鼓 動 11
寝室には行かなかった。
座っていた長椅子の上で服を脱いだ。若いままのギンコの体に、窓の外から月灯りが注ぐ。そういえば、初めての時もこんなだった、と化野は思った。彼の脇腹の傷跡は、ほとんど消えていたが少し残っている。
「俺のためだけの、痕だ」
他のどの化野の為でもない。ギンコが俺のために、通り魔の刃の前に飛び出した。あの時ギンコは、水溜りになるほどの血を流した。恐ろしい記憶なのに、嬉しいと思ってしまう。
化野は身を屈めて、その傷の上に歯を滑らせた。優しく噛むような愛撫だった。ギンコは彼に身を差し出しながら、両手のひらで自身の口を覆って、泣くような声を必死で押し殺した。それでも細い嗚咽が漏れた。
「…ん…っ、ふ、ぅ…ッ」
歯を当てられ、噛まれ、舌でゆっくりとなぞられる。足指をぎゅっと縮込めながら、布張りの椅子に爪立てながら、ギンコのそれが震えて立ち上がっていた。化野は其処には触れず、しつこいぐらいに傷跡ばかりを愛撫した。
「んん…ッ、ん…」
「声が漏れてるぞ、ギンコ」
化野はギンコ脚を開かせて、それでも其処にはまだ触れない。少し痩せている尻肉の間に、つ、と指を伝わせて、びくりとギンコが跳ねるのを味わった。
「…だしの…っ。あ…。い、じが、悪い…な。今日のお前は」
「そうかい?」
「折檻、されてる気が、してくるよ。うぅ…、ん…ッ」
化野の指が尻穴に触れている。かすめては遠ざかり、また近付いて触れる。数か月もの間、されていなかったギンコの体は、もう止めようもなく火照って、化野を欲しているのだ。
「…だ、しの…。あだし…っ…」
その後も少しだけ焦らされて、前を弄られながら身を繋げる時には、ギンコは自分の脱いだ服を必死で噛んでいた。それでもくぐもった声を上げ、貫かれた途端に放って、その迸りが何処を汚すかも、意識が追いついていなかった。
「…悪ぃ、声。…聞かれた、かもな」
「仕方ない。まぁ、向こうからあんなことを言っていたぐらいだ。構わんさ。…にしても、久々だったな、こんなふうに」
無我夢中で、溺れるのは。
「昔は…毎回、だったよ。何しろ、会えて年に数度だったし、長くて三晩しか、傍に居なかったから。だから…。つれないといつも責められて、そのたびやたらと時間をかけられてな。本当に…折檻みたいだと思ってた」
「うわ。そりゃ最初の俺のことか? 随分不憫だなあ」
「どっちが?」
「勿論『俺』が、だよ」
年に数度、三晩しか傍に居ない恋人。そりゃあ、折檻めいたことぐらいするだろう。事情があるからだ、仕方がないと思っていても、たまらなくなる気持ちが分る。
「昔の『俺』は、嫌がってもやめてくれなかったのかい?」
戯れにそんなことを問えば、ギンコは長椅子の上で体を返して、化野の顔を見つめた。
「…ふ…。嫌だと思ったことがなくてね」
「馬鹿、煽るな。さっきの比じゃないぐらい、したくなっちまうだろうが」
焦って化野が身を起こす。水でも飲んで来ようか、と、そう思ったのだ。でもその途端、開いた扉の隙間の向こうと此方で、誰かと目が合ってしまった。
流石に凍り付いた。どうやら、見られてしまったらしかった。
「あ…」
「ええと。ごめんなさい? 何でもいいから、明日の着替えを二人分貸して欲しくて。…タイミングが悪かったみたいね」
開けた扉に手を添えたまま、今更のように、顔を横へと逸らしているのはミイだった。化野は全裸で、長椅子に居るギンコも一糸纏わない姿。例え声が聞こえていなくとも、何をしていたかなぞ一目瞭然だったろう。焦ってしまい、長椅子の後ろに周って、化野は其処で半端に身を屈めている。
「し、失礼っ。ギンコっ、ギンコっ」
「騒ぐなよ。分かってる」
ギンコはと言えば、脱ぎ散らかされた服の一枚を、緩い動作で拾って、怠惰に体の一部を隠しただけだ。
「服はあんたらの部屋の箪笥に入れてある。男物だし、選ぶほどはないだろうが、好きに使ってくれていい」
「あ、あー、そうだった。さっき入れたんだった。つっ、伝え忘れてたなっ」
「そんなに焦らなくていいし、隠れなくていいわ。こっちはビアンなんだもの。女にしか興味はないし、もうあの子しか欲しくない」
ミイは何故か、そのまま部屋に入ってきた。そして食事の時についていた椅子に、彼女は勝手に腰を下ろす。
「本当は用があってきたの。少しだけ話相手になってくれないかしら。ミサキは寝てるわ。だから今しか話せないことかもしれない。間が悪いのは分ってるけど。でも、お願いよ」
テーブルの上で組んだ彼女の指は、細かく震えていた。化野はギンコから服を受け取り、長椅子の陰で身に着ける。ギンコは別に隠れようとはしなかったが、それでも化野に習って服を着た。
「お茶でも入れようか?」
化野はそんなふうに気を遣ったが、ミイは首を横に振った。
「茶葉だってお湯だって貴重でしょ? 湯沸かしポットがあるわけじゃないんですものね。何世紀も時代が戻ったみたいな、本当に不便な土地。だけど私、そんなことはどうでもいいの」
窓から射す月灯りだけの、暗い部屋。それでもミイの顔が真っ青なのは、色がわからなくともわかった。彼女の指と同じに震える言葉。怯えた声。
「ねぇ? あなたたちは怖くはないの? 同性の恋人がいるのに、この里からはもう出られない。そのことを、恐ろしいと思わないの?」
「…異性と結婚を強いられるとか、そういうことをもし言っているのなら、心配いらないよ。子供を作って里人を増やそうなんて話、今までしたことはないんだ。ヌシ様はそれを望んでいないそうだからね」
「その話も聞いたわよ。でも」
静かな声のままで、ミイの言葉はまるで悲鳴のようだった。
「でもそれは今までの話、今の話でしょう? 明日にでもヌシ様がそれを望んだら? ミサキは私に興味を失くして、私もあの子を好きでもなんでもなくなって、この土地のひとり身の男を、好きになってしまうの…? 仮に死ぬときが一緒でも、あの子がもう私を好きじゃないなら、そんなのどうだっていい」
悪夢だわ、と彼女は言った。両手で顔を覆う彼女の、その指の間から、ぽたぽたと涙が零れていた。
「女に生まれたのが悪かったの? ミサキと違う性別で生まれて、出会って、恋が出来たらよかったのかしら。ねえ、教えて? 私はいつもミサキと一緒に居たいだけよ。日本でも、異国でも、こんなところに来てさえ、どうしてこんなに、邪魔が入るの…?」
「ミイさん」
化野は彼女の傍に来て、その体には触れないように、そっと話し掛けた。
「邪魔が入るとは限らないだろう? 俺とギンコが此処にきてから七年。その前も、此処と同じような土地に居たが、それでもずっと、俺には彼だけだ」
すすり泣いていた彼女は、それでも少し後に泣き止んで、強がるように笑った。
「…そうよね。どうせもう、逃げられないんですものね。ごめなんさい、泣いたりして。ミサキには言わないで」
水で顔を洗ってから、無理にでも気持ちを落ち着け、彼女は恋人の傍に戻っていく。ギンコと化野は二人になって、何も言わないギンコの顔を、化野は問うように覗き込む。
「考えたことが無かったよ。でも、確かにそうだ。彼女の危惧もわかる。…もしも、俺が、万が一」
「考えなくていいって言ったろ? 心配しなくていい。必要ない。なぁ、いい加減寝ようぜ。明日はきっと朝から忙しいよ」
ギンコは長椅子から立ち上がり、寝室の方へ行こうとした。化野は彼を捕まえて、今度は自分の方からキスをした。
そうだ。
俺の運命を握ってるのは、
いつだってお前だった。
ならもう、考えない。
言葉にはとても出来なかった。傷つけると分かっていた。深く触れたギンコの唇は少し冷たくて、その冷たさが何故か怖い。化野が両手で彼の首を覆うと、そこに確かな血の流れを感じて、やっと彼の体を離すことが出来た。
ただ、もう。
俺はお前を、
ずっと愛していく。
それでいいんだよな。
ギンコ。
「せんせぇーーっ、お嬢ちゃんたちは、どうしてるかねえっ」
そんな声が外から聞こえた。もう朝の食事も終えて、片づけをしていた化野が、手を拭きながら窓辺へと近寄る。ギンコが脇から手を伸べて、化野の代わりにその窓を押し上げた。
「おはようっ。今、朝飯が終わったところだよ。どうした?」
「あんなぁ、みんなでセイゴんちにいろいろ集めてるからさっ。嬢ちゃんたちに見てもらいたくてねぇ。使って貰えそうな服とかさ。手ぇすいたら見に来てもらっとくれなぁ」
「おお、分かった。すぐ行くよ!」
言ってしまってから、はたと気付き、化野は女性二人の朝の支度を気に掛ける。
「あ、風呂、とか入りたかったかい?」
「いいよ。体拭いたもの。いいよね、ミイ。ねぇ、でもさ、お嬢ちゃんって私たちのこと?」
「構わないわ。毎日シャワー浴びたいなんて、無理言わないから安心して。そうねぇ、いいんじゃない? その呼ばれ方、新鮮だわ」
実際彼女らは、この土地で暮らすスキルを十分に持っていた。何でも潤沢な外の常識を持ち込まず、ガスコンロなど無くとも、水道や電気など無くても、然程躊躇うことがないようだった。化野やギンコから借りた服を着ている彼女らは、昨日よりも華奢に見えたが、中々たくましいものだと化野は思う。
「行きましょ、ミサキ」
「うん、合う服あるかなぁ。私ちょっと大きいし」
「あなた細いから、きっと大丈夫よ」
仲良く階段を下りていく二人。化野はついていこうとしたが、ギンコは部屋に残るようだった。
「行かないのか? ギンコ」
「あぁ、なんだか少し眠いんだ」
「そうか。だったら寝ているといい」
ギンコは二階の窓から、三人の姿を見下ろした。昨日あんなに取り乱していたミイは、その姿をけしてミサキに見せようとしない。化野は彼女らのことを心配している。結局は優しいのだ。本当の意味で、里人に冷たくなどなれやしない。
「俺とは違う…」
呟いて、ギンコはひとり長椅子に腰を下ろした。じわりと疲れが滲んでくる。昨夜のせいかどうか知らない。確かに久しぶりだったし、互いに夢中だったけれど。
目を閉じた途端に、彼は眠りに落ちていった。
続
二人の新しい登場人物。こうして違う「目」が物語に現れると、お話は動き始めるのです。閉じた世界では、嘘も違和感も、小さな変化も目立たない、ってことかな。
それにしてもミイは頭がいいな、と思う。外から来たのに、その可能性に気付くとは…。
描いていないけれど、彼女の生い立ちは幼少期から本当に不幸です。だからすぐに不安の中に落ちる。最悪のことに怯える。明るくて真っすぐなミサキが、だからこそ彼女には必要なのかもしれません。
2021.04.18
