鼓  動    14




 分からない。分らないの私。
 はじめからずっと。
 「  」なのに。
 私が「  」なのに。

 蕾の頬を涙が伝った。彼女はずっと、人に言えない想いを抱えてきた。母親にも父親にも言えない。姉たちにも言えない。ただひとり、白也にだけは「気付かれた」。白也は蕾の頭を撫でて、それでいいんだと言った。

 タダビトでいいんだ、と。その時の蕾にはけれど、タダビトの意味が分からなかった。

「よくないよ、きっと、だめ…」

 誰にも見せられないで来た、零れた涙を、その時、誰かが静かに拭った。

 誰?

 と、蕾は思う? 

 あだしの、せんせい?

 まだらに揺れる光が眩しくて、蕾は目を覚ました。瞼を開けると、顔の両側には細い草が微かに揺れて、頭上のずっと高いところでは、白樺の葉がちらちらと、細かに光を零していた。

「あ、れ…? 私…?」

 呟いた蕾の耳に、木漏れ日よりも静かな声が届く。

「起きたのか? 蕾」

 誰の声か分かって、誰だったよりもきっとぎくりとして、慌てて身を起こすと、少し離れた別の木陰で、ギンコが彼女の方を向かずに座っていた。

「ギ、ギン…」
「蕾は、俺のことが怖いかい?」

 何でもないことのように問われて、だから蕾は何も取り繕えなかった。返事が出来ない。怖い。怖くない。どちらでもあった。どちらか一方だと、嘘つきになる気がして、言えない。ギンコは暫く蕾の返事を待った後、別のことを聞いた。

「…じゃあ、俺が、嫌いか?」

 そうしたら、蕾はすぐに首を横に振った。嫌いじゃない、嫌いじゃないの。と、強く閉じた瞼に刻まれて、膝の上で握った手が、隠せずにいて。

「好き」

 聞いたギンコは、ふ、と笑って、微かに蕾の方を向いた。白い髪が光に透けて、白い蝶の翅のようだと、蕾は思う。

「そりゃ、化野が聞いたら動転しそうだなぁ。女の子が、簡単に言っちゃ駄目だ。じゃあ、俺以外に好きな人は? 沢山いるだろ?」
「…お母さんとお父さん、お姉ちゃんたちと、それから、白也。でも里のみんな、みんなが好き」

 蕾は草の上に、すんなりと伸びた足を投げ出している。草がさらさらとその足に触れて、清らかな匂いがした、この里の草木はみんな、いい匂いがする。

「でも、ギンコさんのことは、時々」

 怖いの、と蕾が音を消して言う。聞かれたくないことのように。理由のわからないその怯えが、彼女自身怖いのだ。ギンコはそれへは答えずに、唐突に詫びを言った。

「蕾。この間、それとさっきも、悪かった」
「え…?」
「ヌシ様の声を聞いた、と、俺は言ったろう? さっき『また具合が』と言った言葉も、同じことを含んでいた。負担だったと思う。でもあれは、そういう意味じゃなかった」

 ギンコの言うのが分かっていないのだろう。蕾は黙って聞いていた。そして、聞き終えても躊躇う顔でいる。ギンコは立ち上がり、髪に触れた枝を手で押し上げて除けながら、もう少し分るように言葉を重ねた。

「ヌシ様は蟲だ。蟲は人の言葉を解さない、ヒトの言葉で話したりもしない。神官にだって、言葉で語り掛けたりはしないから、蕾は、勿論ナキ島に居た時の白也も、ヌシの言葉なんか聞けないんだ。ただ…花、とか、蝶とか。そういうものを里人に見せる。そして神官にはきっと、心に立つ細波とか、なんとなくの怖さとか、そういうものを伝えるんだ、と、俺は思う」

 だから、俺を怖いと思う蕾は、
 ちゃんと『神官』だよ。
 
 秘めるべき言葉を告げるように、最後は酷く小さな声だった。ざあっ、と強い風が吹いて、蕾の心は波立つ。じゃあ、これがヌシ様の声なの、と、そう思いながら、蕾はそれでも言ったのだ。

「でも『蕾』は。ギンコさん、優しいから、好き」
「優しか、ないがね。……ありがとうよ。だけど、女の子がそんなこと、簡単に言っちゃ駄目だろ?」

 ギンコはもう一度そう言って、それでも蕾に手を差し伸べた。また立ち上がると蕾はふら付いていたから、彼に手を握って貰って、家までゆっくり、送ってもらった。


 神官は神官だから、
 ヌシの声を、聞く。
 でも、
 神官はタダビトだから、
 何も出来なくてもいいんだ。

 


 蕾を家まで送り届けて、ギンコが館へ戻ると、すっかり朝食を食べ終わり、一人分を残して片付けまで終えた化野とミイとミサキが、何やら真剣に話し合っていた。

 ギンコが自分の分の朝食を食べ終えるまで待ちきれず、二人はそれぞれギンコにも意見を聞きたがる。

「ね、私たちの次に来たばかりなのって、あなた方なんですって? 今聞いてたの。どういう歌ならいいのかしらって」
「…歌?」
「そう、ミイはみんなにせがまれるんだ。もっといろんな歌を教えてって。歌うのはいいことだけど、ほら、生まれてから一度も『外』を知らない人も多いよね? 歌詞の中の言葉で、何それって思われたら困るじゃないか」

 ギンコは口の中の焼き魚を咀嚼し飲み込んでから、何でもないことのように答えた。

「みんな、それほど気にしないだろ。『外』でも、日本語の歌の中に一部外国語が混じってて、意味は分からないけどそのまま歌う。そんなふうに」

 ミイたちはぽかんとして、それからもう一度確かめる。

「あ、そう、なの? じゃあたとえば、テレビとか、飛行機とか、メールとか、あと、ケーキとか、チョコレートとか、歌詞に入っててもいいのね?」
「多分な」
「多分じゃ困るってばっ」
 
 ミイは困ったように額に手を置いている。

「やっぱり、当面は童謡だけにするわ。新しめの曲って、なんだか教える気にならないしね」

 ギンコが味噌汁を啜り、卵焼きを口に入れた途端に、またミサキが話しかけてくる。手には算盤。聞けばこの館に一つだけあったのだそうだ。

「読み書きと、簡単な計算を覚えて貰おうと思って。算盤が少なくとも、あと一つ欲しい。できたら二つ」
「……分った。次に『外』へ出る時、算盤を二つ、それから、簡単な本を何冊か調達してくる。読み、と、書き。両方に使うとして、どういうものがいいか、考えてみてくれ」

 食事を終えて、洗い場へと食器を下げる時、まだ相談事のあるミサキがギンコを追い掛けてきた。彼女が何か聞いてくる前に、ギンコが彼女にこう問い掛ける。

「里人にいろいろ教えてくれ、ってイサが言ったのかい?」

 ミサキは首を傾げて、違うよ、と言ったのだが、否定した後、ふと何かを思い出した顔になった。

「あ、でも、最初会った時。教師に医者、なんて取り合わせ、滅多にないよね、って言ってたかも。同性で付き合ってて、そんなのって話かと思って、私怒っちゃったけど、今思うと、そういうことじゃなかったのかな」
 
 ミサキはギンコが食器を洗おうとするのを、横から取り上げて洗い始める。

「でもさ、言われてなくたって、ここで自分の出来ることを、って思ったら、そうするよ。ずっとこの里に居るんだって、読み書きと、簡単なものの数のことぐらい、分かってた方が役に立つもん」

 余計? と目で問うてくるミサキに、ギンコは首を横に振って見せた。部屋に戻る途中、一瞬だが眩暈がした。よく眠っているし、ちゃんと食べているから、これはきっと、精神からくる何かだろう。ついさっき、辛そうにしていた蕾のように。

 ギンコはイサの顔を思い出す。あの時、聞くべきだったのかもしれない。教師と医者の二人が、里人に加わった理由。そもそも理由が、あるのかないのか。

 部屋に戻ると、化野とミイが一緒に薬学の本を見ていた。里の周りで取れる薬草の一覧と、その場所の覚書も、テーブルの上に広げられている。ギンコの視線に気付くと、何故か化野は少したじろいで。

「あ、彼女、かなり知識があるんだ。それでちょっと」
「…定期的に、外で調達してる薬草の種類も、話した方がいいかもな。ついでだから」
「おぉ、確かにそうだ。それはこっちのノートにまとめてある。見たいときに好きに見ていい」

 二人の横を通って、ギンコは黙ってソファに身を委ねる。まだ朝なのに、もう瞼が重くて、異様に眠くて、抗えず彼は、眠りに落ちていった。





 





 


 ヌシ様っていったい、どういう存在なんだろう。今までとは違う方向に考えてみて、当たり前だけど、やっぱりヒトじゃないんだよな。蟲なんだ、しかも昆虫或いは花寄りなんだよなって思って。改めて、信仰ってある意味異様だよな、なんてことも思っていました。

 あと、新入りがどう考えるか、って思った時に、これもまた改めて、外の世界を知らない人々、とは、などとも思う。ミイとミサキ、そしてかつての化野も、凄い順応性じゃないかっ、私ならちょっとどころじゃなく戸惑う。スマホ見当たらないから、スマホで電話して音で探そう、なんて思う私には無理だ。

 便利さって、人を侵すねぇ。ではでは、淡々とした回でしたが、また次回っ。



2021.05.15