鼓  動    21




「ギンコ…ッ」

 叫んだ途端、何処かで何かが、ぶちぶちと千切れ始めたような気がした。この里と、自分。太く確かに繋がっていたものが本当にあったことを、化野は遠いところで理解した。

 なら。
 これは、危険なことだ。
 良くないことだ。

 そう思うと同時に、
 知ったことか、
 とも思う。

「ギンコ、ギンコ…」

 うわ言のような声。よろよろと、化野は鉄の門へと近付く。だけれど、何故なのだろう。進もうとしている筈なのに、足が動いていない。腕も、動かない。そんな間にも、小さな稲光が何度も。そのたび、そこに倒れ伏すギンコの、ぐっしょりと雨に濡れた体の輪郭が、白く浮き立つ。

 動かない体を無理にでも動かそうと、全身に力を籠める。すると脂汗が滲み出した。割れるような頭痛が、真上から顎へと矢を刺すように、ざく、ざくり、と。

「う、ぁ…」

 吐き気を催す。でも吐しゃ物は喉をせり上がらない。それが中途半端なところで閊えるように、息がつけなくなっていく。

「…邪魔、するな…」

 食い縛った歯の間から、化野は言った。

「ギンコ、ギンコを…。俺には、あいつ、だけだ…」

 だってその為に此処に居る。その為だけに生まれたのだ。ヌシ? 知ったことか。里の仲間? そんなもの。ギンコの傍にいる。その為に生まれた俺が、それを為せないというのなら。あぁ、そうだ、死を選ぶ。そうして次へと、生を渡すのだ。

「邪魔を、し、しているのは、ヌシ、か?」

 憎しみを滴らせるような、その声。まるでそれへの返事のように、胸の奥で、パサパサと軽い音がした。

「なら殺せ…ッ」

 どん、と化野はおのが胸を打つ。握ったこぶしでもう一度強く、どん…ッ、と。やっと体が動いて、同時に酷く苦しい。したことは自傷に近いと分る。また胸の中で、蝶が羽搏いた。

「殺せっ、殺せ…ッ、俺をっ。出来ないのなら、雁字搦めの鎖を外せ、楔を抜けよっ。俺は…ギンコよりヌシを、選んだりしない…ッ」

 何度も、何度も、化野は胸をこぶしで打ち付けた。そうするごとに、ほんの僅かずつ、体が動かせるようになる気がした。実際もう、あと少しで門に手が届く。そうして、本当に門へと手が届いたとき、化野の視野は黒いもので覆われたのだ。

「あ、あ…ッ」

 化野は己の体でもって、黒いものを外側へと開いた。何かがぞろり、と体の中を通った気がして、そのまま倒れ込むと、必死に伸ばした手が、おぼろに見えるギンコの片手に届いた。

 あぁ、やっと、と、喜んだすぐ後ろから、恐怖が化野を飲む。ギンコの手は氷のように冷たくて、固まっていて、まるで死人のようだったのだ。

 死人。

 死。
 
 いいやギンコは、

 死なない筈だ。

 でもこの冷たさは?  

 この固く動かない指は…。

「嘘だ…。嘘だっ、嘘だッ、ギンコ」

 化野の体はちゃんと動いて、彼はギンコを抱き起した。だけれどもギンコの体はまるで、木の棒か大きな板のようで、ちゃんと抱くこともできなかった。


 ぅあ、ぁあ゛ ぁああああ…ぁ…ッ… !


 誰かの叫び声を聞いた気がした。化野の目の前が、一瞬でまた真っ暗になる。その黒い色は塗り潰された色ではなくて、無数の動く形の重なりのようだった。その黒が、じわりと色を抜け落とし、白へ、白へと透けて行く。透けた向こうに、見えたもの。

 化野の脳裏には何かが見え始めていた。それは彼が知らない筈のこと、見た筈のないことだった。


 彼は俺の胸に、耳をつけた。
 唇に、唇をのせた。
 頬、首、胸、腹へと撫でた。

 もう、
 どうしようもないことを、
 最後にもう一度、
 確かめる、ように。


 だから化野もそうした。雨に濡れたギンコの服の上から、胸へ耳をつけた。そして唇に唇をのせた。頬に首に胸に腹に、順に手のひらで撫でた。

 そうしたら、鼓動があった。唇からは息が漏れていた。頬も首も胸も腹もほんの微か、本当に少しだけ暖かかった。

「あぁ、あぁ、ギ…」

 生きている。ちゃんと、生きている。

 だから化野は冷えた彼の体のどこをも、ごしごしと手のひらで擦った。そうやって少しでも温めて、抱いて、また擦って温めて、そうしたら、棒か板のように動かなかったギンコの体は、だんだんと動かせるようになった。

 また、空を雷鳴が裂いた。遠くから雨の降る音が近付いてくる。化野はギンコの体を抱いて、門の中へと引きずり込もうとした。でもそれは出来なかった。動かせないのだ。ほんの僅かも。またヌシが邪魔をしているのだと化野は思った。

「く、そ…。殺すなら俺だけを殺せ…ッ」

 



 ガチャン…っ。

 何か、器の割れる音がした。丁度雷が鳴り終わり、静かになったところだったから、その音にはそこに居る全員がびくりとした。何人もがその音のした方を振り向いて、彼らの視線の先に居るのは蕾だった。

「あ…」
「大丈夫?」

 顔を強張らせて詫びようとした蕾に、そう声をかけたのはミサキだった。すぐに傍に行き、彼女の手を確かめ、怪我はしていないのかと言葉でも尋ねる。

 蕾はただ首を横に振り、声の無い息で「ごめんなさい」と言った。

「いいよいいよ、怪我してないんだったらさ。って言っても、これ化野さんのなんだけどね。怒ったりしないと思うから」

 そう言ったミサキの言葉に、蕾は何か、怖いものを聞いたように後ずさる。ミイもそんな彼女の様子に気付いた。

「…どうしたの? 蕾ちゃん。先生のことがなにか?」
「わか、らない。でも、きっとなにか、おこってる」

 真っ青になり、蕾はそう言った。ヌシが神官の彼女に、何かを伝えてきたのだと皆は思った。

「…それ、ヌシ様が?」

 まさに今、これまでなかった落雷と豪雨、夜と錯覚するほどの異様な暗さ。やっぱり何かが「起こって」いるのか。もしかしたら、まさに今、此処に居ない化野の身にも何か。皆は酷く恐ろしく思ったが、蕾が言うのは本当は、その「起こる」ではなかったのだ。

 おこってる。 
 おこってるよ。
 ヌシ…様…。

 ぽつん、ぽつん、と零れる蕾の言葉。誰もが窓の外を眺め、たった今は雨が降っておらず、風も止んでいるのを見た。そうしてその時、ひとりがこう言った。

「早く先生を、連れてこないと。みんなこうして集まってるのに、先生だけまだ」
「そうよ。温室を見に行ったにしたって、あんまり遅すぎる。ガラスが割れたらしいけど、まさか一人で温室を守ろうとしてるんじゃ?」 

 また、雷が鳴った。山の中の何処かに落ちたのか、大きな音。みんな怯えるだけじゃなく、化野の心配をした。そして、また誰かが言う。

「…迎えに行こうや」
「そうだな、行こう。一緒にいなけりゃ」
「先生に何かあったら、ギンコさんが」
「あぁ、俺らの為に渡守をやってくれてるあの人が」

 口々に言い頷き合い、若い男たち数人が、なるべく丈夫な服を着て、頑丈なカンテラをひとつずつ持って、外へと出た。残ったみんなは窓辺に寄って、全員が全員の無事を祈る。化野のことも、ギンコのことも。

 どうかどうか皆で、
 無事にこの嵐を、
 乗り越えられますように。

 この時、ヌシ様、どうかお守りください、と、思っていたものは、誰ひとりとして居なかった。













  暗いし怖いし、いろいろ大変な21話でした。作中では里人たちが「こんなことは今までなかった」「こんなことはおかしい」と感じていますが、でもこれで普通なんだよね。嵐ぐらい来るものだし、土砂降りだって時には降るだろうし、山の中に雷ぐらい落ちますよ。

 これまでどれだけ平穏だったかってことが分かるなぁ、って書いてて思うのでありました。今皆それどころじゃないけどさ、畑とか田んぼとか、水路とか、えらいことになってるんだろうね。

 崩壊は、再生の始まりだったり、変化のきっかけだったりすると思いませんか? いつかは終わるのです、どんなことも。などと、意味深なことを言ってみたり。

 それにしても、ギンコと化野は大丈夫なのだろうかね。続きも頑張るのですが、何処でこのストーリーを一区切りにしたらいいのか、実は困り果てている惑でした。



2021.09.27