっと、わたしが」

 ここを、越えれば。
 何かが千切れる。
 何かが壊れる。
 それが、わかる。
 そして二人を助けられるのだ。
 そうでなければ、
 もう…。
 もう、二人は。

「ヌシ…様…。お願…」

 蕾の足が、ほんの少し前へと出た。くぅ、と彼女が嗚咽を零す。セキも、セイゴも、蕾の姉たちも、何も言わなかった。黙って蕾を見ていた。眼差しでただ、彼女の決断を見つめ続ける。それしかできずに。
 
 蕾の片手が、泳ぐように宙を掻き、また一歩、足が前へ。彼女のまだ小さな体が、苦しがるように一度仰け反って、今度は前へと少し折れ。そうして、突然、ふつ、とそこに居る化野とギンコ以外の全員の体から、何か細いものが、抜けた、気がした。

 蕾の体は泥の中に倒れ込んでいく。それを駆け寄った彼女の家族が抱き起し、目を閉じた蕾の頬を叩く。

「蕾っ、蕾ちゃんっ、ねぇ…ッ」
「……うん…。おかあさん、大丈夫よ、平気よ。ヌシ様が、許して、くれたんだ…」

 許してくれた。

 諦めて、くれた。

 きっとそうなのだ。
 だってもう。

 もう。

「じゃ、じゃあっ、もうギンコさんを館へっ」

 里人の言葉に、化野はギンコの体を普通に抱きかかえ、ひとつ頷くと、手を借りながらギンコを負ぶった。

 だけれど。

 皆が道を開け、もう一度門の中へ、館の方へと共に行こうとするのへ、化野は強い眼差しで、また首を横に振ったのである。

「もう、俺とギンコは中に戻らない。戻らない方がいいんだ。きっとヌシが、それを許さない。そんなことをしたら他のみんなも、許して貰えなくなるんだよ。例えもう一度、入れたとしても…」
「…じゃっ、じゃあ、どうするんだ…?」
「出て行く。俺とギンコ、ふたり、だけで」

 人々は、迷うようにそれぞれの顔を見た。その中の幾つかの視線が、蕾の顔の上に止まる。それはどうにも困り果てて、答えを欲しがる眼差し。だけれど蕾は涙声で、許しを乞うように言うだけだった。

「ごめん…わかんない。わたし。なんにも、わかんない。ほんとは、最初から、わからないの……」





 濡れた草が足元を覆い、まだ鳴り響く遠い雷鳴が空を渡っている。雨は強くなり、弱くなり、時折は止んだ。

 化野はギンコの体を負ぶったままで歩いている。支えようとついて来てくれるものが居たが、怒鳴りつけ激しく罵り、懇願さえして、彼はその人々を追い払ってしまった。それでよかったのだと思っている。

 俺だけでいい。ギンコの為にならなんだって出来るから。最後には死んでしまうことすらも出来るのだから、出来ないことなど本当に在りはしない。

 正しく進めているかも分からない草の迷路の中、何時間経っただろうか。疲れ果てて、よろめいて、膝をついたその時に、目の前に何かが転げた。たぶん駅の、ロッカーの鍵。そして遠くから確かに聞こえた電車の音。

「おぉ…。ギンコ。なぁ? もうすぐ駅に着けそうだぞ。俺も頼りになるだろう? お前を、ちゃんと、守れるんだ」

 負ぶわれたまま、ぶらりと垂れたギンコの両腕、その右手が、指が、ほんの少し動いた、気がした。泣きたいほどに、化野は嬉しかった。

 











 めちゃくちゃ難しくて重要なところだったし、文字以外のことで期日が迫り、結果こんなに足踏みしてしまいましたが! やっと書けました!

 ギンコ、先生、そんな状態で放置してゴメン! なんとか生きてぇぇぇぇ。大丈夫よね、だって二人とも「普通じゃない」からね。

 などと言いながら、23話のお届けです。「鼓動」の執筆は年内最後かな! ありがとうございました。ここは実は、クライマックス部分の「入口」です。続きも頑張りまーーーーすっ。



2021.12.12