記 憶 …… 7
「…ここなのか?」
夕方までかかって延々と移動して、やっと辿り着いた場所は、人家など一つも見えない土地だった。イサはにこりと笑って、朗らかな声で返事をする。
「そうだよ。あんまりローカルでびっくりするだろ? いや、しないかな。お前、あの島からこっち戻ったばかりだし。さ、ここからは歩きだ、行こう」
やたらと曲がりくねって続く道は、両脇に背の高い草が迫っていて、徒歩かせいぜい自転車程度しか通れない。分かれ道を一つずつ選びながら暫し行くと、その道の先には山が見えてきて、山の手前に大きくて立派な一軒の家が、木々に埋もれるように建っていた。
「俺、初めての時は、駅からツテも無しに一人で辿り着けって言われたんだぜ? 今朝聞いたらうちの爺様も顔見知りだって話なのに、とんだスパルタ。でもまぁ、めげそうになりながら何回も脚運んで、やっと認められたって経緯があるから、今こうして顔パスになってんだけどね」
沈みがちのギンコの顔を見ない振りして、イサは真っ直ぐ前を向いて歩いていく。
「要するに、安易には島の協力者にさえ、近付けないぐらいの、って叩き込まれたんだ」
「……」
「そうやって、俺らも慎重にやって来てる。…それだけあの島が、守られた土地だってことだよ、ギンコ。特別な場所なんだ」
背より高く繁った草の間の道を、イサは何も言わないギンコと歩く。まだずっと道が遠ければいいのに、そう思ってしまうのだけ自分に許して、歩いている。
「感謝してるよ、イサ」
長い無言のあと、ギンコはそれだけをぽつりと呟いた。少しばかり笑みの滲んだような声が、イサの耳には届いた。あの島を教えてくれて、感謝してる。感謝するしかなくて、ただ、ギンコはそう言ったのだ。
やがて二人は目的の家に辿り着き、誰にも迎えられず咎められもせずに、開け放たれた門をくぐり、広い庭の奥へと入って行く。鬱蒼と生い茂る草木を避けながらさらに進むと、そこにあったのは随分と大きな温室だった。
まるで訪れるのを分かっていたように、タツミ老人は二人を迎えた。広いその温室の奥、どこにでもあるような野草の花に囲まれ、低い木の椅子に胡坐で座って、ゆっくりと顔を上げ…。
気難しそうな顔をした、かなり高齢の老人である。一筋縄ではいかない、などとイサに聞いていたから、余計そう見えるのかもしれない。
「よくぞこんな不便なとこまで来るもんじゃの。お前さんが新しい渡守りか。イサも、こんな辺鄙を飽きもせず」
「飽きも、って…。爺さんがこんなとこに住んでるからだろ」
無遠慮にイサは言い放ち、口の端で鈍く笑う老人に、ギンコは極真っ当な初対面の挨拶を言った。
「ギンコと言います。よろしくお願いします」
イサのところでそうしたように、島から持ってきた荷を開け、無造作に示された台の上へ、ギンコは種や薬草を広げて見せた。タツミはちらりとそれを見ると、手に取って確かめることもせずに頷いて、帰りまでに代金を渡す約束をした。
「島に何を持ち帰りたいかも、詳しく聞かせてもらおうかの。これまでの積み重ねがあるでな、多分いろいろと助言もしてやれる」
これ以上はないほど無愛想な割に、協力的な申し出だと思った。断る理由の何もなく、ギンコがまとめた一覧を差し出すと、字が細かいからか、見辛そうに目をしきりと眇めながら見ている。そして、それへと落としていたタツミの眼差しが、初めて少し、和らいだのだ。
「…ふん、紅茶か。必要最小限、と幾ら告げさせても変わらんな」
極々小さな、ひとり言のような呟きが、確かにギンコの耳に届いた。聞いてしまった彼の眼差しに、ふと気付いて、タツミは少しばかり狼狽える。
「耳が悪ぅなると、どうも声の加減も分からんようになるな。新参のお医者殿の要望以外は、概ね常の頼みのようじゃ。便宜を図ってくれる業者を教えるから、儂の名を告げて依頼するといい。値の方も勉強するよう言うておく」
言い終えてその紙をギンコへと戻し、タツミは老いた体を引きずるようにして温室を出て行った。
「な、ちゃんと協力してくれるだろ? 持っていきたい内容は、そこらの店でも何処でも買えるものばかりだけど、島に運ぶことを考えたら、やっぱり此処で聞くのがいいんだ」
持ち込むものは、やがてはすべて地に還すものだということを、覚えておかねばならない。便利なものすべてを廃す必要は無いが、便利に傾き過ぎて、忘れてはならないことがある。
「ってね、俺もまだ手伝うようになって数回だし、一番最初はいろいろ間違えた。その方が楽だろうと思って、つい白也に持っていかせちゃった『不適切な』もの。こっちへ返す手伝い、ギンコも協力してくれよ。ビニール袋、だけどさ」
不要なものを間違って持ち込んだら、責任を持ってそれを島の外へ出す。自然に還らないものは、島に残さないよう努めることだ。それを聞いて、ギンコにも納得がいった。島から種子や薬草を詰めてきたのはビニールの袋だったが、それがあの土地にあまりにそぐわなくて、違和感は感じていた。
「まだいっぱいあったろ? こっちへ来る時に、どんどん利用して持ち出してくれたらくれたらいいからさ」
「わかった。白也にも、沢山使ってくれって言われてたよ。それより。…なぁ、イサ。さっきの、聞こえたか…?」
「…? 何が?」
「いや。いい。何でもないんだ」
極々少人数しかしない世話人が、母屋の一室に案内してくれ、タツミ老人に合せたらしい和の夕食を二人にも運んできた。量が少ないだの肉が食べたいだの、イサは文句を言って、世話人にまともに謝られ、我儘言ったことを慌てて詫びている。
「いや、言ってみただけだから、そう正面から頭下げないでよ。此処に来るまで随分歩いたし、腹が減っててつい。あ、ご飯のおかわりは出来るの? じゃああとで、ギンコのも」
「俺は別に」
「駄目だよ、貰っといた方がいいって、また帰りも、電車通ってるとこまでずっと歩きだしさ。流れ暮らすのが信条のお前らしくないよ。食べれるときは食べること」
少し、上から諭すようなその言い方に、不意にギンコの古い記憶が揺れた。彼をイサ、と呼んだ理由の遠い昔の友。
「あぁ、わかったって、イサ」
常とは違う響きでそう言ってしまってから、彼もまた少し、焦る。イサの名の元になった、イサザ、という名の友が居たということも、イサが少し似ているから、イサと呼ぶことにしたのも前に告げてあったから、狼狽しなくともいいというのに。
漬物をぽりぽりと齧りながら、白飯を口に頬張りながら、イサは言った。
「ワタリ、だっけ? ギンコが昔親しかったヤツ。言ったこと無かったと思うけどさ、俺、嬉しいよ、そいつの名をお前につけて貰って。そのイサザってヤツがもうとっくにこの世にいなくて、身代りかよって、思ってほんとは最初嫌だったんだけどな。でも、お前が信頼した人なら、あやかりたいしね」
「信頼ならとっくにしてるさ。お前が居なかったら、まだ俺は、あいつに会えてもいな…」
不自然に途切れたギンコの言葉に、イサは目を伏せて笑った。
「今までずうっと、そういうふうに気を遣ったことなんかなかった癖に、今更そんなとこで言葉を止めるなよ。寝ても覚めても『化野、化野』って、そればっかりなのがお前だし、そうじゃなきゃお前じゃないだろ? ギンコ。…そういや島ではあの先生、どうなんだ? 音ぇ上げたりしてないか?」
「…もうすっかり馴染んだよ。暮らしにも、島の人々の中にも。遠い昔に、ゆっくり戻っていくみたいに思える」
「なぁんだ、大変すぎて参ってるって話、楽しみにしてたのに」
ギンコより先に食べ終えて、食器を静かに重ねながら、イサは深く笑って言うのだ。
「でも。…よかったな。お前、なんだか苦しそうに見えたけど、それでもやっぱり、嬉しそうでもあるよ。せっかく見つけて逢わせたんだもんな、そうでなくちゃさ」
「だから、幸せなんだって、言ったろ…?」
ギンコも習う様に食器を重ね、さっきの世話人に食事が終わったことを告げる為に、イサを置いて庭へと抜ける。台所でその用を済ませ、母屋に戻る途中、温室の中に小さな明かりが揺らぐのを、ギンコは見た。灯りは、一つじゃない。沢山の小さな光が、一箇所に寄り集まっていて、生きて居るかのように揺らめいている。
引き寄せられるように、ギンコはそこへ近付き、閉じていた温室の扉を開いた。開いて、中に入り、扉を閉じようとしたその途端、一匹の白い蝶が、目の前に迫って。
「…ひ…っ!」
発作のように、ギンコを恐怖が襲った。白い、白い蝶が、自分を目掛けて飛ぶ。あの、悪夢のような日の光景が脳裏に突き刺さって。彼を引き裂こうとする。
「あ…っ。ぁ…!」
「どうした? 怖いことはないぞ、新参」
「……」
はぁ…っ はぁっ…
そう言って宥められても、荒い呼吸が止まない。硝子の扉に背を押し付け、見開いた目で蝶の行く先を見つめ。
はぁっ…
老人の声が、安心させようと、柔らかく。
「よぅ見ぃ。あの島の花じゃ。お前が連れてきたのじゃろう。お前を見守り導くものじゃ。怖いことなぞない」
「あ、あぁ…」
確かにそれは、島の花。ヌシの見せる花だった。
続
凄く、難産。何故だろう。難しいからですかねっ。どうももう一本の連載と似た展開になりそうで、引き摺られるんですかね。困ったものです。どっちもオリキャラのじじい出てくるし。性格は凄く違うじじいだと思うけど。
それにしても、化野出したかったのに無理だった。次回こそ化野メインでっっっ。その為にはまたさらなる努力がっっ。いや! 頑張るのです、今が頑張り時だよ?ってね。
こんなややこしい話ですが、読んで下さる方がひとりでもいたら嬉しいです。ありがとうございますっ。あぁ、七夕だってのに、ギンコは化野と遠く隔たっているねぇ…(T-T)
15/07/07