記 憶  ……  2




 まだ、夜が明けたばかりの浜辺で、ギンコは一人海を見ていた。透ける薄布で覆うように、波はなく、水面は淡く光っていた。足元が濡れるほどの場所にいるのに、波音が聞こえなくて、まるで夢の中のようだと思っていた。

 寄せる波よりも、引き波の方が強いのだと聞いたことがある。足をとられてあっと言う間に攫われるのだと。屈んで手のひらに砂を掬い、さらさらと散らしながら、ギンコは背中に里を想い、目の前に広い海を見ていた。

 この島は、幸せな場所であり過ぎる。
 
 そう、まるで時が止まっているみたいだ。そんなものは、在る筈の無い錯覚なのに、いつか奪われて終わることを、忘れてしまいそうになる。

「…忘れたって、運命は変わりゃしないのにな」

 ギンコは砂浜を歩いた。ずっと歩いて岩場を越えて、その先にある一軒の家を目指す。開いたままの扉を軽く叩くと、中で書きものをしていた白也が顔を上げた。

「あぁ、早いですね。ギンコさん、もう、行きますか」
「昨日の内から、すっかり準備は整ってたよ」
「どなたか見送り…」

 言い掛けた白也の言葉が止まったのは、ギンコの眼差しがあまりに静かだったからだ。見送りなんか誰もいらない。戻れと祈って欲しい相手など、ひとりしかいないし、その相手は今ここに居なくても、狂おしいほど強くそう祈ってくれる。

「白也、悪いが、後を頼むよ」
「はい勿論。ギンコさんが渡守りを引き受けてくれたので、神官である俺が此処を離れずに済みますし。一人で両方は、さすがに色々大変でしたから」

 くすり、小さくギンコが笑った。自分が来るずっと前から、この島で神官をしていた彼に、わざわざギンコがそんなことを頼む道理などない。今、言ったのは別のことだった。きっとその時が来れば、察しのいい白也はギンコの言葉の意味に気付くだろう。

「で? ヌシ様に会って行かなきゃならねぇんだろ?」
「えぇ、この島を離れている間の守りと、また無事にここに戻れるようにと、願いをかけてから舟に乗ります。ヌシ様がきっと守って下さいますから」

 そして、一度きり訪れたあの場所で、ギンコは静かに膝をつく。伸べた手を石敷きの地面に付く前に、膝先に一輪の花が現れた。濃い、藍色をした花だ。藍なのにうっすらと透けていて、美しい。その花は、ふっと茎から離れて、まるで蝶のようにギンコのまわりを飛び回る。

 きらきらと、何か光る細かなものを散らして、その粉がギンコに体に振り掛かった。蝶の鱗粉のように。

「ヌシ様が、あなたをお守りくださいますよう」

 白也が厳かにそう言って、ギンコの前に跪き、地面に額をつける。ずっと神官と兼任していたから、こうして渡守りを送るのは白也も初めてだ。まるでギンコ自身がヌシで、人の姿をとったヌシにかしずいているようだと思った。

「どうか、この島に平穏と幸を」

 白也が顔を上げた時、ギンコの右腕に、藍色の蝶がとまるところだった。蝶であり花であり、ヌシの力の及ぶ印でもあるその姿が、溶けるように其処で消え失せる。手首より少し上に、ほんのうっすらとだけ蝶の形の印が残った。

「ギンコさん…。あっ、いえ、何でもないです、すみません」

 言い掛けた言葉を飲んで、白也は少し頬を赤らめた。美しい、などと素で声になり掛けて、そんな己の想いに驚いてしまう。

「この印、此処に戻れば消えるのかい?」
「消えます。それはヌシ様がお力を及ぼし、島から遠くあっても守り導いて下さる印とされていますから。ヌシ様のご意志なく、無理にこの島を離れたものには当然与えられない。ですから戻ることも出来なくなるのだと、伝えられていますよ」
「…へぇ、なるほどな」

 この島のヌシは、この地に勝手に入り込む誰かを許さないし、勝手に出ていくことも許さない。仮に逃がしたとしても、今度は二度と戻ることを許されなくなるのだろう。

 例えば、サナミの夫のように。

 改めてそう思うと、少しばかり不思議な感じがする。これから島を出ようとするものの心を、ヌシは読むのだろうか。そして戻ると言う強い気持ちを読み取って、この印を刻むということだろうか。

 もしもそうなら、島を出る前に此処に来てヌシに会い、この印を得ていれば、もう一度島に戻ってくることも、出来たということになりはしないか。

「………」

 腕に刻印された印を見つめながら、ギンコは僅かに目を細めた。けれど、今更自分に何ができるとも思わない。ヌシの加護を失うことは、ギンコだって恐ろしかった。大切なものを確かめるように、左手でその印の上を覆って、戻ると言う想いをもう一度強く込める。

 ギンコが左肩から荷を負うと、白也が念を押すように言い掛けた。

「もし、何か分からない事や迷うことがあれば」
「案内役に聞けばいい。だろ? 何度も聞いたよ、連絡先も聞いた。一人は元々俺の馴染みでもあるしな」

 よろしくお願いします、と改めて頭を下げられ、彼は一人海辺へと戻る。自分でもおかしいぐらい、ゆっくりとした足取りだった。すぐ傍の筈なのに中々辿り付けず、幾度も島の中心の方を振り向いた。それでもやがては、視野に小さな一艘の舟が見えてくる。

 岩と岩の間にぷかりと浮いて、波に流される様子もない不思議な小舟。白也と自分と化野とが乗って、この島を訪れた時のあの舟だった。岩を歩いて一人で乗ると、それは案外大きく思えた。

 舟はまだギンコが立っているうちから、勝手にすい…と陸地を離れる。ヌシ任せのそのことが、随分と彼の気を楽にさせた。

「必ず、戻る。ただ暫し、離れるだけだ、化野」

 遠ざかる島の高台に、あの家。じっと目を逸らさず、遠すぎて見えなくなるまで、ギンコはその風景を見ていた。



  
 
 目覚めた時ギンコが傍に居ない、なんて、そんな経験はそれほど無い筈なのに、何度も何度も繰り返されてきたように思えたのは、多分錯覚などではないのだろう。鼓動が、酷く嫌な打ち方をして、化野は飛び起きた。

「ギンコ…。何処だ…?」

 名を呼んで部屋を出て、家の中を探しながら、もう近くには居ないと直感で思ってしまっている。思い当たる理由もないのに、今を逃したら、ずっと長いこと会えなくなるとさえ思って、気付いた時には白也の家を目指している自分がいた。

 今日は、白也が島を出て本土に渡る日だ。ギンコはその手伝いに行っただけだ。きっとそれだけだ。そう思いながらも動悸は治まらず、道の途中で白也の姿を見て、胸に刺さるような痛みを感じた。

 何処か遠出をするような姿には、とても見えなかったからだ。畑仕事をする里人に話しかけられて、にこやかに応じていた白也が、化野の姿を見るなり、少し青ざめた…だろうか。

「…どうしているんだ…?」
「ど、うして…って」
「今日は本土へ渡る日だと聞いてたのに、どうしてまだ」

 上擦った声で尋ねる化野へ、白也が答える前に里人が呑気な声で言い始める。

「あれ? 知んなかったのかい、先生。今回からはギンコさんが行くって話。俺んとこではマッチと蝋燭」

 何の悪気もなく言った男は、痛みを堪えるような化野の目と合って、たじろいでいる。

「ギンコは、言わなかった。ずっと白也が行くって言ってたんだ、俺にだけ、そうやって、嘘を…っ」
「化野先生、落ち着いて下さい。ギンコさんは渡守りで本土に渡っただけです。一か月もすれば此処に戻るんですから」
「そんなことはわかってる! 分かってるけど……」

 俺は、怖いんだ。

 渡守りを引き受けたなら何故言わない。俺にだけずっと黙って。黙っていただけじゃなく嘘をついて。行くのは白也だと偽り続けて。そして、不意に目の前から消えた。

 いつだってあいつはそうだ。あの時だって、何でもないような振りをして姿を消して、何年も、何年も。だから、平気じゃいられないほど、俺は怖いんだよ。

 お前が消える、ということが。

「痛…っ!」
「せ、先生…っ?」

 ふらふらと傍を離れてたかと思ったら、急に頭を押さえて立ち竦んだ化野。白也と里人は慌てて駆け寄り、汗の浮いた彼の顔を覗き込んだ。真っ白い顔色をしながら、それでも心配をかけるまいと、化野は言った。

「…平気、だっ。持病…みたいなものだから。あいつを想い過ぎると、たまに、こうなるんだ。うぅ…」

 とても平気そうには見えず、そのまま座り込んでしまいそうな化野を支えて、白也が急いで助けを叫ぶ。

「手を貸して下さいっ、先生をすぐ俺の家に運んでっ」
「平気…だ、これでも医者なん…っ。ぁ、あ…」

 意識ははっきりしているのに、どうしてか四肢の自由が利かず、化野は里人に負ぶわれて白也の家に運ばれた。知らぬ間に意識が飛んでいたらしく、気付いた時には、白也とカズアキの顔が見えた。

「あ…? 俺、は?」
「気付きましたね。よかった。すぐは起き上がらないで下さい。貧血か何かでしょうか。多分、としか言えませんけれど」

 話し掛けてきたのはカズアキで、彼はちょっとバツが悪そうに笑っている。

「本職の方に、多分で言うのも申し訳ないかな、治療が出来るわけでもないし。…貴方をここまで運んだ人がね、わたしを呼んだんです。何か悩みがあるみたいだから、話を聞いてやって欲しい、って」
「そう、ですか」

 窓の外から差し込む日差しで分かる。多分もうあれから、何時間も経っているということ。ギンコはとうに島を出ただろう。強張っていた体から、急激に力が抜けていき、化野は深い溜息を吐いた。

「人に話せることなんて」
「なら、わたしの話を聞いてくれますか? 誰にも話したことが無い話です。でも先生に、聞いて欲しくなりました」

 やんわりと笑う顔が、酷く淋しげだった。正座をして座っている彼の、膝の上に無造作に垂れた手、その手首が露で、傷跡には真昼の明かりが届いている。白也は何も言わずに席を外し、化野とカズアキは二人になった。

「……俺でいいなら」
 
 ぽつりと呟いた化野に、ありがとうございます、とカズアキは言った。






 





 

 
 あれぇぇ、島民さんの話なんかするつもりは、無かったんだが、相変わらずどこへどうなるか、書いてて分からない惑さんです。それにしても先生の記憶、断片で戻るもんだから、ハラハラしますよ。ギンコが戻った時はどうなっているのだろう…ね…。



15/03/29