記 憶 …… 18
ちゃぷり、ちゃぷりと、波が岩にあたる。一艘きりの空の小舟も淡く揺れて、岩にぶつかる微かな音を立てていた。少し前より海が荒れてきたのかもしれない。舟を出すのに問題があるほどではないが、いっそ、もっと荒れてくれと思ってしまいそうだ。
なのに、目の前に化野の顔がちらつくのだ。今更のように思う。ひとりきりで時の中を彷徨い、会えるまでにどれだけ待ったか。想いが通じるまで、どれだけ切なかったか。
やっとそこを越えて、今は会いたければ会える。会おうとしさえすれば会えるのだ。イサの言う通りなのもわかってる。会いたくて堪らない相手が、この海の向こうにいるのに、ほんのあと数時間、長くとも半日足らずの時間を引き延ばして何になるだろう。
「イサ…。お前も、さっきと正反対なことを言うんだな。タダハルさんの時は、島の安全を思ってあれほど反対してたのに」
「俺はちゃんと自分の身勝手さを自覚してるけどね。なら、俺も言わせて貰うよ、ギンコ」
まるで、告げる言葉を用意していたように、イサは言った。ギンコを項垂れたままだったが、そんな彼を真っ直ぐに見据えるイサの、眼差しの強さ、容赦のなさ。
「お前のだってそうだろ? 舟が沈んだら? 荷が無駄になる? そうやって案じているのなんか、口先だけだ。その証拠にお前はただの一度も、島に渡ること自体を諦めようとしてないじゃないか」
自分でも分かっていたことを、真向から突きつけられる。ゆっくりと顔をあげ、ギンコがイサへと答える声は、けれど震えてさえいなかった。
「俺は、誰がどれだけ不幸になっても、構わないんだよ。もうずっとそうだ。あいつの傍にいる為になら、他の誰がどうなろうと…」
「よくわかってるじゃないか。ひとでなしのギンコ」
容赦のないままそう言ったのに、イサはその後、悲しげに笑ったのだ。
でも俺は、そんなお前を責めようなんて思わない。お前と同じ境遇のものなんて、きっと、この世にはひとりもいないんだ。生きたまま魂が裂かれるような、その絶望も、慟哭も、理解してやることは出来ないけれど。
それでもお前に、手を貸す以外の選択肢はもう、イサの中には欠片もないから。
「…でも、ひとでなしはお前だけじゃない。誰だって、自分が一番かわいくて、自分の幸せを一番に欲しがってしまう。エゴの塊なんだよ、人間なんてみんなね」
そう言って、イサは荷車の方へと近寄った。やれやれ、まだ結構残ってたんだなぁ、などと、面倒くさそうにしながら荷車に寄りかかる。
「島を出る前、白也に頼んできた。今夜の月が中天を過ぎるまで、もしもギンコが戻らなかったら、俺に知らせてくれ、ってさ。行くと決めても、どうせお前はひとりで行くんだろ。さっきも言ったけど、万が一があったら、俺が出来るだけのことをするよ」
荷の中で特に大きな箱を選んで、イサはそれを無理に持ち上げた。
「あー、これ重いな、何入ってるんだ? ぼうっとしてないでお前も運べよ。手伝わなかったら根に持つからな、俺」
大袈裟に重たい重たいと騒ぎ、よろめくふりまでして見せて、とうとうイサはギンコに荷運びを手伝わせた。抱えているでかい箱の、向こう側をギンコが支えると、にっ、と笑って途端にしっかりと歩き出す。
「…大丈夫だよ、ギンコ。俺は殆ど確信してる。ヌシはお前を拒んだりはしないんだ。お前ほど強く、あの島に居続けたいと思っているものなんか居ないんだから」
「まだ行くなんて言ってない」
「強情。まぁいいさ、荷を積み終わるまで、どうするか決めればいい」
イサがそうやって軽口を叩いても、ギンコの表情が晴れることはなかった。それでも、島に荷を運ばねばならないことには変わりがないから、二人で交互に何往復もして、段々と荷車は空に近付き、かわりに舟は重くなる。
作業の終り間際、イサが舟に乗り、重心を考えながら荷の置き場を塩梅し、そこへギンコがさらに荷を持ってきた。
「ちょっと待って。んー、こっち側、置き場所が残り少ないのに、少し軽いんだよなぁ」
などと言いながら、イサは幾つかの荷の置き場を変えて…。
違和感を感じたのは、その時だった。波はちゃぷり、ちゃぷりとさっきよりずっと大きく舟の外を叩いていて、なのに舟は殆ど揺れが無い。ギンコが両手でしっかりと、舟縁を押さえてくれているのかと見やるも、特にそういう訳でもなく。
彼は片手をそっと、舟に添えているだけだ。でも、思えば「それ」は、少し前から「そう」だったのではないかとイサは気付く。
「…あのさ、ギンコ、あと何箱くらい?」
「今、持ってきたこれと、あと残りひとつだ」
「なら、それ持ってきて」
「わかった」
言われた通り、ギンコが舟に背を向ける。彼の手が離れると、舟は途端に大きく揺れた。波に打たれるまま、当たり前にゆらゆらと。やはり錯覚じゃない。舟は確かに、ギンコの存在に反応しているのだ。
荷の置き方、舟の重心。
そんなもの関係ないってことか。
島に渡る為に、
ギンコが乗りさえすれば、
きっとこの舟は…。
そこへ最後の一つの箱を持って、ギンコは舟に近付き、足場の良くない岩の上で、姿勢を低くして、イサに荷を…。
「それで最後、だね?」
「あぁ、そ…。…ッ!!」
その手首をいきなり取られて強く引かれ、ギンコは荷と共に舟の中に転がり落ちた。ど…っ、と肩や背を舟底に打ち付け、痛みを感じるより先に、舟が覆ることを案じた。
だが、まるで何か、大きな腕に支えられているかのように、小舟は揺れない。覆るなど有り得なかった。
「イ…っ」
体を返して見たギンコの視野に、舟の縁を蹴って岩へと飛び移るイサの姿があった。それでも舟は僅かしか揺れなかった。
「…何、を」
「ギンコ。島が。あの島のヌシが、お前に早く戻れって言ってるんだ」
イサは己の身の安全など、少しも頓着せずに、岩の上から舟へと両手を掛ける。縮めていた脚と腕を渾身の力を込めて伸ばし、沖へと舟を押し出したのだ。舟はまるで、命を得たように波の上を走った。
ドボンっ
笑みながらイサはものの見事に海へと落ちる。一瞬消えた姿が、頭だけ波間から現れ、イサはどんどん遠くなるギンコへと向けて叫んだ。
「その舟の勢いが答えだ、ギンコ…っ、もう迷うな。悩んだって迷ったって、どうせお前の頭の中には、あの先生のことしかないんだよ…ッ」
声がちゃんと届いたかどうか、イサにも分らなかった。波の音が耳元で鳴っていて、風に逆らう方向に、帆も、モーターも勿論ない舟がぐんぐん進んでいくのが見える。ずっと遠くなる舟影を暫し眺めてから、イサはほんの少し泳いで、荷車の傍から陸へ上がった。
「やれやれ…。水も滴るいい男、ってね」
ずぶ濡れになった自分の姿を笑って、シャツの裾を絞りながら荷車に近付くと、その傍にはギンコのデイパックがくたりと置かれていた。
「あー、しまったかな」
ひょいとそれを拾い上げるも、随分と軽い。勝手に開けて中を見たが、殆ど何も入ってはいなかった。ペンと、あと、手帳。随分古ぼけている。悪いとも思わず、イサはそれを真ん中あたりから適当に捲った。
「日記…? 飛び飛びの…」
斜めに視線を走らせながら、遡って、遡って、とうとう最初のページをイサは見た。二年以上前の日付。そこに書いてあったのは鉛筆で、うっすらと書かれた一人の男の姿だった。白衣をきて、風に吹かれている、ギンコの想い人の…。
「……へぇ、上手いもんだ」
イサはぱたりとそれを閉じて、傾いた空の荷車の上に腰を下ろす。開いた膝の間に、手帳を持った手ともう片方の手を提げて、彼は空を見上げる。知らない間に、もう星が随分見えていた。
「ほらな、お前はあいつのことしか考えてないんだ。それでいいんだ。それがギンコなんだから…」
続
びっくりするほど話が進まない! が、頑張りますっ。それでもなんとかギンコは舟に乗って島を目指しましたので、よかったです。
たぶん次回は、二人の感動の再会…っ。なんじゃないかなぁ。そんなこんなで、やっと書けた最新話。次からひさびさに、二人が一緒に居るところが書けるので、それが楽しみな惑でした。やっぱ離れ離れは淋しいね。
2016/03/29