鼓  動    1




 小さな人影が、緩い坂を登っている。サンダル履いていて、杖などは無いが、少し不確かな足取りだ。

 彼女の向かう坂の上の空き地は、元は子供の遊び場だった。もう水の出ない水飲み場があり、乗る部分が取り払われ、鉄の柱だけになったブランコがある。雑草に埋もれた煉瓦の枠は、たぶん花壇だったものだろう。

 ほんの七段ほどの石の階段を、ほてほてと一段ずつ登り、途中で一度休んで。そうして、その空き地へと歩み入るのは、白髪混じりの小柄な老女だった。

「ひとりで大丈夫か、なんて大袈裟ねぇ。おばあちゃん、全然大丈夫よ」

 彼女は誰かに話し掛けているが、傍には誰も居ない。遅れてついてくるものもいない。

「ちょっと前まではひとりでいたんだもの。でも、みさちゃんも小さい頃は、いっつもここで遊んだのに、もう忘れちゃってるのね。さびしいわ。あの頃みたいに、おばあちゃん、チョウチョのお話してあげるのにね。おばあちゃんにしか見えないチョウチョ。でも、みさちゃんにも結局、いっぺんも見えなかったねぇ」

 階段を登り切ると、少し奥の方にブランコの鉄柱。今は色褪せた枠だけの。その下を老女は潜り抜ける。頭を下げるような動作は、足元を確かめつつ歩いているからか。まるで、お辞儀をしているような。

 そうして行き当たりまできて、老女は顔をあげると、ぱっ、と嬉しそうな笑顔になった。

「あぁ、ほぅら、チョウチョ。…きれいねぇ」

   
 
 
 これは夢だと、何故か化野は理解していた。それを理解しながら、彼は坂道を上へ上へと歩いている。こんなことをしている場合では無い筈なのに、何故電車を降りたのか。一体どこへと向かっているのか。何もわかることはなく、それでも淡々と歩いている。

 潮の香りがする気がした。どこか懐かしい匂いだった。やがて其処へと近付いた時、石で出来た何段かの階段の上に、何かが見えたのだ。

 それはサンダルだった。茶色の、古ぼけたサンダル。なんだろうと目を眇めて、気付いた。見えているのはサンダルだけではない。足が見える。誰かが、倒れている…!

『大丈夫ですか!?』

 階段を駆け上がり、大声でそう言った自分の声が、ぼわぼわと耳の中に広がって聞こえた。夢が覚めるのだということが分かる。目の前に、助けなければならない人がいるのに、一刻を争うかもしれないのに。

 夢でも。それでも。
 助けられる人を、助けたい。

『しっかりっ、しっかりして、くださ』

 ぶつん、と。テレビの画面が消えるように、目の前にあった夢の世界は消えてしまうのだ。

 鼓動を荒げて目を覚ますと、そこはいつもの寝室だった。古びた洋館の一室。大きなベッドに、ガラス扉のはまった洒落た棚。窓の片側に寄せられたカーテンも、褪せてはいるが豪奢であった。身を起こし、足を床におろすと、絨毯がひいやりと冷たい。

「ギンコ…?」

 いつものことなのだが、寝室にはもうギンコの姿はない。窓を少し開け、空気を入れ替えながらも隣室に出ていけば、ギンコもまたそちらの部屋で、少し開けた窓の前に立っていた。

「おはよう」
「あぁ、起きたのか。昨日も遅かったんだから、もう少し寝ていても良かったんじゃないのか?」
「お前だって遅かったじゃないか」
「根を詰めて寝ずにいるお前に、ちょっと付き合っただけだ。あんまり無理をし過ぎるなよ?」

 ギンコはそう言いながら、低いテーブルの上に、何冊も積み上げられている書物の一つを撫でた。

 置かれた順序をなるべく変えないように、開いたままのものは開いたままで、脇の方へとそれらを寄せて、空いたところへと朝食を並べる。芋の煮たのに、菜のおひたし。塩焼きの魚は小さい。そして根菜の味噌汁。今朝は和食であるらしい。

 食べた後はふたりして散歩に出る。急ぎの用が無いときの日課であった。石を並べて平らにした小道は、二人並んで歩いて丁度。そうした道が、この土地のあちらこちらまで届いている。
 
「宮さん、もう大工仕事か? 捻挫がまだ治ってないだろう。無理は駄目だぞ。あぁ、ユキ、風邪は治ったのかい? セキさん、おはよう」

 会う人会う人に挨拶をして、声をかけて、何か少しでも気になることがあれば、その場で診たり「診療所」にきてくれるように言ったり。ギンコはその隣で何も言わずに、人々の暮らしや、土地の姿を眺めている。

「これ持っててくれ、ギンコ」

 化野が突然そう言って、ペンを差した手帖をギンコに押し付けた。畑で仕事をする里人が、腰をかがめた姿勢が気になったらしかった。

「おぅいっ。それ一人で担ぐつもりかいっ。腰が痛むんじゃないのか? 手伝うからちょっと待って!」

 立派に作物の育った畝を、靴で踏み崩さないように気をつけながら、化野は懸命に進んでいく。ギンコは何も言わずに足を止め、その背を見送り、それから手渡された手帖を、手持ち無沙汰にぱらぱらと捲った。

 日誌、兼、覚書。リーフを足したり抜いたり出来る手帖だが、あまりに細かくびっしりと。節約の為だと分かるが、もともとあまり目が良くない癖に、とギンコは苦笑してしまう。

 その時、道の向こう側から歩いてくる白い着物の、小さな姿。その人影は彼に気付くと、少し歩みを遅くしたようだった。

「……散歩かい?」
「昨日鹿が迷い込んできたので、おめぐみのお礼を、ヌシ様に」
「あぁ、そういやそうだってな」

 時折山で捕れる獣は、里の皆にとって貴重な栄養源だ。だから、神官はそうした時、ヌシに感謝を伝える。それが彼女にとって、大切な務めだった。

「あ、あの。せんせいは?」
「化野ならあそこだ。呼ぶかい?」

 土の入った大きな袋を、胸の前に抱えて、化野はこちらへ向かってきているところだった。ギンコが呼ぶまでもなく、気付いて笑顔になっている。

「蕾、おはようっ」
「おはようございますっ。先生」
「今日もおつとめか。いつもありがとう。白也は?」

 化野は重たい土袋を抱え直してから、生真面目に頭を下げた。

「そろそろ一人で大丈夫だ、って」
「そうか。大したもんだなぁ。蕾ももうすっかり一人前の神官殿だ。幾つになったんだった?」
「七つ」
「早いなぁ」

 蕾と分れた後で、ギンコは化野に向けて両手を差し伸べた。土袋を持つのを替わろうという意味だが、化野は首を横に振る。今度は肩の上に袋を担ぎ持って、温室の方へと足を向けた。土地の土は高価な売り物だ。小さな袋にわけて少しずつ、渡守が外へと売りに行く。大切に保管しなければならない。

 無理せずゆっくり歩きながら、化野は少し、遠くを見る目になった。

「蕾が七歳、ってことは、七年も経ったってことなんだな。本当に早い。俺も……」

 年をとる筈だ。そう続けようとしただろう言葉を途切れさせ、化野が自分を盗み見たのを、ギンコは気付く。流れた七年の歳月が素通りしていく、ただ一人の「人間」。

「そう思っているなら、無理は減らせ。あんなに無理をすると分かっていたら、お前の頼みごとなんか聞かなかった…」
「ギンコ。ギンコ、すまん。でも、分かってくれ。そうせずにいられないんだ。それしかできないなら、出来ることを出来るだけしたいんだ。もう二度と、あんな…」

 二年前、ひとりの里人が死んだ。化野は何も出来なかった。病があることすら気付かずにいた。

 出来たことと言えば、病のわかってから逝くまでの数か月、鎮痛剤を処方したことぐらいだった。医療機械の無いこの里で、医療器具も無いに等しいこの里で、出来るだけのことをしたけれど、その出来ることは、あまりにも少なかったのだ。

 だから。

 化野は膨大な本を読むようになった。手に入れられる限られた薬で、出来るだけのことをする知識を持つためだ。化野とギンコの住む屋敷の部屋は、外の世界から持ち込んだ本で埋め尽くされている。

「いつもいつも重いものを頼んで、悪いと思ってるよ、ギンコ」

 ただいま現在肩に乗っている重たい土袋を、けしてギンコに運ばせるまいと、軽い振りして持ったまま。

「でもまぁ! 確かに無理をし過ぎてはいかんな! 俺も大事にせねば。此処でたった一人の医者だ。体を壊してなどいられんし。それにしても蕾はなんで、お前にはいつも緊張した顔をしているんだろう。年頃にはまだ少し早いと思うが」
「…さぁ、な」

 温室の扉を開けて、生い茂る草木を少し避けてやりながら、ギンコは言った。

「少なくとも、そういうんじゃないと思うぜ? 彼女も生まれついての神官だし、恐らく、白也よりもずっとヌシ様に近いんだろう。だから、かもしれん」

 がさがさと草を掻き分けながら、奥の方の小屋に土袋を置きに行く化野。彼の耳にギンコの言葉は届かなかっただろう。寧ろギンコは、届かないように言ったのだ。

「ヌシ様にも、この土地にも、人々にも、俺は、悪さなんかしやしない、って。約束なんざ、出来ねえしなぁ…」

 目を閉じると、無数の蝶の羽ばたきが聞こえる気がした。その音が、温室のどこかからなのか、自身の胸の奥からなのか、ギンコには分からない。

 入ってきた扉は閉めたのに、何処からか、風が流れてきた気がする。ギンコの白い髪が揺れた。




 あぁ。

 ほぅら、チョウチョ。

 …きれいねぇ 

 
 

続 

 
 
 


 
箱庭シリーズの続きがスタートしました。長すぎるので、一度切って、新しいシリーズ名をつけようか迷ったんですが、これはどう考えても続きだしな、と。タイトルは「鼓動」。とても重要なことを、このストーリーの中で書いて行きたいと思っておりまして、今まで謎だった幾つかの部分にも触れていきたいのです、が! とても難しい予感っ。

 重要=難しい、であるのは、まぁでも、あたりまえよね。頑張ります。はい、がんばりっっっっ、まっっすっっ。

 そういえば そういえば、対想のラストから、七年の間が開いてのこのお話でして、その間起こっていたことも、少し紹介していくと思いますよ。ちょっと暗い…いや、結構暗いけど…。それでは、新シリーズ「鼓動」を、どうぞよろしくお願いします。



2020.07.19