記 憶  ……  5





 
「…驚いた」
 
 タダハルがその場から立ち去り、漸く二人になってから、イサはどこかぼんやりした顔でそう言った。さっきまでここにいた来客のことなど、もう忘れたような顔だった。彼はふと、自嘲するような眼差しになってギンコを見て、畳敷きの上に置かれたソファへ、体を投げるようにして座る。

「俺のとこに顔出すなんて、これっぽっちも思ってなかったよ」
「なんで」

 ギンコは淡々と、けれど本当に分からなかったから、イサの目を見て問い返した。イサは更に自嘲を深めて、ソファの上で両膝を抱え込む。拗ねた猫のように。

「…なんでだろう。ギンコの大事な人のこと、あんなに散々苛めたからかなぁ。確かに俺、渡守りの手伝いはしてるけど、昔からずっと手伝ってる人物は、他にちゃんと居るんだしさ」

 抱えた膝の上に頬をつけて、言葉にしないことをイサは考えている。だって、もうギンコは、自分が一番欲しいものを手に入れたのに。何かを頼んだ対価として、体を要求してくるような人間に、今更頼みたいことなんかある筈もないよ。

 自分があの島に仕事で渡れば、顔ぐらい見れるかもしれないけど、その時はきっと、余所余所しい態度をとられるんだろう、そんなふうに、思えて。だからもう、イサ、と呼ばれることも無い、と。

「お前、ちゃんともう一人の協力者のことも聞いてきただろ? なのに、どうしてこっちに、来たんだよ」
「別に、理由なんて」

 絡み気味で、どこか弱気なイサを持て余しながら、ギンコは島から持ってきた荷物を床置きし、短く息をついた。こんなにもはっきりと分かり易いイサの態度なのに、ギンコは彼の想いを心の奥まで通さない。故意にではなく、素のままで、通すことが出来ない。

「もう一人にも会いには行くが、顔馴染みにまずは頼るさ。白也が来た時は、いろいろ世話を焼いたんだろ。だからかな、細かいことはイサに聞いて欲しいと言われた。それなりの報酬なら払う」
「わかったよ」

 真っ直ぐに、頼ると言われて、漸くイサは抱えていた膝を離した。ギンコの荷の口を開け、中身を軽く確認すると、土間へとそれを運び出し、光度の強い作業灯でその空間を明るくする。

 取り出されたものは、いくつもの袋や包みに分けられた植物。刈られた葉と、花首だけを摘んだものをそれぞれ少し。それから数種の小さな種。それらがきちりと種類ごとに分けられている。ただ、一つずつの袋に名前はついていない。しまう時に見たそれらを、ギンコも順に目でなぞった。

「お前も詳しいんだから、見て分かるものもあるだろう? こっちの葉だけになってるのは薬草だ。花も煎じて薬にできる種類。でもこの種は繁殖力の強いだけの雑草だね。センダングサと、イノコヅチかな、あとこっちは…ええと」
「ただの雑草、をわざわざなんで」

 当然の疑問をギンコが口にする。イサは地面に膝をついて、袋に入ったままの種子を手に取っていた。

「これは大事なことだから、よく聞いて。勿論、他言無用。島の土は他のどの土地の土よりも、薬草を育てるのに適しているんだ。かと言って、あんな不便なところで、売るための薬草を育てるのは無理があるだろ? だから、島は外からの物資を得るために、最初は土を売ろうとした」

 話しながらイサは種の袋を一つずつ手にして、ビニールの袋越しにそれを確かめながら、言葉を続けた。

「でも土そのものを持ち出したら、すぐに無くなってしまうよね。その代わりに考えたのが、この方法なんだ。島で芽吹いて育った草の種子。その種子を、土を育てるものとして売る」

 島の植物はどんなに地味な雑草でも、ヌシである蟲の気を帯びている。ギンコも手を触れた途端に、そのことには気付いていた。その種を土に植えて育てれば、育っていく過程でその気が土へと僅かに浸透し、土はほんの少しばかり、あの島のそれと近いものになるのだろう。薬効の高い薬草を育てるのに、適した土に。

「もう分かったって顔だね。結構凄いんだよ。ヌシの気が僅かでも染みた土と、普通に化学肥料を混ぜ込んだ本土の土との差。素人でもはっきり分かるほど、薬草の育ち方が違うんだ」

 イサは紙片に鉛筆で走り書きをして、だいたいの試算を出してくれた。背中に背負えるだけの、ほんの少しの薬草と、様々な雑草の種が沢山。たったそれだけの対価とは思えぬ金額だった。

「ここでは半分を現金に換えてやるよ。明日案内するから、残りの半分は、もう一人の協力者のとこへ持っていきな」

 言葉の通り、イサザは種子の半分を自分の方に引き寄せ、残り半分はギンコの方へと戻す。ギンコはそれらを荷の中に丁寧に戻しつつ、明日案内してくれるという相手のことを聞いた。

「もう一人の協力者ってのは、どんな人物なんだ?」
「ええと、ね、教えるけど…」

 言い掛けて、イサは急に黙った。黙り込んで、ギンコが不審に思って自分の方を向いた時、こう言った。

「ギンコ、今夜はここに泊まっていけば? わざわざ宿を取ることもないし、野宿するまでもないだろう?」
「そのつもりだ」
「…そう、なんだ」

 イサはギンコの顔を盗み見るように見る。けれどギンコは何も浮かばない顔で、静かにこう言うだけだった。

「報酬も、今夜のうちに支払う」

 イサが言わずに済ませたことを、ギンコの方からはっきり言った。体で払う、と言ったも同然の言葉だ。これから金に変わる種子や薬草を間にして、イサはギンコをから目を逸らさずに、ギンコは視線を逃がしも合わせもしなかった。

「へぇ、いいの? ここにあるものが今から金になるんだから、その一部で払う方法だってあるだろ?」
「それは俺個人の金じゃない。島の金だ」
「俺にいろいろ教わるんだって、島の為の情報を買ってるってことじゃないか。だったら、島の金で支払うのは順当だと思うよ。それをわざわざ」
「イサ」

 名を呼んで、ギンコは彼に近付いた。名を呼ばれたイサは、小さく震えて、そして互いに指一本触れることなく、顔を寄せて唇だけを。

「…ん。」

 触れるだけの、口づけだった。すぐに遠ざかった、ギンコの表情の薄い顔。イサは少し呆れたように、肩をすくめて笑った。

「お前の考えてることって、いつも、ちゃんとは分んないな」
「分らなくても、抱けるだろ…?」
「勿論だよ…」

 今度はイサの方からギンコの唇を吸う。徐々にキスは濃く、深くなった。ギンコは淡く答えて、自分からも少しは舌を絡めて同調した。長いキスを一度止めて、畳敷きの別の部屋で身を重ねる。まるで恋人同士みたいに、イサはまたギンコの唇を求めた。

 キスをしながらギンコのシャツのボタンを外し、ほんのりと酔ったような目をして、もどかしく素肌に触れた。からりと乾いた手のひらが、あっという間に熱を帯びる。汗ばんで、吸いつくように、その手はギンコの体を愛撫した。

 ギンコは、ずっとどこまでも、気付かぬ振りをするつもりで、それでも気付きたくなかったことに、今、気付き掛ける。けれどどうせそれも、この心の奥には、浸透していかないことだ。何もかも浅い部分を流れて、すぐに遠くなる。

 あぁ、
 イサにとって、俺は、
 ただの取引の相手じゃ、
 ないのかも、しれない。

「イ、サ…。明日会う人物は、どんなヤツなんだ…?」

 問えば、愛撫のさなかにそれでもイサは教えてくれる。身を起こし、ギンコの体に触れながら、努めて普段通りの声で。 

「…爺さんだよ、結構な。うちの爺さん程じゃないけどさ。それでも、じじいにしては…一筋縄ではいかないっ、て感じかな。でもあの爺さんは、島を守る一人だから安心していい。滞りなく渡守りの任は叶うし、すぐ戻れるよ。大事な先生の傍にね」
  
 びく、と肌を強張らせて、身を開いたままギンコは仰け反った。遠慮のない手が、指がそこを弄って、イかせようと追い上げている。堪えようとする感情を意識して緩めながら、ギンコは言った。うっすらと目を開けて、彼は中空に漂う蟲を見ている。

「す、ぐ、なんて戻れねぇさ、島に、もう蟲が寄り始めてたんだ。だから…。ん、ぁ…っ…」

 激しくではないが、ギンコは性を迸らせた。ぼんやりと開いた目の中に、罪悪感などは見えなかった。

「蟲が? 寄って来てたって? でも」

 あの島のヌシが、障りのある蟲を寄り付かせないだろうに。少しは寄るとしても、島を長期間離れなきゃならないなんてことは、きっと無い筈で。

「でも」

 言ってやる筈の声が出ない。ギンコがそう思ってこちらに少しでも長く居てくれるなら。あの先生の元に帰らないでいてくれるなら。そう思ったイサは自分の女々しさが嫌で、喉奥で止まった言葉を、無理に声にした。

「ヌシは蟲を、島に寄らせなくすることが出来る」

 そう言ってやった、その途端に。どうしてだろうか、ギンコは、凍り付いたような目をした。畳に爪を立てていた片手で、耳を覆って、そのまま身を横にして、体を丸め。

「今、なんて、言っ…」
「なんて、ってだから。島にはちゃんとヌシが居るから、蟲が集まって障りがあるようなことには。ギンコ…?」

 なんでそんなに、震えてるんだ。聞き返した癖に、耳を固く塞ぐその手。聞きたくなかったと、全身で訴えるような姿。

「ギンコ、俺、なんか悪いこと」
「いや、何も。そんなことはねぇよ。イサ。…イサ、ちゃんと報酬を受け取れよ、半端だろ、こんなんじゃ」

 もう一度、ギンコはイサの前に体を開いた。見上げてくる目は、だけれど変に空虚だった。

 俺は蟲を寄せるから。
 だから、
 ずっとはあいつの傍に居られなくて。

 小さな小さな島。
 その幸せな箱庭の住人には、
 なり切れなくて

 いいのに…。

 




 







 ややこしいことをいっぱい考えて、頭が「きゃーっ」ってなったりするんですけど、でもまぁ、うん、此処へ来て新キャラ出るんですね。じじい書くの好きだしね。イサをして一筋縄ではいかない、と言わせるじじい、楽しみ。島のヌシのことをじじいよく知ってるのかな。おしーえてー、おじいーさんー。

 あ、黙れ? 

 すいません、ちょっと浮かれてるんですわ。ごめんごめん。でも、箱庭、っていう言葉の意味が、そろそろ分かりそう。こんな話を読んで下さる方、ありがとうございます。


2015/05/24