鼓 動 13
外から歌声が聞こえてくる。化野は窓を大きく開けて、その声に耳を澄ませた。
「なんだかみんなで歌ってるみたいだなぁ」
家を建てる作業をしながら、その近くで洗濯物など干しながら、野菜を洗いながら、農工具を手入れしながら、同じ歌を一緒に歌っている。
一番よく通る声はミイの声だった。綺麗な声で、とても上手だ。昨日の宴の時にみんなの前で彼女が歌って、それを聞いたみんなが、その歌を自分も歌いたい教えて欲しいと騒いで。それで今日はもう、本当にそうして歌っている。
「楽しそうだ。あれっ?」
急に化野が疑問符の付いた声をあげて、本を読んでいたギンコも顔を上げた。
「どうした? ミサキさん、みんなと一緒じゃあ?」
「ミサキでいいよ。お礼、言いに来た」
「お礼? なんの?」
ミサキは部屋に入ってきて、ギンコの居る傍まで近付いてくる。そして、低いテーブルにのっている沢山の本の中から、手の届くものを一冊とって、ぱらぱらと捲る。薬学の本だ。漢方生薬の。
「昨日のこと、気を遣ってくれたんだよね。男の人が、みんな私たちから離れて座ってた。化野さんが言ったの? それともギンコさんが?」
「あぁ、話したのは俺だ。みんな少し不思議そうにしてたが、宴の席での、その、あのことで、わかった、って顔してたな。いや、あれはびっくりした」
みんなの見ている前で、突然二人はキスをした。ミサキがミイを傍に寄らせて、そのまま、自然に。
「あは、ごめんね。だってさ、化野さんが私たちのこと考えてくれて、みんなも、あれこれ気を遣ってくれてさ。此処で私たち、本当のことをいつまで隠すのかって思ったら、えいっ、今、見せちゃえって。…それに」
ミサキは手にしていた本を置いて、その傍にあった別の本をまた手に取る。今度は外科手術に関する本だった。
「ミイが…」
「…ミイさん、が…?」
化野が問い掛ける声、その中に、僅かに混じった、微妙な響き。それに気付きながら、ミサキは言葉の続きを言った。
「ミイがまた、もしもの時はって、怖いことを、ひとりで決めちゃいそうな気がして、イヤだったの。教えてくれない? ミイ、前の晩、二人に何か、話した?」
「何も」
即座に答えた化野の様子を見て、ミサキは困ったような顔をした。その目の中に、怒りに似た感情が揺れている。
「嘘が下手」
「い、いや、本当に何も」
「嘘だ。ミイが何か考えてるのぐらいわかるし、何も聞いてないんだったら、宴の時のこと、気遣ったりしないよね。ミイ、言わなかった? もしもこの里の誰かの子供を産めっていうんだったら、私が、って。…前にもあったの、デルハルガルで。ミイ、自分の分と、私の分で、二人、産もうとしてた」
いつの間にか、外の歌声が途切れていた。ミイが此処に戻ることを思ってか、ミサキは話の先を急いたのだ。急いて、はっきりとそう聞いた。ギンコはちらりとミサキを見、化野は、ふぅっ、と浅い息をひとつ吐いてから、彼女の言葉を否定した。
「聞いていない。本当だ」
「…じゃあどうして、昨日あんな」
「あれは…っ」
「化野」
静かな静止の声。ギンコは開いていた本をぱたりと閉じて、立ち上がり、扉へと近付く。そして閉じていたそれをゆっくりと引き開けた。ミイがそこに立っていた。
「ミ、ミイ」
「言ってないわよ、そんなこと。ミサキ、心配し過ぎよ? それに、こんなに良くしてくれるこの里の人たち相手に、まだ心配してるんだったら、それはとっても失礼じゃない?」
「だって…」
「ミサキ」
たしなめる声に、ミサキは怯んだ。だけれど一度は噛んだ唇で、彼女は迸るように、言ったのだ。
「だって、ミイは私を守るためだったら、なんでもするじゃないっ。誰とでも寝るし、誰の子でも産もうとするじゃないっ。、今までだって何度も…っ。もう、嫌なの…ッ」
ミサキは手にしていた本を、激しい感情のままに投げうった。どさり、と本は床に落ち、厚い表紙が少し裂ける。まるで小さな子供の癇癪のようだったけれど、恐らくは、ずっと抑えてきた感情。
「…ミサキ、いい子だから、もう、黙って」
ミイはミサキに手を差し伸べて、ミサキはその腕の中に抱き取られた。けれど、狂気さえ孕むようなその声は、まだ燻るように、鈍く、赤く。
「ミイにそんなことする男が、もしも此処にも居たら、私、何するか、分からないから。たとえミイが許したんだって、私…、私は」
大切な相手に抱かれながら、ミサキは呪詛を呟く。ミイは彼女を抱いたまま、淡々と言った。
「私も、同じよ」
ギンコは部屋の真ん中へ戻り、床に転がったままの本を拾う。そうして、破れたところを指先でなぞっていた。化野は立っていた窓辺から離れる時、自分がいつの間にか、窓をぴったりと閉じていたことに気付いた。
彼は台所へ行き、少し前に沸かしていて、まだ熱いだろう湯で、ことさらにゆっくりと、紅茶を用意する。バラバラの湯飲みやカップにそれを注ぎ、貴重な砂糖を一杯ずつ入れた。
「飲んで。多少、温いかもしれないが」
二人を椅子に座らせて、そうしてカップを持たせ、化野は自分も、そしてギンコにも紅茶を渡す。
「とっておきだ。あたたかくて少し甘い飲み物は、こういう時のためにある。…なぁ、ミイ、ミサキも。大切な相手の為に、他の誰かはどうでもいい、とか、不幸になっても構わない、なんて、誰にでもある、普通の感情なんじゃないかと、俺は思うよ。いや、想像で言ってるんじゃない、俺も」
そこで一度、化野は言葉を切った。彼はギンコの方を見なかったが、魂のすべては彼の方へと向いていた。
「いつも、思ってる」
化野がそう言った時、ミサキは何処か慄いたような顔をした。自分の中の荒々しい感情を、諫めて欲しいものがする顔だと、化野は思った。そしてミイは同じ一瞬に、幼女のようなあどけない顔をしていた。
「今日はもうお部屋に居ていいかしら。ずっと歌ってて、疲れたの。ミサキも休ませるわ」
二人は、化野の入れてくれた紅茶のカップを持ったまま、廊下へ出て行った。扉を閉めるために立った化野の耳に、母親のように優しいミイの言葉が聞こえる。
「子供達とかやりたいって人たちに『お勉強』を教える約束をしてたわよね。一緒に方法を考えましょ。ね? ミサキ。…本当に大丈夫よ。此処には優しい男しか居ないわ、ケダモノなんていないの」
何も聞かなかったように、化野は扉を閉め、振り返った時、ギンコは笑っていた。化野は足を止めたまま、暫しぼんやりとその顔を眺めてしまった。
「あの、駅でのことを思い出したよ、化野」
ギンコは言う。たったそれだけの言葉で、化野には何処のことなのかが分かる。彼自身、まさにそのことを思い出していたからだ。
イサと初めてあったあの時、ギンコが情報を得る為、便宜を図ってもらうために、体を与えていると知った。思い出す、胸の内側をチリチリと、小さな炎で炙られるような不快感。誰かを憎いと思う心。愛するものを、自分だけのものにしたいという、臓腑の捩じ切れるような願望。
だけれど、思い出したその不快な感情を、内側から容易く割くように、喜びが広がっていく。
「お前がそんなふうに笑うのを、久しぶりに見た気がする…」
「俺もお前のそんな目、久しぶりだ」
ギンコはなおも笑うのだ。化野は彼に近付き、その頬に手を触れた。触れてきたその手の甲を、ギンコの手のひらが覆い、撫で。人差し指の腹を、唇で軽く吸われて、化野は眩む。
「お前が、笑うんだったら、焦りも苛立ちも、自分への嫌悪すらも、悪いことばかりじゃないな」
ミサキとミイが来てから十日ほど経った頃、川魚がいつもよりもずっと沢山獲れた。その前の数日間は雨だったから、そのせいだろうとギンコには分かるのだが、里の皆は口々にこう言うのだ。
「きっとミサキとミイが来た祝いだ。ヌシ様の振る舞いなんだよ、ありがたいなぁ」
皆で感謝して食べ、次の日の早朝、蕾はヌシ様に「お礼を申し上げ」に行った。その帰り、道の途中で蕾は具合が悪くなったのだ。酷く眩暈がして、足がうまく動かない。道には誰も居ない。
座り込んで、泣きたくなっていた時、ギンコが彼女の前に立っていた。
「蕾、どうした? また具合が悪くなったのか…?」
その言葉を聞いたとき、彼女は怖いことを聞いたように、耳を塞いで蹲ったのである。
続
後から入ってくる人間も、みんな訳あり。ナキ島もタツミの里も、それは同じ。当人たちに理由はあれど、ではその人たちが悪いのかと言うと、そういうわけでもなかったり、あったり。なのですよね。
あれ…この話辺りから本筋に戻るはずが、ほんのちょっとしか。おかしいな。じ、次回も頑張ります。
2021.05.04
