記 憶  ……  19




 暫くの間。ギンコは小舟の中で立ったまま、イサの居る岸を眺めていた。舟の進みが早いから、あっという間に彼の姿は見えなくなったが、それでも進行方向に体を向けることは出来ず、まるで意地になったように、ずっと後ろを見続けている。

「痛ぇな…。ったく、あいつ…」

 舟の中に転がり落ちた時、強かに打った肩が痛くて、逆の手でさすった。座ることぐらいしか出来ない舟底に、ギンコは腰を下ろし、背と首とをのけぞらせて空を見る。夜を迎える夕空に、明るくて淡く透けるような月が居た。

 耳が空気を切っている。髪がなぶられて揺れている。波の姿を見れば、殆ど風などないのは分るから、それは明らかに舟の進む速さのせいだ。

「こんな速さで、俺は何処に連れて行かれるんだか、な」

 ナキ島に決まってるだろ!

 イサならきっと、呆れたようにそう言うだろう。それとも怒りながら言うだろうか。

 後ろ向きも大概にしろって。前見ろよ。
 もうじき、島影が見えてくるからっ。 

「……本当にそうなら、どんなにか…」

 ギンコは背中を荷物に寄り掛け、仰のいたまま目を閉じた。恐ろしくて前など見れない。とんだ臆病者だと笑えてしまいそうだ。

 だってそうだろう。もう何度、俺は「化野」を探した? この世の何処にいるか分からないあいつを、あてなど一つもなく探し続けて、出会って共に暮らし、失い、また探し始める。その繰り返しの人生を、これまで過ごして来たし、これからもそうしていくしかないというのに。

「いつでも」

 そう、最初の、あの過去のように。

「自分の想いひとつで、お前に」

 もう二度と、戻れないあの日々のように。

「会いに行ける自分で、居たいだけなんだ」

 だから、どうか、奪わないでくれ。たったそれだけの、ささやかな俺の願い。

 彼は強く目を閉じて、祈っていた。閉じた薄い瞼の向こうに、夕空の明るさを感じながら、化野の顔を思い浮かべ、心配そうにしている顔に、手を伸ばし…。そんなギンコの耳に、何か、音がした。

 これ、は…羽音…?

 ギンコの体は冷たくなって、固く強張る。怯えながら、けれど彼は目を見開き、視野いっぱいの蝶を見たのだ。光りながら透ける白、それらがゆっくりと呼吸するように、淡い灰青へと、波打つように変化し、羽ばたく。蝶に見える、花。

 ヌシの花だ。島から離れたギンコを、守り導くものだと、白也から聞いた。それが、こんなにも沢山、まるで舟のいるすぐ上を、すっぽりと覆うように群れて進んでいるのだ。

「……」

 言葉になどならなかった。ギンコは身を起こし、やっと舟の進む方向を見る。蝶たちは矢のような形を成していた。舟が震えるほどの勢いで、先へと進むその向こう。夕空を黒く切り抜いて、島影がくっきりと、見えていた。

 ギンコの両目から、涙が零れる。抑えようとしてそれをやめ、彼は泣いた。今泣き終えておこう。化野にはこんな顔を、見せなくて済むように。   

  

 

 
 最初に気付いたのは、やはり白也だった。一度目の舟で届いた品の荷解きを、皆で手分けして殆ど終えて、それぞれの家へ運ぶその道の途中。浜の岩陰に、ぽつんと座っている化野の背へ、そっと視線を流していたのだが…。

「あれは…」

 荷の一つを持ったまま、急に足を止めた白也の背に、セキがぶつかりそうになった。

「わ…っ、白也さんあぶなッ」
「残りの荷が、もうすぐ届きますよ」

 そう言って彼は止めていた脚を速め、自分の家に荷を運び込むと、それを置いてすぐに家から出て来、何人も並んで歩いている荷運びの人らの隙間を縫うように、逆向きに走った。

「すみません、通りますっ。すみませんっ。荷を置いたら、みんなもう一度浜に!」

 ぶつからないように、転ばないように、足元や目の前に視線を分けるのが、正直もどかしかった。多分、怖いほどに美しいだろう光景を、じっと落ち着いて待てないのが惜しいのだ。

 荷運び中のとある一人は、白也と同じものを見て、ぽかんと口を開いた。彼女は真っ直ぐに海を見て、目を凝らし、沖の方を指差す。

「あれ。あれって、蝶じゃないかしら。いいえ、蝶っていうより、あれは…ヌシ、の?」
「あぁ? 何か見えるってか? なんもねぇけど?」
「あんたは蟲が見えなかったろ、だからだよ、私には見えるの」
「へ? 何がだい?」
「ええっと。あのね、だからね」

 脚を止める人らで、道は塞がり、荷を運ぶものと取りに戻るものが、どちらも動けなくなる。そんな中、白也だけが浜に、化野の隣に駆け寄った。

「化野先生っ」
「…っ。は、白也? あー、すまない、みんな忙しい時なのに、抜け出したりしてて」

 言い訳も出来ずに詫びる化野の目の前、白也は真っ直ぐに腕を伸ばし、遠い沖を指差したのだ。

「先生には蟲が見えないから、まだ難しいかもしれませんが、私の差す方角を見ていて下さい。舟が見えてくるはずだ。戻ってきますよ、ギンコさんです」

 白也が興奮気味なのが何故なのか、化野には分らなかったが、そんなものは一瞬でどうでもよくなった。

「ど、どこにっ」
「目を、凝らして下さい」

 もうそれしか言えない白也の目に、そして蟲の見える島民たちの目に移っている、その美しいものたち。空を埋め尽くすように広がって、こちらへと飛び来る、蝶の姿をしたヌシの花。それはあまりに美しく、神々しいほどの風景なのだ。

「あぁ、見えた。舟、だ」

 言うなり化野は駆け出した。そして化野が見た小舟も恐らく、さらに勢いを増し、みるみる大きくはっきりと見えてくる。

「…ギ、ギンコっ、ギンコ…ッ」

 駆け出し、一度砂浜で転び、飛び起きてまた走り。そんな化野の視野で、ギンコは小舟の舳先に立って、静かにこちらを見ていた。

「ギ…ンっ、お前…ッ」
「危ないからっ、いいからそこで待ってろっ!」

 ギンコが化野に向けて叫んだのは、彼を呼ぶ言葉でもなく、会いたかったと言うのでもなく、あまりに普通で、あまりにいつも通りで、腹の立つほど冷静そうな声だった。

 それでも化野は走り止めず、今度は砂から顔を出している岩に、派手に足を突っかけて顔から浜に突っ伏し。

「化野! だから、危ないって、言ってるだろ!」

 ギンコは舟から飛び降りた。膝までを波に没し、走って化野の元へ行く。転んだ化野を助ける為に、両腕で彼の体に触れ…。そこまでで、とうとう何かが切れてしまったようだった。

「ギっ…」

 いきなり抱き竦められて、その息の付けないほどの強さに、化野は目を見開き、肩に顔を埋めたギンコの、浅く速い息遣いを聞いた。人は、息の音で泣くことも出来るのだ。

「…おかえ…」
「言うなッ」
「え…」

 言い掛けた言葉が、叱責に似たギンコの声に遮られた。

「今、言わないで…くれ。頼む…」

 それは、あの時、途切れた言葉だ。俺にとって、たった一人だった「お前」が、俺の前から消えてしまった時の。だから、やっとこうして帰って来られた今、聞くのは、嫌だ。

「じゃあ、なんて言えばいいんだ? ギンコ」

 戸惑いながら、ギンコの体を抱き返しながら、化野がそう聞いた声に、彼はこう答えた。

「そう、だな…。『よく来たな』とでも、言ってくれ…」
「何だよ、それじゃおかし…。…っ」

 ギンコは化野に縋る両腕に力を込める。化野、我儘な子供をあやすように、その背を撫でながら、仕方なく彼の願いを叶えた。

「よく、来たな…ギンコ…」
「あぁ…来るさ、何度でも、何度でも」

 空を覆う蝶の群は、いつの間にか、消えていた。
















 やっと書けたですーっ。ギンコが帰ってくるこのシーン。色んな人に心配掛けおってからにっ。色んな場面で本当にひやひやしましたです。二人を再会させることが出来て、本当に良かったと胸撫でおろしながら、続きはどうやって進めて行こうかと思ったり、たり…。

 タイトルの「記憶」に関わるシーン書けて無くて、でもそう簡単にその場面に行き着けるわけはなくて、ここでタイトルを「記憶」と関連性の強い何か別のものに変えようと思います。まだ考えてないけど。

 というわけで「記憶」はここで終わり。皆さま、ありがとうございましたっ。それにしても、箱庭シリーズ長いですよねえ(汗)




16/05/04