鼓 動 19
「ギンコを、連れてくる」
明るい日差しの入る白い部屋で、イサはじい様にそう言った。酸素吸入器の中を薄く曇らせながら、じい様はそんな彼をじろりと見る。
「い…らん」
「なんで? だってもう」
「…い、ら」
「だって…っ、じい様っ、もう、時間が」
言い募るイサを前に、じい様はまたいつかのようにして、酸素吸入器のマスクを顔からむしり取る。せいせい、と浅い呼吸がイサの耳に聞こえた。
「言うべき、ことは、ぜんぶ、済んだ。ちゃあん、と、間に、合う、だろ…? じゃから、お前は、早ぅ行け。行っ…て、準備、を……」
ヒューーー、とじい様の喉が鳴る。イサは焦って、じい様の口にマスクをあてがった。白く曇るマスクの中で、ハク、ハク、と色の褪せた口が動いている。それをイサは必死で読んだ。
「うん、うん、わかってる。やるよ。出来るよ。無理なんかじゃない。だって、じい様。じい様は俺なんかより、ずっ…と、前、から…っ。えっ、何…?」
口元が読めなくて、イサは焦る。ガクガクと震えるじい様の手が、マスクを外したがってもがいていた。イサはだから、してはいけないと分かっていながら、もう一度じい様の口からマスクを外した。
「じい…さ、ま? 何て…?」
「…おま……は、オレ……だ…。ギ……を……。ギ…」
ぱた、とじい様の手が、布団の上に落ちた。まだ息はある。閉じかけた目がイサを見ている。コールへと伸びかけた手を、けれどイサは引っ込めた。延命は要らない。そう、何度も言われていた。最後の願いの一つだった。それは医者にも言ってある。
「ありがと、じい様。ううん、ハタリ。俺、行くね」
イサは上着をとって、逆の手でナースコールを強く押した。そうして誰かが駆けつけてくる前に、病室を出て行ったのだった。
順調だよ、大丈夫。
イサは心の中で、そう言っていた。相手はじい様。きっと心配しているだろうから、何か一つ進むたびに、報告をしているつもりで顔を思い出す。
W市とT郡の施設と役所、問題なく約束してもらった。H島町立学校もOK。N氏邸の住み込み職員も三人まで可能。それらどれも、全部報告した。あちこち足を運んで、この一か月、本当に忙しかった。
あとはあいつら二人だけど、そっちは手回しの必要もないと、じい様と意見があっていたから、何もしていない。ひと段落着いて、今からやっと病院にお礼を言いに行ける。そして必要な書類にサインをしたら終わり。
葬儀も何もない、墓も無いから、あっさりしたものだとイサはほんの少し淋しく思う。病院からの帰り際、携帯端末に電話が入った。相手はギンコだった。気付かなくて取れなかったが、少し前に着信もあったようだった。
「ギンコ。何どうしたの? 急ぎで要るものでも」
来る予定じゃない日の筈だ。でも声を聞いたから、そろそろ言おうかという気になった。病院の喧騒と重なって、会えるか、とギンコの声が聞こえてくる。
何をどこまで言おうか。そんなに急ぐ必要はないし、話すべきことは多過ぎるから、少し考えて選ぼう。あいつの顔を見ながら決めてもいい。
「いいけど。今ちょうどここでの用が終わったとこだし」
待ち合わせ場所は海の音のする場所にした。こっちのしていることを、何も知らずにいる彼に、ささやかな意地悪。ギンコに会うよ、まだ言わないと思うけどね。そんなふうに、またイサはじい様に報告したのである。
そこは、長い長い、曲がりくねった草の迷路。ギンコの背よりもずっと高く、トラップのように幾つも分岐し、ひとつでも間違えば目的の場所には辿り着けない。
それをもう体で覚えているギンコは、なんの迷いもなく道を進んでいく。脳裏で思い出しているのは、やたらと含みのあったイサの言葉の幾つか。
ギンコも気付いてんじゃないの?
あの土地を離れたいなら、すぐでも。
俺も、今はこれ以上言わない。
食い下がって聞くべきことが、いくつもあった気がするけれど、聞けずにもう離れてきてしまった。次にイサに会うのはいつだろう。ギンコは草の音ばかり聞きながら、やがては大きくて頑丈そうな鉄の門へと行き当たる。
鍵はかかっていないから、それを強く引いて身一つ分だけ開けて、ギンコは土地へと戻った。門を通り抜ける時、体の内側にほんの微かな違和感が、ざらりと。ヌシたる蟲が、彼を感知したのだとわかる。が。
「ヌシ殿、よ」
ギンコはぽそりと呟いた。それはイサに問えなかったことの、ひとつだった。
「あんた、本当は」
ヌシじゃぁないんだろう? 違うかい…?
万が一にも誰かに聞かれるわけにいかない。だから声に出来なかった己の言葉を、ギンコは笑う。
蟲なんざ、今でもわかっていないことだらけだ。だから、俺らの知っている常識とは違うのかもしれないが。ヌシの存在は、親から子へと引き継がれたりしないものだ。ナキ島のヌシが本物のヌシだったとするならば、その子孫の蟲もヌシである可能性は低かった。
ずっと昔と違って「今」は、ヌシ不在の光脈は幾らもあるし、ヌシが居ないからこそ、疑似的にヌシに近い役割をする生き物がいることもあるから、ここでヌシと呼ばれる蟲は、それであるのかもしれない。
ヌシではないヌシに似た存在は、土地を守り、土地を隠し、土地で生きる命たちに恵みを与え、そこから何かしらの糧を得る。例えそれが、本当のヌシではなくとも、民にとってはまぎれもなくヌシなのだろう。
そして、その「ヌシ」はギンコの寄せる雑多の蟲すら、多少なりとも遠ざけて。
感謝するよ。
七年も俺は此処で、あいつと生きられた。
そして、過去、理にさえ二度背いた俺は、
もう少ししたらあんたにも、背く。
だって、仕方ないだろう。
此処に居たら、
あいつ早死にしちまうかもしれない。
嫌なんだ。
いやなんだ。
かちゃん、と音を立てて、ギンコは門を閉じた。里人の誰も此処へは来ないから、土地に入ってもまだ彼はひとりだ。そして彼は真っ直ぐに温室へ向かい、今では学校や、簡単な作業場のようにも使われている其処に、頼まれていたものの幾つかを置こうとした。それが。
耳元で突然、何か奇妙な音。その音が今度は体内でするように思い、途端に今度は眩暈。ぐるりと目の前が回るような、激しい眩暈だ。それだけではなく吐き気。
「…う……」
ギンコは両手で胸と喉に手を置きながら、そのままそこへ膝を付きかけ、寸ででそれを堪えた。息が苦しい。喉に何か、乾いたものが沢山詰まっている気がする。それが肺までもを埋め尽くす。
このまま、意識が途切れる。そうとわかったギンコは、何も考えられずに温室を出て、這うような気持ちで門の外へまでも、逃げた。
逃げるとは? 何故、どこへ?
遠ざかっていくギンコの意識の何処かに、そんな問いがあった。この土地から? ヌシからか? 自分自身から。運命から? 化野が、此処で待っているのに?
あぁ、あだし、の…。
心配いらない。
どうせ死なない。
俺は、消え…ない…。
草の音がする。ただそれだけが。遠い昔と変わらぬように、倒れ伏す彼を包んで、鳴っている。
続
凄い濃いことをいっぺんに書いてしまって。あーうー。実際打ってた時間の20倍以上時間かかってこれだけどもっ。続きのプロットも書いたので、次回はそれをなぞれると思うっ。多分っ。ではでは、また次回―っ。
てゆか、また化野居ない―(^^;)
2021.08.09
