記 憶  ……  9





  ちらちら、ちらちらと、温室の中を蝶が舞う。座らされた場所にそのまま座って、ギンコは思っていたのだ。そんなことを考えている余裕などないというのに。

 イサも、花を見たのか。聞いたことはなかったが、住もうとする以外のものでも、たまに出入りする許可を得る為に、と、そういうことかもしれない。さっきの話からすれば、サナミの夫のタダハルだって、島に戻れる可能性があるんじゃないのか。

 もし、タダハルが戻れるのなら、サナミさんは嬉しいだろう。あんなに心を砕いていたのだから。今ならミツさんも許すだろうし、きっと化野も、自分のことのように喜ぶ。

「ふ…」

 気付くまでもなく、分かっている。これは現実逃避だ。今、何を考えるべきなのかだって理解している。さっき、タツミはなんと言った。俺の、何があやういと…? 俺が島に居ることが、島の為にならないと言ったのか。俺は島に居てはならない存在なのか? 折角あいつと、もう離れず済むと、思って…。

 あぁ、でも、これは。

 これは、俺が望んでいたことそのままじゃぁ、ないのか? ずっと傍になんて、元々願ってはいけなかった。罪を贖うように、俺はあいつの傍から離れて、遠くで、痛みを味わうべきだ。だからこれで、本当の望みに、近付く。 
 
「…爺さん。あんたはあの島をずっと離れて、島を想って長年ここに居て、それでもその蝶は、あんたを見離したりはしなかったんだな」

 急に口調の変わったギンコを、タツミは咎めない。ただ静かにギンコの顔を見て、問われたことに答えた。

「見ての通りじゃ」
「なら、俺も…三つきに一度こちらへ来るんじゃなく、三つきに一度、あの島へ渡るだけでも。ずっと変わらず、あの島のものでありたいという、強い、想いがありさえすれば」
 
 タツミはギンコの姿を、哀れむかのように見た。この若者は、いったいどんな業を背負っているのだろう。その身の内に、少なくとも二種の蟲を宿しながら生きて居る彼の、胸の内には何があるのか。

 蝶の姿で飛び交うギンコの花は、薄暗がりを美しく舞っているが、時に闇色に溶け消えるようなその色が、儚く見えた。

「さぁ、の。儂もあれから島へ渡ったことはない。いざ行こうとすれば、島は儂を異物として、はじくのかもしれん。じゃから、お前さんの言うのは、随分な賭けじゃろうと思う。もし、ヌシに見限られる様なことがあったら、もう一度ヌシがお前を許すことは、ないかもしれんぞ?」
「…見限、られたら」

 どきり、とギンコの胸で心臓が跳ねた。震えて項垂れて、彼は何も無い場所に、縋るような視線を揺らす。それでもギンコは心を落ち着かせようとした。穏やかな凪の海のような、タツミ老人の眼差しも、不思議とギンコの心をも、ゆっくりと凪ぎにしてくれるように思えた。

「あんたの花がもしも消えたら、あんたは、どうなるんだ…?」

 紫の蝶は少し弱っていた。でもそれは、想いが弱くなったと言うことではないだろう。彼の花がいつの日か消えたら、島の守りと許しを失い、タツミは…。

「こちらで生きる分には、どうともなりはせんよ。だが、おそらく島には、二度と渡れんじゃろうの。儂にとってそれは、死んだようなものじゃな」

 何かを諦めたような、遠い遠い目をする、年老いた一人の男。行かずとも、変わらずあの島の民の一人。蝶の姿の花は、おそらくヌシの体の一部。島から離れること、ヌシが嫌う文明のリキに、少なからず触れ続けていることが障りなら、一時でも島に戻してやれば、力を取り戻すのではないだろうか。

「タツミさん、あんたが島に行けばいいんじゃないのか? 何故今まで行かなかった…?」
「何故…かの。ただの意地かもしれん。愛しいものの為に、己で選んで、島から離れた儂じゃから、今更行っては、その気持ちを失くしたようで辛い。…くだらん話かもしれんな」
「……いや…」

 分る、とギンコは言わなかったが、タツミのその言葉は彼に響いた。己の命よりも愛しいものの為に、傍にはもう行くまいと、一人固く約束した遠い日が、ギンコの中にまだ消えずにあるのだ。

「島に…行きたいと思ったら、俺にでもイサにでも、いつでも言ってくれ」

 やんわりと笑っているタツミに、ギンコはそう言った。温室を舞う蝶は、いつの間にか紫の蝶と、淡い黄色の蝶だけになっていた。ふと手首を見ると、ギンコの肌の上で淡い蝶の姿が、何羽も重なり、翅をゆっくりと開き、閉じて、その肌の中に染みて行こうとしていた。

「ありがとうよ、ギンコ。そう呼んでいいじゃろう? 儂のこともタツミでいい。お前さんとは、何やらどこかが近しい気がする。いつか本当に、島に渡る手伝いをして貰うかもしれん。その時は世話になる」

 ギンコが立ちあがり、温室から去ろうとした時、ふと思い出したかの声で、タツミが聞いた。

「のう? 満津は、どうしておる…?」
「…ミツさんは、最近は娘のサナミさんと一緒に、着物の着付けなんかを島の皆に教えているよ。これまでになく充実してるんじやねぇかな、過去のあの人を知るわけじゃないが、俺からはそう見える」
「そうか…。儂もこの年じゃから、妹の満津も老いたろうよ。あんたと共に渡ったお医者の先生によろしく言ってくれ。満津を、よく、診てやってくれ」





 閉じたばかりの温室の扉が、音も立てずにもう一度開いた。黄色く光を放つような、若い羽ばたきをする蝶たちが、一斉に扉へと近付き、顔を庇うようにして挙げられたイサの手首に、吸い込まれるようにして消えていく。

「…っ!」

 イサは強く目を閉じながら、それでも怯まず扉のうちへと踏み入り、そこをぴたりと閉じて背中で寄り掛かった。

「俺、もう何度もあんたに会ってたってのに、今の話、全部初耳なんだけど」
「今聞いたじゃろう、お前さんがいるのは知っとったよ、蝶が騒いでおったからの。だが、知ったとて何も出来んことじゃ、お前さんも、儂ですらな」

 蝶の消えた手首を、判然としない思いで撫でながら、イサはタツミを睨み据える。あの島の不思議はもう身に染みている。だから、自分の中にヌシの花が宿っていたことなどより、イサにとって気になるのはギンコのことだった。

「なぁ、さっきのって、どういう意味?」
「…どれのことか分からんが」
「言ってたろ。ギンコの中に、この蝶以外の蟲がいるって。あいつから聞いたことはあるけど、俺、どんな蟲なのか知らないんだ。…教えて」

 けれどタツミはゆっくりと首を横に振り、掛けていた椅子から立ち上がる。蝶が一匹だけ彼の体を追い駆け、後ろからその手首へと止まり、吸い込まれたようだった。

「そのことだったら、生憎、儂の知る範疇じゃあない。知っての通り、儂は蟲師ですらないからの」
「……じゃあ…! ひとつだけ…。あの島のことなら分かるんだろう? ギンコは島に居られなくなるのか? 折角俺が、こんな苦労してあいつを島に渡らせたのにっ。あいつ、これ以上…つ、辛い目になんて…っ」
「すまんが、それも儂には答えられんことじゃ。そんな人間が島に渡ったことは、これまでになかったでな」

 人が自然に抗えぬように、人は蟲にも抗えぬ。
 一匹一匹の小さき蟲ならば、
 人の力の方が強いこともあるじゃろう。
 だが、あの島の蟲はヌシじゃから。
 そしてギンコに宿る、今一つの蟲は、
 もしかすると、もっと…。

 タツミはイサに背を向けたまま、低くそう言い終えると、奥にある別の扉から外へと出て行った。残されたイサは、温室を飛び回る紫色の蝶たちを見上げている。ところどころ翅が裂け、千切れ、それ故弱弱しく、それでも必死に飛ぶ蝶たちを。

「知らないって、そんな」

 イサの声は、広い温室の天井に響いて消える。

「頼むよ…。だってあいつは、死ぬことすら出来ないんだ。頼むよ、ヌシ…」

 蝶の吸いこまれた手首に、イサは額をつけて、祈るように呟いていた。





 








 イケズだなぁってほんと思うんですよ。誰がって私が私自身をそう思う。でも哀しみが強過ぎると、幸せになるのが怖くなったり、罪を意識し過ぎると、許されることが辛かったりするもんなんじゃないかなぁって、そう思うんです。

 タツミは御年75〜80かなーと、ぼんやり考えている惑さんですけど、もしかしなくてギンコさんの方が年上か! とかさ、そんなことも思ったりしてね! まぁ、あまり詳しく計算していませんで、タツミの年に関してははっきり決めていませんが。

 そんなことよりあの島の寿命の方が気にかかります。もってくれ、と思うのです。ではでは、9話お届けいたしますv


15/08/15