鼓 動 15
目を開けると、ぼんやり誰かの顔が見えた。化野? いいや違う。女だ。白と黒の混じった髪、皴のある顔。年老いた女が、目を閉じている。見覚えが無い。女は目を開けて、にっこりと笑って言ったのだ。
ほうら、チョウチョ。きれいねぇ
「ギンコ、おい、ギンコ…っ。どうしたんだ?」
揺すられて、揺すられてギンコを目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。首を倒し窓を見ると、光の感じから、まだ午後の早い時間か。
「…あぁ、化野」
「具合でも悪いのか? お前眠りは浅い方なのに、呼んでも揺すっても起きないから、一瞬まさかと思ったぞ」
「まさか、って?」
問い返すギンコの声は少し笑っていた。まさか、死んだかと? もうずっと不死の自分には、酷く遠い言葉。
「眠かっただけだ。たまには眠りの深いこともあるさ。ミイたちは?」
「外へ行ったよ。ほら、聞こえるだろ、みんなの歌う声」
言われるまで耳に入っていなかった声や音が、ふうっと勢いよくギンコの中に入ってくる。それと同時に、何かが自分の中から薄れていくような気がした。なんだ、今のは、とギンコは思う。何が薄れた? 心の中にさっきまであったものはなんだ?
もしかしたら、何か、夢を見ていたんだろうか。欠片も覚えていない、夢の情景が、ギンコは変に気になった。
「誰かが…」
「え?」
「いや、なんでもない。それより、ミイは医学に関して、そんなに学識深いのか?」
「あぁ、うん。大したものだ。彼女はミサキについて国外にいる間、そこで必要とされるためにずっと勉強していたんだそうだ。俺と違って、現代薬学とか医療機械などの知識はあまり無いようなんだが、それはここでは要らない。つまりは、このタツミの里にとってミイは理想的…な…」
化野の声が、緩やかに止まった。そうして彼は不安そうにギンコの顔を見る。
「ギンコ、俺は、別に」
「何も言っちゃいないぜ…? ミイに教えたいなら、教えられるだけのことを教えればいい。里に医者が二人居たって、困ることなんか何もないだろ?」
「そ、そう、だな」
ギンコはソファから立ち上がり、テーブルの上のペン立ての中から、ペンを取った。そして何かの書き損じの紙の裏を返して、いくつかの言葉を綴る。
そろばん 二つ
読み書き用 本が数冊
あとは日頃の生活の中で、減ってきていると聞いていた諸々を、思い出しながら書き足して。
「二、三日後に、ちょっと出てくる」
「? 渡守か? この前行ったばかりじゃないか」
「そうだが、いろいろ調達したいものがあるしな。早めに戻れるようにするよ」
「そうか。じゃあ何かないか、皆に声をかけてまとめておく。いつも言うが、気を付けて、無事に戻れ」
随分と深い目を、化野がしている気がする。気付かぬふりをして、今日じゃないって、と、ギンコは笑った。
急ぎの書面に、目を通している時だった。
渡里
久しぶりに聞いた名前。一瞬自分のこととは思わなかったぐらいに、懐かしい響きだ。トサト。それはイサの本当の名前なのだ。
「じい様。なに急に」
読んでいた紙の束から顔を上げ、戸口を振り向いて返事をしたが、そちらにじい様の姿は無い、正面に顔を戻すと、緩く歪む硝子窓の向こうに、その顔があった。そして、その顔は、ふっ、と下へと消えたのだ。
「え、じっ、じい様…ッ?!」
紙束を放り出し、イサは庭へと回った。その部屋から庭へ回るには、随分と遠回りしなくちゃならない。だから走りながら彼は声を上げた。
「誰かっ、今誰か外に居るっ? じい様がッ」
けれど誰からも返事はない。此処に出入りする人間は元々少ないし、誰も彼も今は居ない。自分と、じい様しか。
「じい様…ッ」
ようやっと庭へと回り込んで呼ぶと、じい様はなんでもない顔をしてそこに居たのだ。
「なんじゃ、鳩が豆鉄砲のような顔しおって。ぽっくり行ったとでも思ったかい。庭石から飛び下りただけで、あんな大声。逆に心臓に悪いわ」
言われて気付いた。そう言えば此処の窓の位置は高いから、背の低いじい様は普通に立っていたら、中から顔が見えないのだ。
考えてみたら、何も驚くことなどなくて、イサは自分の慌てように恥ずかしくなる。倒れたのかとか、縁起でもないことを思って、あんなに騒いで。誰も居なくてよかったとすら思う。けれど。違和感が残った。
トサト、と、その呼び方でなぜ呼んだ?
急に顔が見えなくなったぐらいで、
どうして俺は、こんな不吉なことを思った?
「あのさ」
「んん? なんだ、イサ」
今度はイサと、じい様は呼ぶ。
「さっき、何でトサトって呼んだの? それに」
ちょっと、こっち向いてよ。そう言おうとしたその時、じい様はイサの胸に、どん、と何かを押し付けた。分厚い、古い本だった。しかも見覚えがある。これは、まさに、あの。
「えっ、じい様これって…?」
「…あぁ、ひとつの厚く綴られた書を、二つにばらして綴りなおした。これはその、片方だ。読め、イサ。読んで思ったことを、少し話し合おう」
「ちょっと! どういうこと? 一冊を二冊にって。そんなの、隠さなきゃならないことでもあったみたいな。え…。本当にそう、なのか?」
問われながら、じい様は数歩後ろに下がった。葉の生い茂る柏の木の下。濃い陰になった場所まで下がって、イサに渡した書物を指さす。
「ゆっくり読め、イサ。…急いでな」
「…じい様、それ、矛盾してるよ」
「あぁ、そうさな。だが、そうして欲しいでな。あと、その書物は人に見せるな、蔵の奥ででも読め、トサト」
また、トサトと。その呼び方は、今は不安になる。酷く不安で、何かが零れてしまいそうに不安で、イサはじい様の顔をじっと見た。
「わ、分った。分ったから。じい様。じい様は誰かと居て。誰かすぐに呼び戻すから、な? じい様」
「心配性じゃのぉ。大丈夫だ。…タツミの里の、鉢と居る」
「……うん」
誰かを呼び戻すのは無理だ。すぐにイサも気付いた。一人は北に、一人は南にと、今どちらも遠く離れていて、しかも急ぎの仕事をしている。
タツミの鉢というのは、七年前にタツミの土地で芽吹いた、幾種かの植物を寄せ植えた鉢のことだ。ひとつひとつに生命力が強く、傍らに置くだけで体、気と共に力を与えられる不思議な鉢。
「じゃあ、急いで読むよ。ゆっくりじゃなく、じっくり、急いで。だからじい様」
「わかったわかった、読め、早く」
じい様はひらひらと手を振って、犬でも追い立てるような仕草をするのだ。イサは言われた通りに、渡された書物を持って蔵へ行く。タツミの里の鉢を信じてそうしたのだ。
庭に残されたじい様は、いつもいる奥の部屋へと一人で戻った。少し日陰に居ただけで、ひいやりと体が冷たくなって、芯から震えがくるようで、少し怖かった。でも、だからこそじい様は、今、イサにあの書物を渡したのだ。ずっと、隠しておいたものを。
「生きているものはいつか死ぬ。のぅ、トサト。まだ若いお前だって死ぬ。どれほど長命の蟲も、いつかは死ぬんだ。生まれたばかりの命が、途切れてしまうことだって、当たり前のようにあるのだから」
後ろ手に戸を閉めて、じい様はいつも自分が座っている場所を見た。気に入りの座椅子と、低い机。机の上には鉢が二つ。一つはもう、土すら入っていない。かつてはナキ島の植物が植えられていた。
もう一つは今も、幾つもの植物が寄せ植えられている。それらの植物はすべて、ちいさな花芽をつけていた。
続
ずっと物語がうまく動かなくて、うわっと動いた、と思ったら微妙に脱線。今度こそ思っていた方向に、ぐわわっと動いたのに、動いたら動いたで、大丈夫かな、これ、と不安になるのでありました。
ははは、へたれな私めっ。いやいやいや、笑い事ではありませんよ?
今回久々にじい様出ましたが、原作のワタリのじい様と違って、このじい様はちいちゃいのです。可愛いじじいをイメージしてね。では、また次回っ。
2021.05.23
