鼓  動    2




 白いシャツにつばの広い麦藁帽。足元は下駄履きの気軽な恰好で、大きく枝を広げる立派な栗の木の下、男がぽつん、と立っている。やがては小さな足音がして、彼は帽子を持ち上げた。おはよう、と笑みの見える声。

「化野せんせい」
「うん。な、蕾。一緒に散歩しないか?」

 ピィっ、チチチっ。鳥の声が頭上でしている。まだ朝早い時間だった。昨日は川で沢山の岩魚が穫れて、だから神官の蕾はヌシ様にお礼をお伝えしに行った。その帰り。小道を下りてくる彼女を、化野が待っていたのだ。
 
「散歩…」

 蕾は今日はごく淡い橙色のTシャツに、紺の短いズボン、手作りの木のサンダルを履いている。そして彼女は化野の言葉に小さく首を傾げた。首の両側で低く縛った髪が、紺の髪紐と一緒に揺れる。

「朝飯はもう食べたかい? 腹が減ってるなら、屋敷へ寄って何か食べてからでもいいんだが。なんなら貰った団子もあるし」
「食べたよ。お母さんが、おにぎり作っておいてくれたから」
「そうか、じゃ、団子は散歩の後にでもな。行こうか」

 どこにいくの? と蕾は聞いた。化野は彼女の顔を見下ろして言った。

「里をぐるっと、ゆっくり一周、したいな」

 二人やっと並んで歩けるような、細い小道。石が平らになるよう敷き詰められて、歩き易い。左右は雑草や野草、田畑の傍では稲の葉や作物の葉になる。時々は、低木の枝なんかが突き出していて、ひょい、ひょい、と二人はそれを除けて歩く。

 歩き出した場所は少し高いところだったから、里を上から見下ろすように眺めて進む。まばらに、ぽつぽつ、と家。数えて二十も無い。そのうちいくつかは道具小屋や作物の保存小屋。すべて、山から切り出した木を使い、里のみんなで作った。

 二人の歩く道の端、街路樹、などというものではなくて、種類も太さも大きさも違うばらばらの木々が、時に視野を妨げるけれど、夏はそれらの作る木陰が有難い。柿の木や、林檎の木もいくつかあって、季節季節に実を結び、それが里の喜びともなるが、うまく分けるのに毎年苦労している。
 
 畑の横の道を歩き、田んぼと田んぼの間を通り、出会う人々と声を掛け合う。畑で作物の世話をする女、農具を手入れする男、洗濯物を干している母親と、その傍らで遊ぶ子供。逃げた鶏を捕まえた青年。縁側で繕いをする老女。

 老女は、ふ、と顔を上げ、にっこり笑うと手招きをした。

「蕾ちゃん、蕾ちゃん、おいで。お団子上げるよ。先生も、よかったらもう一つ」

 蕾は尋ねるような眼差しを化野に向ける。化野は彼女の背を押して、老女の庭へと入っていく。

「いや、俺はまだ、さっき貰ったのを食べていなくてな。蕾の分だけ」
「そぉお? じゃあ、先生にはお茶入れますねぇ」
 
 縁側に招かれて座って。だけれど蕾の背中は少し、強張っている。

 きっと、覚えているからだろう。老女は、あの時、蕾を見た。医者の化野の目を見るのと同じ強さで、必死な目をしてじっと見た。死んでいこうとしている夫の手を握り、けれど何も言わずに、まだ五歳だった蕾を見たのだ。

 化野に見、蕾を見た次に、老女は白也にも縋る目を向けた。白也は眼差しで縋られて、悲し気に目を伏せると、力なく首を左右に振ったのだ。言葉にしない声を、化野はその時、聞いたように思った。

 何も。
 出来ないんです。
 誰も。
 何も。
 出来ないんです。
 
 肩を落とした彼女に、もういいんだ、と言った夫の声が穏やかだった。せいせいと息を吐きながら、それでも穏やかで、とても静かな声だった。

 ナキ島で、此処でも、ずっと。
 ずぅっと、幸せだった。
 なぁ、お前、そうだろう? 

 死にゆく夫のそんな言葉が、ふうっと浮いて、流れて、沈んだこの家で、ひとりになった老女は手作りの団子を作っては里のみんなにふるまう、勿論化野にも、蕾にも差し出すのだ。
 
「はいっ、蕾ちゃん。お食べね。先生にはお茶、此処におきますよ」

 小さな縁側に、並んで座って、蕾が団子を食べる間、化野が茶を啜る間、老女は繕い物をしていた。もう居ない夫の服を、まだ別の人が着られるように、丁寧に丁寧に繕っている。静かで穏やかだけれど、少し息の苦しい、時間。

 その家を出て、里外れまでゆっくり歩いて、一番端の誰かの家からもずっと離れてから、化野は立ち止まって、道を折り返す前にこう言った。木漏れ日がゆらゆらと、二人の顔をまだらにしていた。

「蕾は偉いな」
「……」

 小さな彼女は、ほんの微かにだが首を横に振る。化野は重ねて、もう一度言った。

「偉いさ」
「……えらく、ない。なんにも、できないもの」

 まだまだ、あどけない声で、ぽつり、ぽつりと零した言葉。まるで、自分を叱っているような響きに、化野は今度はこう言ったのだ。

「誰も出来ないんだ。出来ない、のに、それでも。逃げずに受け止めるんだから、偉いんだよ、蕾は」

 ぽん、と蕾の頭に化野の手が置かれた。彼女の体が震えているのが伝わった。化野の手も少し震えていて、気付いた蕾が化野の顔を見上げると、彼は目元で苦笑する。

「蕾。一緒に、頑張ろうな。蕾と一緒に、俺も頑張るし、皆も頑張る。ギンコも…」

 その名を行った時、蕾の目の中に小さな、けれどはっきりとした怯えが宿ったのを、確かに化野は見つけた。でも何も言わず、くしゃくしゃと蕾の髪を撫でて、それから彼は蕾の右手を取り、その手と自分の手を繋いで、道を戻った。

「団子、美味しかったか?」
「うん」
「じゃあよかった。また作ると言ってたからな。楽しみだな」
「うん、食べたい」
  
 道を行くと、皆で畑仕事をした帰りの、セイゴにセキ、ユキやクミと行き会った。

 セキとクミは、手を繋いでいる化野と蕾を見ると駆けて来て、蕾の空いている手と、化野の空いている手をそれぞれ握って、四人手を繋いで、まるで団子みたいになって、随分歩きにくくなりながら、みんなで歩いた。気付くとセイゴとセキも手を繋いでいた。

 


「蕾のその気持ちは、俺も、分かります…」

 白也は唇を引き結んで、少しの間黙ったのち、しっかりと化野の顔を見ながらそう答えた。

「でも蕾は、俺以上になのかもしれない。確かに、気付いては居ましたが、どうしてやるべきかとなると、正直」
「あーー……もう…ねぇ」

 そんな白也の言葉を聞くなり、大袈裟な程の溜息をついたのは、話をし出した化野では勿論なく、イサだった。

「半年ぶりに様子見にきたら、いきなりそんな話。俺に言われてもな、なんだけどねぇ」

 イサは改めて行儀悪く、両足を板敷きの床に放り出して座り直す。此処は白也の家だ。ひとり住まいなので土間の小さな台所と、一段高くした一部屋しかない。その一部屋は、ひとりにしては少しは大きいが、神官補佐の彼を何くれと尋ねてくる人は多い。

「……でもま、神官補佐殿とお医者先生には、知っててもらった方がいいこと、かもね」

 ほんの軽い話題みたいに、イサは話し始めたのだ。









 


 新たな土地での今までと、今とを書かねばなりません。まだまだこれからですので、大変に頭をひねっています。場所が変わり、ヌシが変わったわけですが、その二つはいろんな「違い」を生み出している。

 平穏な暮らしの中、すべてがうまく行っているように見えて、不安や問題がないわけではない。それを書きながら、そのことがこの里に、人々に、そして化野やギンコに、何をもたらすのでしょう。

 難しいのですけれど、わくわくもしています。どこから手を付けるか、はやっと定まった、と思うので、ぼちぼち書いて参りますね。よろしくお願いします^^


2020.08.10