鼓 動 20
二日も続いた雨が、まだ止まずに続く朝だった。なんだか、頭が痛い、と、そう思いながら化野は、傘を差しして訪れる何人かの里人に、薬草を煎じた頭痛薬を処方していた。
早朝にまず白也、次に最年長のおばあさんがふらふらと訪れて、それから他に三人も。薬が足りるだろうかと思っていたら、青い顔をした蕾が母親に連れられてきた。蕾は吐き気までするという。
悪い風邪だろうか、と化野は思う。知らぬ間に流行っていて、それにみんなかかってしまっているのかもしれない。頭痛薬や感冒で効けばいいが。
薬を渡し、一時小雨になった中を蕾とセキとを帰らせて、よろめくように椅子に座った途端、手元を手伝ってくれていたミイが彼を案じた。
「化野『先生』は薬は飲んだの?」
「いや、まだ」
「だと思ったわ」
ミイは化野の手の中に、水と薬を無理にでも押し付ける。その時丁度傍らに来ていたミサキが、不思議そうな顔をして振り向いていた。
「ミイ、今、なんて?」
「なぁにミサキ。化野先生、って言ったのよ?」
「あぁ、だよねえ。雨の音のせいなのか、なんかぜんぜん違う名前に聞こえちゃって」
痛む頭を押さえながら、化野はミサキに視線を向けた。ミサキは何かを思い出そうとするように、視線を横へと泳がせる。
「ハラシノ先生、っていうお医者さんのこと、今急に思い出したの」
「あぁ、ハハ…。初対面の人に名乗った時、そう聞き間違えられたことが何度かあるなぁ」
ソファに身を沈ませながら、化野はくすりと笑う。
「変わった名前の持ち主あるある、ってやつなんだよ。聞いた人が脳内で、自分の分かりやすい名前に置き換えて聞いて、そのまま覚えてしまったりね」
「分かるわ、それ。ミイって少し珍しいから、ミキちゃん?とか言われたことある。化野さんの名前ほど珍しくないのにね」
何気なくそう言ってから、ミイは今度はミサキに言った。
「ミサキの記憶の中のその人も、もしかして化野さんっていう名前だったり? それはないかしらね」
ほんの冗談のつもりでミイは言ったのだろう、頭痛で辛そうな化野の気持ちを、少しでも紛らわせようとしたのかもしれなかった。でもミサキは、その話題を流せなかった。また雨が強くなり始めていた。
「あの、先生…っ」
ハラシノと言う名前の医者が、彼女の曾祖母を看取ったのだ。一軒家で一人で暮らしていたひいおばあちゃん。ミサキも、ミサキの家族みんなも、彼女を看取ってくれ、すぐに病院や自分たちに連絡してくれたその医者に感謝していた。
身内の看取りではなくとも、孤独死ではなかったこと。時々ニュースで聞くように、死後何日も何週間もたってから知るなどということにならなくて、本当によかったと思っていた。ひとりで居るのが彼女自身の意思だとしても、誰も同居していなかったことへの、罪悪感もあったかもしれない。
「先生、そういうこと、無かった? 倒れたおばあちゃんを、ゆきずりに看取ってくれたことなんて。すぐに近所の人を呼んで、おばあちゃんのかかりつけの病院や、家族にも、すぐに連絡してくれたり」
「……いや…俺は実は22、3から前の記憶が」
ずきり、とまた頭が痛んだ。それまでの痛み方と違う気がして、化野もそれを思い出そうとした。この痛みは、あれだ。ギンコを抱いた時にくるアレと、少しだけ似ている。ただの頭痛だなどと、思ってはいけないものだ。
「写真とか、持ってないか? ミサキ」
「無いよ。ひいおばあちゃんは小柄で、近所を散歩する時は、もう古くなったサンダルを履いてた。看取られたのは家から少し坂を上った小さな公園だったんだけど。公園としてはもう使われてなくて、ブランコの枠だけ残ってた。だけどそこは高台で、凄く景色がよかったんだよ。ひいおばあちゃんがそこから海を見ている間、私、レンガの少し崩れた花壇の、雑草のお花を摘んだりして、遊ぶのが好きだった。おばあちゃんのエプロンのポケットには、いつも私の好きなキャラメルが入っててっ」
思い付くことを次々、必死で並べるミサキ。だけれど化野は、何かを思い出してくれる様子は無く。あぁ、無理なんだ、とミサキは思った。きっと違うんだ、たまたま名前の響きが似ていただけ。電話で聞いた名前は、きっと本当にハラシノで、アダシノではなかった。
それでも、諦めきれないように、ミサキはぽつり、ぽつりと呟く。
「あのね、ひいおばあゃんは、チョウチョを見れる人だったの。他の誰の目にも見えないチョウチョ。真っ白なチョウチョと、黒いチョウチョなんだって。私、一度でいいから見たくて、でも見られたこと、なくって…」
パサパサパサ…っ。
その時、軽い音が何処かから聞こえた気がした。温室でよく聞く音だろうかと化野は思った。里人達みんなの蝶が、あそこにはいるから。いつも見えるわけではないが。でもその音が聞こえたのは、化野の「中」だった。だから聞いたのも彼だけ。
胸で、蝶の翅の音がする。そういえばギンコがいつか、言っていたのではなかったか、俺ぐらいにしか聞こえない、とも言っていた気がする。化野自身、自分の胸から聞こえたことはなく。いや、きっと無い筈で。
「…高台」
海の見える。
それに…。蝶。
白い蝶、
黒い、蝶も。
「……」
頭が痛かった。割れるようなとよく言うが、割れてくれた方がマシだと思うほどの痛みだった。何か鋭いものが刺さったような痛み。だけれど、この痛みは、得たいものを得させてくれる痛み。
痛みはあまりにも酷いのに、表にはその苦痛が現れていず、傍にいるミイもミサキも、彼の異変に気付いていない。
「ギ、ギン…コ…」
もしも少しでも、これがお前に関することなら、思い出させてくれと、化野がそう思って、たった一言、その名前を呟いたとき、まるで、黒い布を一瞬で取り払われたように、痛みが消えたのだ。
長い長い、溜息をついて、化野は自分の頭を押さえ、それから胸を押さえた。そして急に気付いた。そろそろ、ギンコが戻っていいのではないか。寧ろ、遅いぐらいでは、と。
昼を過ぎた頃、凄い音がした。里中全部の建物が揺れて、雷が落ちたに違いないと、何人もが思った。何日も止まない雨も、ましてや雷が落ちるなんて、今まで一度もなかったから、それが雷なのだと、分からないものもいた。
「大丈夫だろうか」
化野はそう言った。此処は山沿いの里だ。ヌシ様の護りがあるから、何もないとみんな思っているが、本当に大丈夫なのだろうか。山が崩れたり、しないだろうか、と。
化野の言葉を聞いて、ミイもミサキもさっと表情を変えた。まだ口にはしないまでも、きっと近いことを考えている。ヌシ様の護りがあって、里は大丈夫だとしても、不安な気持ちはきっとみんな、少しは持っている筈だ。ならば。
「ここに皆を集めた方がいい。全員を、呼びに行ってくる」
「あ、貴方ひとりで行く気なの? 馬鹿を言わないでよ、私たちも行くわよっ」
「そうだよ、こういう時の単独行動は一番駄目なんだっ」
それはその通りで、化野は反論できない。だけれど女性になるべく危険なことはさせたくなくて、山側や川の近くの家は化野が、山から遠い開けた場所は、二人に頼んだ。館を出て、途中で二手に分かれて走り出した時、普段はもう思わないことを化野は思う。
こんなとき、通信危機があれば。誰かが怪我したらそこへ自分がかけつけられる。それに、医療器具もそうだ。輸血や、麻酔すらも、此処では出来ない。何事も起こらないでくれ、どうか、どうか。
化野とふたりは、里中へと走った。リョウスケやコンに声をかけた時は、手分けする人員になって貰って、短い時間で全員に声をかけられた。
子供や年寄りは負ぶったり庇ったり。まるで夜のように暗いから、足元が見えずに転んだものは居たが、せいぜい打ち身か切り傷程度で、里の全員が館へ集まるために動く。
「館についたら、ありったけの布を出して体を拭いて、火を焚きましょう、こんなときに節約も無いわ。みんな一つの部屋にいた方がいい」
ミイが言い、そうよね化野さん、と、問おうとしたとき、化野はどうしてか、ひとり立ち止まっていた。
「化野さん?」
「…先に戻っていてくれ」
「何言ってんだよ、化野さんっ、もう全員ここにっ」
「…温室。そう、温室を見てくる…。さっき強い風が吹いたとき、確か、ガラスの割れる音が。…すぐ戻る…っ」
走り出した化野の背は、暗い中ですぐに遠くなる。その時、また、山の何処かに雷が落ちた。セキか、セキの子の誰かが悲鳴を上げた。つられてまだ五歳のクウタも鳴き出した。さっき転んだ誰かの膝からは、血が流れている。年老いた女は、負ぶわれたままで真っ青だった。
「行きましょう、ミサキ」
「ミイ…っ」
「あの人は。そうよ、あの人は…」
言い掛けた言葉はとても続きが言えない。この里を出たがっているような人よ、と、言葉には出来なかった。
「とにかくみんなを安全な館に集めるの、他のことはそれからだと思うべきなのよ」
雷の光で、ソレは微かに見えた。温室に行くなどと言って、化野の行きたい場所はそこではない。温室の向こうの、鉄の門。そこからギンコが外の世界に出掛けて行き、外の世界から戻る時に、ギンコが通る、黒い大きな門。
もう一度、と化野は思う。
雷よ光ってくれ。
さっきのは目の錯覚だったと、
思わせてくれ。
ギンコが、そこに、
そんなふうにして、
居るなんて。
その時、化野の願いはひとつだけ叶った。小さな稲光が空に走る。
「ギンコ…ッ」
続
書き上げてからアップするまでに、諸事情で少し間が開きました。というわけで、20話です。えっ。20話? 20話ですと? 長すぎる自覚はあるんです。でもまだ終わらなそうなんで、区切りもまだ先なんでっ。申し訳ないっ。 なんとか区切りを探しながらもうちょっと書きますねっ。ではまた次回ーっ。(内容に触れられない筆者)
2021.08.19
