記 憶  ……  6





 半身を晒したままで、ギンコは縁側に座っていた。低い塀の向こうの竹林。そのずっと上に月が出ている。満月にはまだ数日足りない、そんな月だった。それでも眩しいほどの光が降り注いで、ギンコの姿を照らしている。

 ここは、名も無き「彼ら」の居場所の一つ。居るのはイサだけではなくて、他の人間にもそうしている姿を見られるかもしれなかったが、ギンコは気にしていなかった。後ろで開け放たれた障子の向こう、敷かれた布団にイサが眠っている。

 ぼんやりと、もう何時間もずっとギンコは夜空を見上げていて、体の冷えるのも気付かずに、ただただ時が流れていくのを感じていた。

 片膝を抱えて背を丸めて、首を横にして頬を膝小僧に付けながら、眼差しはずっと、流れていく夜空を…。くす、と小さく彼は笑う。肩震わせて、おかしそうに。

 蟲が寄るから、なんて。
 そんなもの、ただの口実だ。

 居たくても傍に居られない、離れていなきゃならない理由が、欲しかっただけだ。考えれば分かることなのに、すっかりそれを失念して、イサにそれを指摘されて愕然とした。今更、気付きたくなかったものを。

「…けど…あいつは気付きゃしないけどな…」

 蟲が寄るから仕方ないのだとさえ言えば、きっと辛そうにしながらも、止むを得ないことだと思っていてくれる。行くな行くなと言いながら、結局は送り出してくれるのだろう。

 だからただ、ギンコが自分を騙すことが出来なくなっただけで、何かが変わるわけじゃない。離れなくていいと分っても、それでも離れればいい。自分を律して、けして想いに流されず、けして…想いに屈することなく…。

「ギンコ…?」

 呼ぶ声がした。抱えていた脚を離し、聞こえていると分かるようにほんの僅か、ギンコはそちらへ首を向けた。

「…寒くないのか? 俺の横じゃ眠れないっていうんなら、そう言えば」
「少しは眠ったよ」
「……」

 布団の中でイサは寝返り打って、半端に体を起こす。掛けていた布団がずれて肩が剥き出しになると、それだけで随分と冷えているのが分かった。ギンコは寒がる様子など無く、まだじっと縁側に居る。

 イサは思うのだ。ギンコの頭の中は、あの先生のことでいっぱいなんだろう。だから寒くたってなんだって冷えた体にも気付かない。俺がどんな態度だったって、そんなことには気付かないのと同じだ。何も変わらない。俺に抱かれて感じてたって、喘いでたって、本当の心は此処に無いみたいに、ずっと空虚だ。

 あの日、すぐ傍にあの先生が居た時のお前の姿だけが、俺の中で今も、嫌味なぐらいあざやかだよ。

 なぁ、ギンコ。もしもあいつが、この世の何処にも居なくなったら、その時、お前は俺をちゃんと見るのかな。

 すう、とイサの胸に何かが刺さってきた。錆びた刃のような、酷いものが刺さったのだと分かった。それは、そうなりたくない醜いものに、自分を変えてしまうようなことだと分かる。それが嫌で。嫌でたまらなくて、イサはきつく唇を噛んだ。

 腐り切って、歪んだ自分になって何かを求めるぐらいなら。今のままで、お前のしたいことを協力できる俺でいたい。お前が他の誰を好きでも、それでも俺はお前を助けたいんだよ。

「ギンコ。…俺が出来る限りで力を貸すから、お前は早くあの島に戻りなよ」

 そう言ったのに、ギンコは返事をしなかった。向けられた背中が、固く強張る、そんな気配だけが漂ってくる。

「お前が今、何考えてるか知らないけど、せっかく想いが叶ったんだろ? 出会えて、相愛になって、どんな邪魔も入らない場所で、ギンコはずっと幸せでいればいい」
「……」
「それともまだ欲しいものがあるのか? だったら言ってみなよ、俺で出来ることは何でも」
「…イサ」

 低く、震える声だった。月に雲がかかって、あたりが闇に包まれていく。ギンコの姿だけが、取り残されるようにそこに白く見えていた。

「もう、俺は…充分幸せなんだ…」
「だったら、なんでそんな」
「幸せなんだ。だから、言わないでくれ」
「…ギ……」

 声が出なくて、それ以上、何も言う言葉が見つからなくて、イサは黙っている事しか出来なくなった。

 そんなイサの視野でギンコは立ち上がり、真っ直ぐに彼の方へ近付くと、少し前まで自分の居た場所に身を滑り込ませる。視野がぼやけるほど間近に見えるギンコの顔は、心を深く沈めたように、暗く陰っていた。

 こんな気持ちは、
 どうせ誰にも分からない。

 満ち足りれば満ち足りるほど、
 奪われる時のことが恐ろしい。
 それに、
 今以上の幸せを手に入れる権利なんて、
 俺には欠片もないんだから。
 

「イサ、お前は…あたたかいな…」

 最後にぽつりと呟いて、ギンコはそのまま眠りに落ちて行く。イサは自分の傍で眠ったギンコの体を、恐る恐る抱いた。

「お前だって、こうしていれば、ちゃんとあたたまるよ」

 あたためようとも、もう二度と温もりを宿さない体のことを、ギンコが考えていたなんて、イサは気付くことが出来ないままだった。




 気付いたら隣にギンコが居なくて、けれど荷物はそのままあったから、イサは着たものを乱したまま起き出し、夕べギンコが座っていた場所に腰を下ろしていた。ギンコの戻るのを暫し待っていたら、待ち人の声ではなくて、別の声が彼に話しかけた。

「のぅ、イサよ」

 爺様の声だと思いながらも、イサは振り向かず返事だけをする。

「なに…?」
「痛みが理解できるのは、痛みを抱える当人だけじゃ」

 何を見て、何を思って爺様がそれを言ったのか分からない。でも咎められたことだけははっきり分かって、イサはきり、と唇を噛んだ。

 そんなふう言われなくたって、ちゃんと分かってる。でも、全てを手に取るように分かれなくとも、それは、ほんの欠片さえ理解できないのとは違う。見えるものはある筈で、だから、自分があんなふうに言ったのも、けして間違ってはいないと…。

「そんなの、ちゃんと分かってる…っ」
「ほぅ、分かっておるか」

 爺様は笑みすら含んだ声で、さらに言った。ここで分らぬままには済ませられないと、釘刺すように淡々と言ったのだ。

「死なず老いぬわけでもないお前が、そう言い切るほど何を分かっておるつもりかの。芯から好いた相手が、己の腕でこと切れる。そんな経験の一度ありはせんじゃろう。それでも、お前は分かるつもりか」
「……っ…」

 息が止まった。ここでもまた言葉を失って、己の愚かを思い知る。浅く早くなった息を、なんとか鎮めようとしながら、イサはやっと爺様を振り向いたのだ。

「…じゃあ、俺はギンコに何が出来るんだよ…っ」
「さて、なぁ。…じゃがの。イサ、お前は、出会えて良かったろう?」
「なんで…っ…」

 何もしてやれないのに? 苦しそうにしてるのを、黙って見ているしかないのに? でも、イサは言い掛けた言葉を飲んだ。この先、何ひとつしてやれなくとも、出会えたこと、好きでいることすら消し去りたいとは思わない。叶わない恋は叶わない恋のまま、今だって大切だと思える。

「…うん、そうだよね…。俺、会えて、良かったんだ、あいつに」

 唐突に、つう、と涙が頬の上を滑った。ひと雫だけでその涙は消えて、イサは明け切った空を向く。爺様は、ひとつ笑みを深めると、あっさりと話を替えてこう言った。

「今日はタツミのところへ連れていくのじゃろ。よろしく言っておいてくれ。こちらは変わらず達者だと、の」

 イサは思わず、もう一度爺様を振り向いた。渡守りの協力者である「達海」と爺様が知り合いだなんて、今まで聞いたことがなかったからだ。

「え…? タツミの爺さんに、会ったことある、とか?」
「まぁ、古馴染みじゃ。蟲絡みで昔いろいろ、な」

 どこか懐かしむ顔で爺様は言い、それ以上何かを聞かれる前に、飄々とその場を去った。






 




 

 

 届いた蟲師の画集をパラパラとめくり、ふぉぉぉぉぉぉっっっっっ!ってなったのをぱったりと閉じて、これを更新しに来ましたとさ。勿体なくて開けないって感じがまさにねv こんなところにこんなことを書いていますが、数年たってこれを読み返した時、あぁ、この日に届いたのか、と懐かしく思うことでしょう。

 ともあれ、イサたちのところの爺様と、渡守りの協力者の爺様は顔見知りのようです。でもまあ、そりゃそうかなって思う。蟲がヌシをしているような島のことだよ。当初から、彼らが絡んでない筈がないっていう感じでしたね。

 爺様書くのは楽しい惑さんでした。では六話でーす。



15/06/22