記 憶  ……  3




 柔らかな表情のまま、伏し目がちにカズアキは語り始める。化野は布団に身を起こし、静かに彼の話を聞いた。本当は人の話など聞きたい心境ではなかったけれど、これは一人の人間の人生の話だ。疎かに聞くことは出来なかった。

 


 私がこの島を知ったのは、ある人に教えて貰ったからです。地図にもない島。電気や水道やガスが無くて、電話も勿論無い。百年以上も、時が戻ったような島だと聞きました。その島に渡ったが最後、けして本土には戻ることは出来ないけれど、どうしても彼女と離れたく無いのなら、其処に渡る手伝いをしてやろう、と。

 今、私は一人身ですけど、ここへ渡ってきた時は、妻になる筈の女性と一緒でした。あれは私が23の時で、彼女は私の教え子で、まだほんの16だったんです。

 反対されて当たり前の恋で、でも私も彼女も自分が本気だと思っていたから、私たちを引き離そうとする誰もから逃げて、この島に二人で渡ることを決心しました。

 島の皆さんにも歓迎してもらって、大変だけれどここで二人で寄り添って生きて行こうと…していたんですけどね。でもまだ彼女は子供で、ここへきて三日目に、帰りたいと泣きました。たったの三日です。心の何処かでは、愕然としてしまった。

 だって、戻れば引き離されると分かっているのに。
 この島に居さえすれば、ずっと一緒に居られるのに。
 家に帰りたいと、彼女は私の目を見ずに言ったんです。

 私も愚かだった。いくら言っても説得出来なくて、それなら仕方ないと、夜中に二人で小舟を出したんです。怒ったヌシ様が海を荒らして、二人で死ぬことになるのかと思ったけど、それならいっそそれでもよかった。

 でも意外にも海はずっと穏やかで、まるで誰かが動かしてくれているように、勝手に島から離れていくんです。遠くに漁船が見えて、段々それが近付いてきて、彼女は舟に向かって声を上げようとした。私はそんな彼女を引き止めてこう言いました。

 帰ったら引き離されてしまうんだよ。
 ずっと一緒にいる為には、島に戻るか、
 ここで命を断つしかない。

 戻ろう。
 戻りたくないなら、
 死のう。

 その時の、怯え切った彼女の顔は、もう覚えていません。彼女は私の手にしたナイフを見て、すぐに海に飛び込んだんです。漁船に向かって助けてと叫びながら、殺されると喚きながらね。漁船から漁師が数人海に飛び込んで、彼女を助けるのが見えました。それを見ながら、私は手首を、切ったんです。

 何度も何度も、切りました。間違って生き永らえたりしないように、小舟の上から波に手首を浸して。その時、意識が途切れる前に見たもののことを、昨日見たようによく覚えています。

 不思議な光景だった。波の下に蝶が舞っていた。島のヌシ様に見せられた花と、そっくり同じ色をした蝶でした。その蝶達が私の手首に纏いついて、傷を塞ぐように、幾重にも幾重にも。そして舟は蝶に導かれるように、ひとりでに島に戻って行きました。

 結局妻になる筈だった女性には逃げられ、私一人が島に残りました。辛かったけど、今はそれでよかったのだと思っています。今思えば私はただ、誰かに必要とされたいだけだったんです。彼女じゃなきゃ駄目なことなんかちっともなかった。

 この島の人々が、子供たちの先生として、元教師の私を必要としてくれて、今はそれが生き甲斐になっている。一度は裏切った私の命を、ヌシ様があんなふうに救ってくれて、島に戻してくれたこともとても嬉しかったんです。

 一年も経ってからその時の神官に、こっそりと教えられました。この島に迎え入れられたのは、最初から私一人だったと。彼女がヌシ様に挨拶をした時、花は一輪も姿を見せなかった。だから彼女はいずれは、この島を去る人だったのだと。

 つまらない話を聞かせてすみません。この島に来た人はみんな、少なからず大変な事情を持つ人ばかりだ。今話した私の話は。すべては済んだことですし、同情なんかして下さらなくていいですから。

 あなたに話せて、本当にすっきりした。ありがとうございました、化野先生。

 



 何も口を挟まずに、化野は最後までカズアキの話を聞いていた。大変でしたねだとか、そんなうすっぺらな言葉を吐く気はなかったし、同情などいらないと先に釘まで打たれては、もう言う言葉は何も無い。

 うっすらと口元に笑みを浮かべたままで、カズアキは静かに口を閉ざし、化野の顔を覗き込みながらこう聞いた。

「びっくり、されました?」
「…そりゃあ、驚きはしたけど」

 化野が一番驚いたのは、最後のくだりだった。カズアキの話が本当なら、ヌシは島に受け入れないものを一度は形ばかり受け入れ、その後であっさり逃がしたことになる。

「どうして今俺に、その話を…?」
「…さぁ、どうしてでしょう。島から消えたギンコさんに、先生が酷く動揺しているって聞いたから、話すのなら今かと思ったのかもしれないですね」
「でも今の話じゃ逆に…」

 一度は受け入れられたとしても、島を出るのは不可能じゃないっってことになる。ギンコがこのまま戻らないでいることは可能なのだと。化野が考えたことが分かったのだろう。カズアキはゆっくりと首を左右に振ってこう言った。

「ご自身の花を、先生は見たんでしょう? ならヌシはあなたをこの島に留める筈です。ギンコさんも勿論花を見た筈だ。不安だとお思いなら、その事だけ白也さんに確かめてみればいい」

 カズアキは立ち上り、外で待っていた白也に軽く会釈して、最後にもう一つだけ言葉を残し帰って行った。

「渡守りも島にとって大切な役目だ。戻らないかもしれないものが、その役に任される筈はないと思いますよ」

 ひとりになったと思った途端、すぐに白也が戻ってきて、無言で化野の肩に手を添える。起き上がっていた彼の体を、有無を言わせぬ身振りで横にならせ、彼はギンコの名を出した。

「ギンコさんに、後は頼むと言われたんです。彼はきっと、自分が島を出た後の先生のことが分かっていたんですね」
「……」

 其処まで分かっていたのなら、嘘をついたりしなければいいものを。ついそう思ったが、言えば行くなと止められたことも、ギンコは勿論知っていた。気付けば喉がカラカラに乾いていて、白也が白湯の湯呑みを差し出してくれる。

「お二人が簡単に離れてしまうような絆じゃないことは分ります。俺にだって分かることですから、ヌシ様に分からない筈はないですよ、化野先生」

 それから白也は化野の前で正座をして、きちりと前を向き、真っ直ぐに彼の目を見てこう言ったのだ。

「ギンコさんの花は、それまでに俺が見たどの花よりも美しい花でした。渡守りの役目で、この島を離れている間も同じ花が彼の身に添って、必ずあの人を守り、ここに戻るように導きます。何も心配はいりませんよ」
「…騒いだってどうしようもないってことは、よく分かったよ。医者ともあろうものが、こんな形で世話になって、済まなかった」

 心配しながら見送られて、ゆっくり歩いて高台の家に戻る帰り道、ヌシのことを化野は考えていた。ヌシは蟲なのだとギンコに聞いたし、蟲は見えないものには全く姿の見えない、特異な存在なのだとも聞かされていた。

 この島のヌシは蟲であり、島民には島を守る神様のようにも思われている。化野だってこの島に受け入れられ、これからずっとここに住み続ける島の民なのだから、無条件でヌシの存在を信じ、その守りを信用するべきなのだとは思うが…。

 ちらりと、脳裏にサナミの事が過った。一度は島に受け入れられ、その後に島を出て行き、戻ってこなかったサナミの夫のことを。

 戻りたくても戻れない。
 そんなことも、
 もしかしたらあるんじゃないのか?
  
「ひと月、か…。長いよ、ギンコ。早く戻ってくれ…」







 
 
 


 
 

 
 この島のヌシのしでかすことが、蟲の癖にてめぇ、計画的過ぎるぞ!と思わなくもない。花とか蝶の恰好のあれがヌシの本体ってこともないので、いったいどんなヤツなのかと気になっています。島そのものがヌシの本体です、とかって有り得そう…。

 や、マジでそうなのかも説…! 

 ヌシってのはそんなに偉いのか、と、いつぞや化野先生は憤っていましたが、蟲であってヌシですからね! 其処で生きる人の悩みや苦しみや痛みなど、まったく頓着せず、ヌシたる己の守る土地に良かれと思うことだけする存在です、多分、はい。

 そしてそれを分かっていて、利用したり翻弄されたりするのです、ギンコさんも…。



15/04/19