記 憶 …… 10
温室の外にふらふらと出て、イサは為すすべもなく、暗い夜空を見上げている。ぽつりと、彼は呟いた。
…爺様。
ほんとうに俺、
あいつに何ひとつ、
してやれないのかな…。
自分の小ささなんて、ちゃんと分かってたつもりで、でも分かっていたよりももっとずっと無力で、苦しい。
あの島であいつは幸せになれるんだって、そう思ったのに。だからあのお医者の先生に嫉妬しながらも、よかったなぁって、思ってもいたのに。それはこんな簡単に、揺らぐことだったんだ。
「ギンコ…」
両手のこぶしを強く握って、それを両方目に当てて、嗚咽をひとつ。でもイサはその手をすぐに下ろして、ギンコが先に行っただろう部屋へと戻って行った。
俺はあいつの事情を、少なからず知っているから、今支えられるのは俺だけだ。どんなに無力でも、此処にいるのは俺なんだ。
暗がりで、一人。ギンコは用意されていた布団に横になって、うすぼんやりと見える天井を眺めていた。空虚な目だったけれど、彼の耳は様々なものを聞いていた。
庭で鳴く虫の声がする。小さき様々な命の気配を感じる。虫もいるが、蟲が蠢くのも見えるのだ。きっと鼠や鳥なども、庭の其処此処にいる。幾多の命にすっぽりと包まれている気がして、こんな時に、何故そんなふうに思うのだろう、と不思議だった。
俺も『命』だからか…。
蟲を憑けていようと、
百何十年生きて居ようと。
命を抱いて生きて居ることに、
変わりはないから。
ごろり、とギンコは寝返り打って、今度は畳の目の上に視線を落とした。
タツミがずっと島を守る願いをもって生きてきたように、俺も、俺の願いを叶えたいと思い続ける。それが例え、誰かの居場所を壊す切っ掛けになるとしても、想いは、消せない。
これまでも、ずうっとそうして来たじゃないか、今更揺らぐなんて、笑えるよ。俺は何が欲しいんだ。どうしたい? 決まり切っているだろう? だから、まるで善人のように怯えてしまった心を、磨り潰して消してしまえ。
ヌシは『想い』のみしか見られんでな。
ギンコは起き上がり、窓の外の濃い藍色の暗がりを眺めた。タツミの言った言葉が、耳の奥に響いている。ヌシに分かるのは想いのみ。それが本当なら、何も怖がる必要は無いのだ。
俺はいつまででも思い続ける。
あの島に帰りたい。
あの島に居たい。
でも幸せになり過ぎることも出来ない。痛みに刺されているべきだ。その相反する歪な想いに揺れながら、それでも『ヌシ』に、見限られずいられるように、誰よりも、あの島に執着していればいい。
簡単なことだよ。あいつが其処に居る限り、傍に居たいその渇望は変わらず、ずっと、ずっと、この身と共に。
暫し後のこと、外で足音がして、部屋に姿の見えなかったイサが戻ってきた。イサは戸口で足を止め、寝床に居るギンコの姿に、目を見開いた。
「…あれ? いつ戻ったんだよ、ギンコ。中々戻らないから、どうしたのかと思って探してたのに」
「イサ」
すい、とギンコはイサの方を向いた。そしてすぐに己の手元に視線を戻した。枕元に置かれた燭台の火が、ゆら、ゆらと揺れている。
もう随分遅い時間だが、勿論ギンコは眠っていたわけではなく、掛け布団を剥いでそこに座って、買い集める品のリストを広げていたのだ。
迷いのない目のように見えた。それがイサには酷く不思議だった。不安になって、狼狽えても当たり前のことを言われたはずなのに、どうしてこんなに静かで居られるのか。
「リストを見てたのか。色んなのがあるから、大変そうだね。まぁ、さ、だいたい毎回おんなじような要望だからさ」
イサはギンコの布団の横に膝を付き、首を伸ばすようにしてリストを眺める。蝋燭が割とまとまった数、帳面や筆記具などの文房具類、食料品と調味料、石鹸、ほんの少しの衣類、針に糸、木桶、柄杓、など。あとは化野が指定した薬類と。
「明日ここを発つまでには、購入先のリストを渡してくれる筈だから、俺の端末使って連絡取るといい。中には癖のある相手もいてさ、手こずることもあるとは思うけど、俺も、何でも手伝うよ。ギンコ、一か月なんて掛けなくていいんだから、なるべく早く集めてしまおう」
「そうだな。少し、急ぎたいかな」
それを聞いたイサは、目を細めて笑った。自分がギンコにしてやれることは無いのだと、ついさっき思ったばかりだったから。
「任せなよ、何でもしてやるよ」
「…イサ…?」
「とにかく、俺はお前の味方だから、さ」
リストの中身のことで、ギンコと暫く話をして、そのあとイサはギンコの寝顔を見ながら、さらに少し起きていた。言葉にはせずに、彼はある種の覚悟をしていたのだ。
もしも…
もしもあの島がギンコを拒絶したら。
俺がどんなことでもして、
あの島から先生を逃がしてみせる。
だからギンコ、安心してていい。
翌朝、その家を出る時、見送りにきたタツミを振り向き、ギンコは少しの間、ものも言わずその老いた顔を見ていた。そして背を向ける前に言ったのだ。
「あんたが、誰かの為に島を守って生きてきたように、俺も俺の大事なものの為に、生きてきたんだ」
「…そうじゃろうの。言われずとも分かる。それでいい」
タツミはそう答え、深く笑った。
もうあと三日もすれば、島を離れて丁度ひと月。苦労も様々あったが、タツミやイサの助言も役立て、やっとすべての品が整ったのだ。
リストにチェックを何度も付けて、抜けているものがないかしつこいくらい確かめた。そんなにしなくとも、大丈夫だよ。最初そう言って笑ったイサも、今はもう何も言わない。
ギンコは怖いのだ。品物が揃えば島に戻れる。でも戻ろうとしたその時、もしも何かが起こったら? 島に渡る為の小舟が、自分を拒否するかもしれない。急に海が荒れて、どうしても渡れないかもしれない。
ヌシに分かるのは『想い』だけ。ただ、島に戻りたいと強く思っているだけで戻れる筈だが、行きにあんなに舟が速かったのは、島から自分を遠ざける為だったのではないか、と、そんなことまで思えてくる。
「大丈夫だよ、俺も行くから、ギンコ」
ここを発つ準備をしているギンコの隣に座って、イサは当たり前のように言った。
「俺も島に受け入れられてるものの一人だ。住んじゃいないけど、出入りは出来る。付いてってギンコの手伝い、したいし? それに…」
何かあった時に、ギンコを助けられるよう、俺は、もっと島のことを知っておきたい。
「…それに?」
「ん? 何でもない。あの島、俺も好きなんだよね。こっちと違ってのんびりできるし」
「手伝ってくれるんなら、報酬を」
「…ったく、さぁ、お前」
抑揚の無いギンコの声を聞いて、イサはいきなり、ぐしゃぐしゃと彼の髪を掻き乱したのだ。乱暴すぎる手付きで掻き回し、そのまま彼の体を床に押し倒すと、自分もその隣に横になる。
「それ、もういいよ。俺が自分のしたいことをしたいようにするのに、いちいち報酬だの言われたらさ、なんか拒絶されてる気がする。だから、もういい」
感謝してるんだろ、だったら余計にもういい。そんなんで抱いたりしたら、困ってたり不安になってるお前に付け入る、人でなしみたいじゃないか。
「イサザ…だっけ? 俺さ、そいつみたいになりたい。気の置けないお前の友達に。頼りになる兄貴分みたいになれたら、もっと嬉しいから、せいぜい俺、頑張ってお前の力になるんだ」
少し困ったように、眼差しを泳がせるギンコの髪をもう一度くしゃくしゃと混ぜてから、イサは立ち上がり、寝床を準備しに行った。明日は早い。夢も見ないぐらいぐっすり眠れるように、二人して少しずつ、酒を飲んで寝た。
続
ギンコは、大丈夫かなと思います。でも島が大丈夫かと言ったら、長い目で見てそこはどうかなって思う。島が大丈夫じゃなかったら、ギンコだって化野だって、暮らしとしては大丈夫じゃないんですが、でもまぁ。なるようになるんですよね。
人を動かして来たのは、どの場所でもどの時代でも、人の心なんだろうなぁ。人知を超えたものにさえ、その心を持ってして人は挑んでいくのだろうし、蟲は…。蟲であってヌシでもあるものは、自分が生き続ける為に、その場所を守る為だけに、命を燃やしているのだろうなって思う。
そしていよいよ命が途切れる時は、足掻かずすべてを閉じるのかもしれませんね。なるべくそれが遠い未来だといいな、って思うのですよ。「里」自体に命や意思がある、って、そう思うとなんか怖いね。
何やらコメント長くなってしまった。その上意味不明ですみませんです。ナハハ。これはその自分へのヒントというか、うむ。
15/09/01