鼓 動 17
瞼が重くて、その瞼の向こうの光が眩しくて、暫くはまともに目が開けられなかった。ずっと聞こえなかった音が聞こえていて、随分とうるさく感じたが、聞こえるそれは誰かの息遣いのようなのだ。
お前か、トサト。
と、ハタリは思う。だから無理をして目を開けて、傍らで眠る姿を確かめた。
「…サ…ト…」
「じい様…ッッ」
かすれた声で呼んだ途端、伏していた顔をガバリと起こし、イサがじい様の顔を見た。
「あーーー…ッ、もうっ、あんまびっくりさせんなよ!」
イサが大声を出したからか、看護師と医者が飛んできた。診察がされ、イサは身内として別室で話を聞く。血の繋がりの無い他人だが、じい様には他に身寄りが無いし、主治医はイサたちとは古馴染で、いろいろと心得て居た。
「…検査も入院も、大袈裟なのは嫌だと本人が仰る。でも、ご高齢ですしね。本当は入院を勧めたいところなんです。…今のままだと…」
「危ない、と?」
「『蟲』が所以、というのでなければ」
あと一年未満、と医者は言った。けれど恐らく、もっと猶予は短いのだろうと、イサは思った。病室へと戻り、じい様の顔を見ると、まるで自分も医者の話を聞いてきたかのような眼差し。だからイサは、すぐに切り出したのだ。
「じい様が起きるまでの間に、アレは読んだよ。全部。それで、じい様。今じい様が、一番したいことって、何?」
問われて、じい様は笑った。紙のようだった顔の色が、その一瞬で、ふうっと良くなった。酸素吸入器を顔からむしり取り、彼はもどかし気に身を起こす。
「こんなもん、いらんわ」
イサはじい様に手を貸し、体を起こさせてからベッドの脇で身を屈めた。隠してあったのは、二冊の分厚い本。そして小さな鉢植えも。じい様は書物とタツミの里の花を見て、イサの顔をまじまじと見た。
「したいことは、お前のしようとしてることと同じじゃ、イサ、いいや、トサト。…なんじゃ、面倒くさいな。いっそイサトと呼ぶか? それともイササか?」
偶然か、分かっていてか、じい様はそんなことを言う。イサは苦笑して、最後のそれは特に固辞する。ギンコの記憶の中に居る「イサザ」を羨んだことはあっても、自分は自分だ、と彼は思うのだ。
「イサでいいよ、じい様。ちゃんと跡も継ぐよ。継がなきゃ、あいつを、支えられないから」
うーさーぎーおーいし かーのーやーまー
こーぶーなーつーりし かーのーかーわー
ゆぅーめーはー いいーまーもー
めぇぐーーう りぃてー
「わーすーれーーがーたきー、ふーるーさーとー。か…」
風と共に、窓から入ってくる歌声。合わせて自分も口ずさんで、化野は少し、淋しそうな顔をした。ここにぴったりの歌だとは思うけれど、同時に物悲しい。リョクヤのところに生まれたクウタ以外、みんな故郷は別にあって、もう二度と戻ることはない。
その上、ナキ島のことなど、離れた途端にみんな記憶を薄れさせ、あの土地で生まれ育ったものでさえ、話題にするものもとうに居ないのだ。それは、人ごときにはどうしようもないこと、なのだろうが。
「…蟲ってのは、ひどいことをするもんだ」
ほんとうに、何様だ、まったく。
「ひどい、って?」
気付いたら、ミイが同じ部屋の中に居て、じっと化野を見ていた。化野はぎくりと慄いて、それへは答えず、別のことを言った。
「それ、薬草の分布図か? 熱心だな、ミイ」
「えぇそうよ。早く覚えたいの。これ、新しく書き足してもいいかしら。今見てきたところなんだけど、書いてない薬草も生えてるわ。南側の斜面とか」
「ミイは、俺なんかよりずっと良い医者になりそうだなぁ」
軽く笑ってそう呟く化野の顔を、ミイは暫く眺めていた。そうして図面を畳んで手に持ったまま、開け放ってある廊下への扉を閉めに行く。
「そうかもしれない。…二年前の話、聞いたわ。お爺さんが亡くなった時のこと。貴方、随分取り乱して、後を引いたそうね。私は、そういう貴方とは違うから、此処で親身な医者の顔をしながら、助けられない人のことは、けっこう冷静に見送っていけると思うの」
「なんの、話を」
「この間は言うのをやめたけど、一度だけ言わせて。返事はしなくていいわ。貴方、今にこの土地から」
キイ、と扉が音を立てた。ミイはすぐに言葉を止めたが、扉の向こうに居たものには、聞こえてしまっていたのだと分かった。
「……ギンコ」
ギンコは何も言わなかった。黙って部屋に入ってきて、奥のソファに腰を下ろし、里の人々から集めてきた「欲しいもの」の走り書きを整理し始めた。
「ねぇ、あなたたち。これって、私が言うことじゃないかもしれないけど。隠し事はやめた方がいいわよ。お互い、相手が大切だと思っているんなら、尚のことね」
二人きりになって、化野はギンコの向かいに腰かけた。そして彼の顔を覗き込む。
「ミイは、目敏いな」
先に言葉を発したのはギンコだった。それゆえ、化野は何も言うことが出来ない。ただ、懺悔でもするようにギンコの前に居て、続く言葉を待っていた。
「これから里を出る」
「え」
一瞬、化野はギンコの言葉の意味を取り違えたらしかった。渡守だ、とだけ言ってギンコは彼を黙らせ、立ち上がり、低いテーブル越しに身を伸べると、化野と唇を重ねた。
そのまま、ギンコはふらりと里を出た。いつものようにヌシの場所へと行くこともせず、本当にふらりと、何でもないことのように。彼の身にも、里にも何も起こらない。ただ、家に居る蕾の胸に、一瞬、ぬるい風がさした。
「ミサちゃん、ほら、チョウチョ、きれい、よ」
「え? なあに、ミサキ」
「あ。ごめんごめん、なんだか急に思い出したんだよ」
温室にいるミサキとミイ。ミイは今は、童謡の歌詞を思い出しては書いていて、ミサキは里のみんなに、そろばんや漢字の読み書きを教える手順を考えていた。
温室には今、蝶の姿は無いが、沢山の花の姿があり、蝶の羽音を錯覚する。羽音は胸の奥でするような気もしていて、それを感じていたら、ミサキは随分と昔のことを思い出したのだ。
「私のことを可愛がってくれてたおばあちゃんが居て、今思うと、おばあちゃんて、蟲が見えていたんじゃないかなって」
「蟲って、こういう特別な土地以外にもいるの?」
「うーん、分かんない。でもおばあちゃん、言ってたんだよね。私以外にここでチョウチョの見える人に会ったことが無いから、ミサちゃんに見えたら、いいのに、って。おばあちゃん死んじゃったし、もうあの場所にも行けないけど」
おばあちゃん、急に死んじゃったんだ。
ミサキは言う。だからお別れも言えていない。おばあちゃんを看取ってくれた人は、たまたま傍に居たお医者様で、その人にもいつかお礼を言いたかったのに。
もしも此処を、いつか出ることがあったら、そこは行きたい場所の一つ。出来たらミイと一緒に行って、景色の良かったあの高台から、海を見られたらと思う。
でも今、それを言ってはいけない気がして、ミサキは黙っていた。
「ミサちゃん、可愛い呼び方ね」
ミイはそれだけを言って、淋しそうにしているミサキの髪を撫でた。
続
あんましぶつ切りにはしたくない。でも話を進めすぎるのもなんとなく怖くて、結局ぶつぎりに。とびとびで申し訳なーいっ。遠い過去と少しだけ遠い過去が、現在に繋がりつつあります。ギンコの過去、化野の過去。ミサキの過去。そしてじい様の過去。次回も頑張ります。
2021.06.13
