鼓 動 16
窓からの日差しを受ける長椅子に、ミサキとミイが寄り添って座っている。
「ねえ、ミイ」
「なぁに、ミサキ」
其処は彼女らの部屋ではなく、ギンコ達とも共有している居間だったし、化野が別の机で書き物をしていたが、そんなこと、ふたりは気にも留めていないようだった。
「わたしたち、此処でずっと二人で暮らすんだよね。若い時なんてすぐに過ぎて、おばさんになって、しわしわのおばあちゃんになっても、ずうっと」
「そうよ。私が先に逝くなら、ミサキがちゃんと看取ってね。あなたが先に逝くなら、私が看取るわ。そしてどっちが先でもそんなに待たせずに、きっと追い掛けるの」
「うん」
「ミサキ…」
「……」
見つめ合う顔が近付いて、ふたりは…。
「あー。出ていようか?」
机の上に、ぽい、とペンを放り出し、化野がそう言った。二人は見つめ合ったまま、軽く啄むようなキスを一度してから、ミイの方がこう言った。
「いやね、あなたの家じゃない。でも貴方たちだって、同じようなことを思っているでしょう?」
当たり前のことのようにミイは言い、ミサキも当然、そう思っているようだった。
まともに受け答えなど、せずともいい場面だったのかもしれないが、化野は暫し言葉に迷うのだ。
「いや。俺は。俺とギンコ、は……」
ミイはそんな化野をじっと眺めて、それからミサキの髪を少し撫で。
「…私、あなた方のことを不思議に思うことがあるわ。もう七年も此処で暮らしていて、この先もずっと此処で生きていく筈なのに、なんだかそんなふうに見えない。渡守として外を行き来しているギンコさんと、そのパートナーだから、なのかしらね。それとも、もしかして」
此処を、出て行こうとしているの?
だから私に、此処での医者の仕事を、
教えようとしているんじゃない?
彼女はそう言い掛けていた。けれどもミサキの耳を気にした。この土地を出る方法があるとしても、その可能性を今は聞きたくはなかったし、ミサキにも聞かせたくない。共に此処で老いて死ぬのだと、満ち足りて思っていたかった。
「何でもないわ、今の話は忘れてちょうだいね」
イサはひとり、蔵の奥に座っていた。
天井の灯りを灯して、その真下に座り、卓の上に二つの書物を並べ置いている。そのふたつは、どちらがどちらか分からなくなるほどに似通っていた。強いて言えば、先に渡されたものの方が、少し色褪せ、少し傷んでいるが。
ひとつの厚く綴られた書を、
二つにばらして綴りなおした。
そう、じい様は言っていた。何故そんなことをしたのか、問い掛けたが返事はなかった。誰がしたのかと、問う間は与えられなかった。だけれど、想像することは出来る。じい様の、あの口ぶり。
「…じい様が、したのか? じゃあ、ここに綴られていることは、じい様以外、今は誰も知らないってことなのか?」
どうして、じい様。
なんでそんなことを。
息を吸い、そして静かに吐き切って、イサは頁を開いた。黴のような匂いが微かに漂い、書物は秘められていたことを、イサに示したのだ。
谷底を峰を島を、統べる、
ヌシたる蟲の、死期について。
どくん、とイサの心臓が跳ねた。その先を読むのが怖い。けれども文字は途切れずに続いていて、彼の目はその文字を追っている。
ヒトより見ゆれば、
長い長い、かの蟲の晩年。
けれど、蟲もヒトと同じ。
年更れば力弱り、乱れゆく。
また、かの蟲は、
死への道を辿りながら、
子を成し、己と子に分かるる故に、
成される子は総じて脆く、乱れやすく、
長き時を渡るものは、稀なり。
先の頁を捲れば恐らく、事例なども詳しく書き留めてあるのだろう。だけれど、その先を読む余裕は、今のイサにはなかった。ただ、読まずとも分ることもある。寧ろ今まで、何故気に留めなかったかと思うことは多い。
「……だからか。だから。あの島から出られたものもいた。そのうえで、戻ったものも。それに」
タツミは長年、島の外で暮らしながら蝶を持っていたし、島の住人でもないのに、イサも住人と同じように蝶を与えられた。島の人々を二つに分けたあの日など、じい様まで島に足を踏み入れたのだ。
思い出してみれば、それら全部が全部、ヌシの「決まり事」から外れ、乱れている。
ヌシはそこまで力弱くなり、力弱い故に、成すことの法則性は乱れ、乱れるごとにまた力を失い、加速的に老いていくのだろう。それはあまりに、イサの良く知る他の生き物と似ていて、知ってしまったイサに、酷い不安感を与えた。
老いて死に逝くヌシから分かたれた子、タツミの土地の新しいヌシさえが…。
「…そんなに、脆くて、不確定なものだったなんて」
イサの脳裏に、ふ、とじい様の顔が浮かんだ。つい少し前に見た顔だ。庭の柏の木から降り注ぐ木漏れ日で、まだらに影になった顔。どこかいつもと違うように、見えはしなかったか。
「じい、様…」
別種の不安感がイサの中で膨れ上がる。今度はナキ島やタツミの土地のことではない。どうしてじい様は、今これを自分に渡した? あの時、トサトと呼んだのは、此処を引き継ぐものとして、という意味があったのではないのか。
イサは本を二冊とも抱え、蔵の出口へと急いだ。そして、戸を勢いよく開けようとして、開かないことに気付く。正確に言えば、開かないのではなく、ほんの隙間だけ開いて、それ以上開かない。
「え、なんで?! なんで開かな…」
言い掛けた言葉が止まって、イサは渾身の力を込め、戸を強く押した。
「じい様っ? おいっ」
隙間に見えたのは、確かにじい様の着ていた服の色だったのだ。
「じい様…ッッ」
イサはすぐに救急車を呼んだ。そのあとなんとか蔵から出て、じい様の体をそっと抱き起す。脈も呼吸もしている、心音も聞こえる。でも体がどんどん冷えていて、何度呼んでも目を覚まさない。
救急車の音が近付いてきた頃、イサはやっと少し冷静になって、蔵の戸の内側に放り出してしまった二冊の本を、自分の服に包んで目立たない場所へと押し込んだ。
じい様と一緒に救急車に乗った後、懇意にしている医者の名と、その医者のいる病院とを、救急隊員に告げた。
「頼むよ、じい様。急に逝かれたら、ほんとに困るから。話し合おうって言ったの、じい様だからな」
縁起でもないことを言っていると思う。でも意識の戻らないじい様の顔を見て、イサは確信してしまった。近々こうなると分かっていて、じい様はあの本をイサに渡したのだ、トサト、と、自分の跡を継ぐべきものの名を呼んで。
でも急すぎる。まだ本は読み始めたばかりだし、話したいことは沢山出てくるのに、これじゃあ話すら出来ない。それに、じい様が居なくなるなんて、嫌だ。
「……ギ…ン…」
酸素吸入器を口元にあてられた姿で、じい様は一度きりギンコの名を呟いた。だけれどその時、その声に気付いたものは居ないのだった。
続
清々しい程にギンコ不在っっ。まぁ仕方ないよね、今、あっちこっちで物語が動いているから、これで別行動してるギンコのことまでかいたら、なんか全部半端になる気がして。
あと、じい様大丈夫なんですかね。いや、きっと今のところは大丈夫。イサじゃないけど今逝かれたら困りますっ。では、また次回っ。
2021.06.06
