記 憶  ……  8





 飛び交う蝶は、白、灰青へと、ゆっくり色を変えながら、ギンコの周りを舞った。その色の移り変わりを、見たことがあると思った。島でヌシに「会った」時に見せられた花の色だ。それは一匹だけではなくて、十数匹も、居るだろうか。

 呆然とギンコはそれらを眺め、そしてやがては、別の色の蝶がいる事にも気付いた。紫色をした蝶だった。あと、極淡い黄色をした蝶もいる。

「中々、きれいなもんじゃろう…? その濃い色のは儂の花だ。少し、弱っているがな」
「あんたの、花…?」

 何故。

 蝶が花なのは分かる。それは島で見てきた。だが、渡守りの身を守るため、島からついて来た蝶は、一匹だけだと思っていた。それに…。

「まぁ、ここへ座れ。儂は昔から、蟲の気配にはよく気付く。言うか言うまいか、正直迷うたがの。島の大事だ。言わんわけにはいかんと思った」

 タツミは蝶の舞う中で、真っ直ぐにギンコを見て、こう言った。

「お前さん、別の蟲を憑けておるな…」

 ギンコは無意識に己の左目を、髪の上から手で覆う。けれど老人は、つい、と片手を持ち上げ、確かにギンコの胸を差したのだ。

「あやういのぅ。ヌシは『想い』のみしか見られんでな。儂はお前さんが怖い。…憂いておるよ」


 ザア… ァ…ッ… 


 羽音がしていた。ギンコの耳の奥。彼の、遠い記憶の底で。でもその音は、ギンコの耳を塞いではくれなかったのだ。

「島に、帰していいものか…とな」





「…困ったわ、まだ雨戸が閉じてる」
「本当だ。でも、昨日具合が悪かったんだったら、このままにしておくのも気になりますよね」

 一時間ほど前にサナミが来た時には、戸口から中に声も掛けたけれど、返事は無かった。連れ立ってきたカズアキは、まだ少し迷いながらも入口の方へと回り、わざと少し大きな音を立てて戸を開いた。

「先生、化野先生? お加減はどうですか、カズアキです。ちょっと失礼しますよ」

 言いながら中に上がり込むと、奥の部屋に敷いた布団で、化野はごくごく普通に寝ていた。見たところ特に具合が悪そうではなくてほっとしつつ、カズアキはそっとその額に手を置いた。熱があるかもと思ったからだ。

 ひたり、と手が触れるなり、化野は目を覚ました。どうやら寝ぼけているらしく、ギンコ? と、小さな声を出す。

「生憎違うんです」
「…っ! かっ、カズアキさんっ?」
「勝手に上り込んですみません。先生の家の前でサナミさんが困ってたので、ちょっとお節介を。昨日、体調が悪かったんでしょう? 私でよければ、看病致しましょうか?」

 平気そうだと見て取って、カズアキは少し笑っている。化野は寝乱れた寝間の着物で飛び起き、乱れを整えながら雨戸を開けに行った。今日も着物の着付けを教えて貰いに、ミツのところに行くと約束していたのに、きっともう遅刻どころではないだろう。随分陽が高い。

 開いた雨戸の外にはサナミがいて、昨日、急な頭痛で帰ってしまった化野の顔を、心配そうに見た。

「あぁ、先生、大丈夫ですか? まだ今日も具合が悪いのかと思って、わたし…」
「すみません、大丈夫です。此処のところ眠りが浅くて、とうとうこんな…。でも、ただ寝過ごしただけなんです」 

 縁側から、なるべく身を低くして頭を下げると、表へ出て回ってきたらしいカズアキが、サナミの隣へと来て並んだ。今日はサナミも着物、そして今気付いたがカズアキも着物だった。聞けば今日から習い始めたのだという。

 そういえば、この二人は年も丁度良くて、似合いそうな、などと余計なことが頭をかすめ、本当に余計だ、馬鹿なことを思った、そう思いながら、化野はサナミに話しかける。

「ミツさんにもお詫びを言っておいて頂けますか。次の時にはちゃんと伺います。それまで自分でおさらいしておきますし」

 サナミが先に帰って行ったあと、カズアキは気安い様子で縁側に腰を下ろし、青い海の色を眺めながら、着物の袖や襟元を撫でていた。

「どう思います? 私に、似合ってますかね?」
「え…っ?」
「着物ですよ、着物。…化野先生は、ほんとに思ってることが顔に出ますよね、別に気にしませんからいいですよ。きっと彼女も気にしてない」
「そ、そんなに出てましたか…。はぁ……」

 今の一瞬でカズアキにどころか、サナミにまで気付かれたなど、申し訳ないやら情けないやら。反省の意を込めて、化野が縁側に正座して項垂れると、カズアキは笑い出した。

「わたしは彼女の事情を知っていますし、彼女も私の過去を知っています。随分前ですが『娘を貰ってくれ』ってミツさんに言われて、ミツさんとサナミさん、お二人に面と向かって、言ったんですよ。私は現実から逃げる為に、ひとりの女性を利用した男だ、ってね。そんな男に嫁がせたいのかと言ったら、流石にミツさんも、娘を前にして、それでもいいとは言わなかった。で、似合ってますか? この着物」
「と、とてもよく似合ってる、と、思います」

 カズアキは静かに笑んで、草履を履いた足元へ視線を落としたまま、言った。

「…例え、夫がもうここには居なくても、彼女はずっと『タダハルさん』の妻だと思うんです。嫌な例えをしますけど、仮に、ギンコさんが長い間、ここに戻らなかったとしても、貴方の想い人は彼だけでしょう…?」

 わたしと彼女のこととは違う。
 最初からただの都合のいい、
 幻想でしかなかった私たちとはね。

 カズアキの告白を聞くのは、これで二度目だ。前も、ギンコの事があんまり恋しくて、弱さをさらけ出した時だった。カズアキはくるりと振り向いて、襖のところに掛けてある、化野の藍色の着物を眺めた。

「先生も、この頃着ているあの着物、とてもよく似合ってますよ」
「…ギンコが戻るまでに、自分で、慣れた仕草で着られるようになりたいんだ。あぁ、寝過ごしてる場合じゃなかったなぁ」

 一人になって、奥の間で、化野は着付けの練習をした。手が勝手に動くような時もあるのに、どうだったかなと一度迷うと、簡単に着崩れるような着方になってしまう。着ては脱ぎ、着ては脱ぎしながら、心はギンコを思ってばかり。

 今、どうしてるんだ? ギンコ。欲しいものを、調達の苦労も考えずに、あれこれ頼んだ自分を恨みたくなる。会えない間に、少しでも沢山の記憶を取り戻したくて、四六時中考えていたら、何かが見えてきて、その途端に体が抗うような、酷い頭痛に襲われた。

 黒く塗り潰された視野が、少しずつ、少しずつ剥がれて、その黒が多分、蝶だということが分かって…。途端に喉が、苦しくなった。なんだったんだろう、あれは。まるで、蝶の羽音を、喉の奥で、体の中で感じたような、ざらざらとした違和感。

 何を見たのかギンコに話したら、答えをくれるだろうか。でも言ってはならないと、強く思う。理由もわからず、そう思うのだ。例え息が出来なくても、けして、告げることはできないのだと。
 

 
 

 
 ランプの灯りが、二つ。厚い硝子の中で炎が揺れている。タツミは淡々とギンコの顔を見て、真っ青になってしまった彼に、哀れむような眼差し見せた。それからふい、と視線を逸らし、飛び交う沢山の蝶を、笑んで眺める。

「こちらの黄色い花は…イサのじゃ。ちろちろと忙しいぐらい元気じゃの。さて…お前さん、今宵は眠くなるどころじゃあないじゃろう? まずは島やヌシ様の話を聞くか?」

 老人は立ち上り、ギンコの傍まで来て、立ち竦んでいる彼の腕を掴んだ。ぐいぐいと引いて自分の座っていた傍に座らせ、それから子供に触れるように、ぽん、とギンコの頭を叩く。そしてタツミは世間話でもするように、その話を始めたのだった。

「お前さん、満津と潮次には会うたじゃろう? 潮次の兄の波壱の名は聞いたか? 潮次と波壱は儂の幼馴染でな、満津は…妹じゃ」

 静かに懐かしむようなタツミ老人の声、満津、と名を呼ぶ時の、あまりに愛しそうな響き。どこか疲れ切ったような、深い溜息がその名と共に零れる。

「詳しいことはどうせ言い切れんで端折るが、とにかく儂らは、あの不思議な島に辿り着き、そうして儂だけが一年後に戻ってきた。あの島で人が暮らし続けるには、どうあっても協力者が必要での。島でずっと生きていく為に必要な物を、誰かがこちらで用意してやらねば。そののちずうっと何十年も、それが儂の役目じゃよ」

 タツミは真横に居るギンコの顔を覗き込んだ。抜け殻のように表情のないギンコの髪を、幼い子供にそうする仕草で、今度は掻き混ぜ、すまんの、と小さく言った。

「随分、怯えさせてしもうた。儂は、ここに居るままでいても、島の花に守護された島の民じゃ。ヌシ様に逆らおうとは思うたりはせん。お前さんの存在がどれほどあやうく思えようとも、何が起こるか怖ろしくとも、何も出来はせんよ。出来ぬことは出来ぬ、ただ、出来ることをするだけじゃ、渡守りの手伝いを、の…」

 島に渡りヌシに会い、花を見せられたものは、
 島に対しての想いを、いつでもヌシに晒している。

 島に居続ける意思はあるか。
 島から逃げようとしていないか。
 島に害為そうとしていないか。
 島を大切に想っているかどうか。

 その身に憑いた花が、それを見ている。
 そして島を想うものの身から、花は離れない。

「お前さん、三つきに一度はこちらへ来るのじゃな。理由はどんなでもいいから、島を離れてこちらで時を数え、島に戻りたい、と、身の捩れるほど心の底から、焦がれることじゃ。島を想う心の強いものを、ヌシからはけして、見限らん」

 紫の蝶が、強い羽ばたきでギンコの目の前を過った。蝶の羽根はほんの少しだけ、破れていた。

 
 











 そうなのっ? って、思いました、私。変な筆者ですみません。そしてイサがまったく出なくて、イサごめんなさいぃぃぃ。そして今更のようにカズアキさん好きです。よくぞ言ったと思ったね。彼はきっとそのうち、一回りも年の違う若い嫁さん貰ったりするのかな、なんて思ってます。書かんとは思うけど。

 サナミ? はて、サナミにはタダハルさんがいますから。はい。そしてギンコには化野がいますから。イサ? えっと、彼には、し、仕事がありますからっ(ヒドイ)。今更驚いたけど、今回ギンコのセリフ一個だけだったー。

 次回もよかったら、お楽しみに〜…とか、書いて…みる。惑は書くの楽しみですよーっ。


15/08/02