鼓  動    18





 もうすっかり乗り慣れた電車に乗って、いつも空いている車両の、隅の方の座席にギンコは座った。自分で書いた走り書きを眺めるが、他愛のないものばかりの一覧の上を、気を抜くといつの間にか目が滑っている。

 少し窓の外を眺めたあと、ギンコは溜息と共に一覧に目を戻し、その上をゆっくりとなぞった。

 読み書きの為の本。
 数を学ぶためのそろばん。
 鉛筆、
 布の類のあれこれと、
 糸と針、
 少しばかりの調味料、
 鎌と鋏、
 砥石。

 そろばん、というのは今までになかった。だから、まずイサに相談するつもりだ。生活用品、というだけの共通点の、これらをこれから、イサの教えてくれた経路で買い求め携えて、あの土地へと戻る。いつもならば、それだけ。

 基幹駅で一度下りると、ギンコはいつも利用しているロッカーに立ち寄った。超過時間分の硬貨を入れ、中から現金と帽子、携帯電話とバッテリーを取り出す。充電しながらイサの携帯端末へ電話を掛けたが、電波が届かないか電源が入っていない、というアナウンスが聞こえた。

 よくあることなので驚かず、ギンコは駅構内を、次に乗る電車のホームまで歩く。ポケットに入れた携帯端末が重い気がするのはいつものこと。持つことを苦に感じるのは、ああいう土地に住んでもう長いからかもしれないが、ギンコ自身もあまり好きではない。

 これ、お前の。
 嫌そうだけど持ってなよ。
 探し人の情報、
 少しでも早く知りたいだろ?
 
 そう言って、イサに初めて携帯を持たされたのは、まだ化野が見つかっていない時だった。見つけてからは不要だからと返したのに、ナキ島の頃からまた使うようになった。勿論、土地を離れている時だけだが。

 渡守をするようになってからは、駅のロッカーの鍵も渡されたが、里の外で必要なだけの現金や、その他のものがたまに足されている。この帽子もそうだった。寒い季節には手袋やマフラーや、上着が足されていることもあった。

 これは俺が、
 好きでやってることだよ。
 全部お前のためだけどね。
 要らないなら使わなくていいさ。
 無駄にはなるけど。

 笑って、押しつけがましい言い方で。そうやっていつもイサはギンコを助けるのだ。

 駅に着いた時、電話が鳴った。丁度電車がホームに滑り込んだ時で、下りてからギンコは着信を受け取る。イサの声が聞こえる一瞬前に、誰だか知らない女の声が入り込んだ。

『第三病棟の』
 
 と、聞こえた。

『ギンコ。何どうしたの? 急ぎで要るものでも』
「今、病院にいるのか?」

 女の声は多分、たまたま入ったものだろう。それ以外にも周囲が少しざわざわしていて、それが大きな病院の中のそれだと病院勤めの経験のある彼には分かった。

「うん、まぁ、そうだけど。別に俺が具合悪いとかじゃないぜ? 仕事仕事。なんだよ、心配した?」

 笑い混じりのいつもの声に、一瞬だけ詰めていた息をギンコは吐く。

「居ないと、困るからな」
「だろうね」

 ギンコが要件を告げると、イサは一度電話を切り、五分後にまた掛けてきた。いつもの文房具卸にそろばんはあるそうだ。だからギンコが直接行って、担当者から仕入れる形で可だと。

「じゃあ、また」

 と、電話の向こうの声が既に遠くなるのへ、ギンコはイサの名を呼んだ。

「イサ。会えるか」
「いいけど。今ちょうどここでの用が終わったとこだし。でも、家に戻る予定が無いから、明日、ギンコが買い物終わった後に外で会うことにしようか。何処がイイかなぁ。浅潮海浜館、とかは?」
「文房具屋の隣駅だな、わかった」

 海沿いを通る電車の窓から、何度も建物を見たことがあった。中吊り広告で案内を見た記憶もある。時間の打ち合わせは明日にでも、とイサはギンコに伝え、そのまま電話は切れた。

 そして翌日の夕刻、ギンコは海浜館でイサと会った。いざ行ってみたら施設は改装中。入れないのかと困惑したが、入り口前で足を止めたギンコに、施設の柵の向こうからイサが手を振っていたのだ。

「こっち、通用口から入れるよ。実は、ここの鍵持ってるんだよね」
「仲間が働いてるとかか?」
「いいや、経営者の弱みを握ってる、なんてな」

 イサは館の中心の通路をずっと歩いて行く。左右には照明を落とした水槽。魚たちがゆっくりと泳いだり、群になって眠ったりしている。ギンコはイサの背を追い掛けながら、無人の建物に響く彼の言葉を聞いた。

「貸し切りだからさ、ギンコ。言いにくいことでも聞きにくいことでも、なんでも」

 通路を抜けると、潮の香りが二人を包んだ。淡い青と夕の橙が、砂浜の向こう、二人の目の前で混じって滲んでいる。波の音と、砂を踏む微かな音。もう数歩進んだら波が足に届く、そんな場所で立ち止まり、イサはギンコを振り向いた。

「俺から言おうか。彼女らのことだけどね、新入りの。他に匿う場所がないでもなかったけどさ。タツミの里に丁度いいと思って行かせたんだ。たぶん今に、必要になる」
「…必要…?」
「だってさ、化野は最初からあの土地に向いてない。一人死んだぐらいでぐらついてさ。たった一人の医者があんなんじゃ。里の人間まで死ぬことを恐れるようになっちまう。そうなる前にって思ってね」

 波音に重なってイサの声が聞き取りにくい。言葉そのものは聞こえるけれど、その中にある彼の感情が聞こえてこないのだ。わざと声を小さくしているようにも思える。

「なら、なんで。ナキ島に、行かせたんだ…?」
「何言ってんの。あんときは例の病院の例の件で、あいつ厄介な人間の恨みを買ってただろ? それに、あの場所は他の蟲の影響を受けにくい。お前があいつと暮らすのに、一番いいと思ったんだけどな」
「………」


 全部、お前のために。


 イサの声が、耳の奥で聞こえた。携帯や帽子やコートの時の声。分っていたことだった。イサはギンコの為に、様々なことをしてくれる。他者の人生を変えてしまうようなことでも、なんでも、するのだろうと。

 ミイは、ミサキは、じゃあ本当はあの土地以外に居場所はあったのか? 外界から完全に切り離され、ヌシの影響で迷いや後悔すらも掻き消され、幸せなのだと思い込んで、死ぬまで。

「…イサ…」

 ひどい、と思う。けれどギンコは、そんなことを口には出せない。抗えない運命に、何度も何度も、化野を繋いでいるのはギンコ自身だ。

「そんな顔すんなよ。彼女たちも、それでいいって言ったんだ。ギンコ、聞いて。この先が本題だから」

 イサは言った。彼の気付かないうちに、その足は波に濡れていた。言いながらたった今そのことに気付いて、でもイサは表情も変えずに、足を波になぶられていた。そう、こんなふうに、汚れるのなんか気にしない。

「タツミの土地はナキ島とは違う。地続きで、すぐ傍に普通の世界がある。そのうえ、タツミの土地のヌシはナキ島のヌシのようには、里の人間を捕らえられていないと思う。ギンコも、気付いてんじゃないの?」
「なに、を?」

 波の音、タツミの里には無い海。砂浜。ここはあの海じゃないのに、ギンコは心を揺らされる。話をするために、此処を選んだイサを恨めしく思う。 

「……あの土地を離れたいなら、すぐでも離れられるよ、お前に限れば、制約すらないだろう。そして、化野も俺が、ちゃんと逃がす」

 イサが見つめる前で、ギンコは今度は不可解そうな顔をしていた。イサは少し笑っている。深い目をして、その深さの上に微笑をのせていた。

「俺もお前に言わないでいろいろ動いてたけど。お前も勝手しようとしてただろ? ほんとやめろよなぁ。俺がお前のこと、支えらんなくなっちまうだろ?」

 で? と、言って、イサは波と砂を一緒に蹴った。波滴は夕の橙色に光って弾ける。

「お前の方から打ち明け話は無しかい? ないなら俺も、今はこれ以上言わない。あいつんとこへ戻りなよ」

 突き放すようにそう言うと、イサは指に引っ掛けた鍵束をぐるぐると回しながら背を向ける。その金属音に惹かれてか、翅と尾びれのある奇妙な蟲たちが、寄り集まっては騒いでいた。











 凄い難航しました。情報量が多過ぎて削ったり、でも書きたくて書いたり、また消したり。まだ悩んでいるけどでもこれで!! 今そんな気持ち。次回もなんとか頑張りたいっ。

 今、箱庭シリーズまた一から読み返してるんですよ。好きなシーンはやっぱり「ここ好きだな」って思います。(大抵辛いシーンだけど) そういうシーンを少しずつでも増やしていきたいなぁ、と。本当は螺旋シリーズ全部読みたいけど、それはちょっと中々…。

 でも読みたい。汽笛の話とか。


2021.06.29