記 憶  ……  17





「順調にいけば、大した時間じゃないけどさ、それでもちょっと、暇だよな」

 怠そうにイサはそんなことを呟いた。舟底に横になりたくても、今は舟が沈まぬ程度、ぎりぎり載せた荷でいっぱいで、座っているより仕方ない。

「え、今なんて?」

 舟の進む方向を、つまりは島の方角をじっと見ていた白也が、イサザの言葉を聞き逃していて聞き返す。

「…まぁ、さ。ついさっき見送った相手が、飢え死にか渇き死にするかも…なんて、考えてたら気も滅入るだろうけどさ」
「えぇ、無事に着いて、ヌシ様に何事もなく受け入れられたら、きっと何よりほっとしますよ。俺がどうこうできることじゃないけど、それでも、そう思います」
「優しいよねぇ、白也」

 イサはじっと、年若いその神官を見つめたままで言った。小舟は微かに軋むような音を立てながら、ゆらりゆらりと波間を進む。いつもよりゆっくりに思えるのは、単に荷が重いからだろう。

 タダハルの乗った舟、或いはギンコの乗る舟のように、受け入れられぬ可能性が、この小舟にはないから、そう思う。

 首を横に向けて、箱に記してある内容物の文字を目でなぞりつつ、イサは小さな声でこう言った。誰かに聞かれることを恐れてでもいるような、低く落とした声である。

「ギンコのこと、少しは知ってるんだろ? あいつが他の誰とも違うって」

 問われた白也は、たっぷり呼吸二つ分も、イサの顔を見つめてから短く答えた。

「彼の、ヌシ様の花を、見ましたから。不死。と呼ばれる、そういう存在…なのですね」
「…そうだよ」
「でも、ギンコさんはナキ島に受け入れられた。人と違うということを、本土にいるよりずっと気にしなくて済むから、きっと生きやすい筈ですよね」

 …それなのに
 どうして彼は今、怯えているんでしょう。
 いったい、何を怖がっているんでしょうか。

 言葉を途中で切りはしたが、白也の言葉は音になったかのように、イサに響いた。勿論、言えはしない。ギンコがナキ島にとって、あやうい存在かもしれない、などと。

「俺も白也と同じくらいしか、あいつのことは知らない。それに、すべてを決めるのはヌシだから、俺らが気を揉んだって、しょうがない」

 嘯くだけ嘯いて、ふい、と視線をやった遠く。島影がぼんやりと見えていた。イサは真っ直ぐに腕を伸ばし、それを指差す。

「見なよ、ナキ島だ。この舟は一度も他の舟を追い抜いてはいない。ってことは、余程あさっての方向に流されてない限り、ただはるサンは無事に着いたってことかな?」
「えぇ、きっと」

 もっと近付けば、誰も居ない砂浜に、一艘の舟。確かにあれはタダハルが乗って行った舟だ。ほっとして、笑顔にさえなっている白也の横で、イサはそのひと気の無さに肩をすくめた。

「誰も居ないって、ちょっとさ冷たくない? 呼んでこなきゃ。荷を下ろすやら運ぶやら、大変なんだから。それに」

 早く済ませて、早くギンコのところへ戻ってやりたい。あんな気持ちのまま、一人になど本当はしておきたくないのだ。ざ、と砂浜に勢いよく舟底が刺さる。身軽く飛び降りて舟を支え、白也が下りるのを手助けしていたら、陸の方へ向けた背に、視線を感じた。

 振り向く前に誰だか分かる。きっと言うだろう言葉を、イサは舌の上で転がしつつ、その声を聞いた。

「なんで…お前が…。ギンコは…?」

 近付いて来ながらイサにそう言ったのは、分かっていた通り化野だった。真っ青な顔をして、とても平静じゃない。苛立つ気持ちが、少しもわからないってことはないけど。

「先に言わせて貰うけど、会いたいのも不安なのも、あんただけじゃない。あんたよりずっとあいつのが辛いって、俺は知ってる。それでも言いたいことがあるなら、好きに言えばいいさ。どうせあんたは、あいつの不安を癒せない」

 言われた途端に、明らかに化野は怯んだ。もっと酷いことを言う準備もあったのに、言う機会を逸したと、イサが残念に思うほど。

「ま、俺もだけどね、それは」

 化野は両手で己の髪をぐしゃりと握り、深く項垂れ、ぎり、と一度歯を鳴らした。そして今一度、イサを正面から見据える。

「ギンコが何を不安がってるっていうんだ。癒せなくても、知りたい。何も知らないよりマシだ。教えてく」
「あんたもさ、大概自分勝手だよね、冗談じゃないな。…一発殴っていいか?」
 
 知ってて助けられない痛みを、何一つ知らずに?
 マシ? 何がマシだっていうんだ?
 知って、それなら何も出来ない仕方ないって、
 諦めて楽になろうってのか。

 けれど、イサが化野に苛立つ気持ちは、そのまま彼自身にも跳ね返る。楽になどなれなかったけれど、無力さ故の痛みは、今だって胸に刺さったままだ。イサは指を一本立てて、それで化野の胸の真ん中を、えぐるように刺した。  
 
「俺はこれ以上、あんたが馬鹿を言うのを聞きたくないんだ。だから先に封じとく。この荷を下ろしたら、俺は残りの荷を積みに、もう一回ギンコの居るとこへ戻る。けど、あんたがこの舟に乗っていきたいなんて言い出したら、顔変わるくらい殴るつもりだから、ぐれぐれも黙ってるんだね」

 吐き捨てるように言い終えると、イサはそのまま砂浜を横切っていく。何も言わず、じっと黙っていた白也が、静かに、意味を教えてくれた。

「島を出ようとする行為は、どんな理由や前例があろうと危険です。自分に会いたさ故に、先生が島を離れたなどと知ったら、ギンコさんは貴方よりも自分自身を責めるでしょう。それに多分…あなたが彼の家なんですよ。いつでも戻れるように、待っていてあげた方がいい」

 この二人はきっと「対」なのだ。
 ここで待つ化野と、ここへ戻るギンコ。
 二人がそうして互いを「縛って」いる。
 それが定まった形、
 けして壊してはならない。

「さ、荷を下ろす手伝いをして下さい。イサさんが皆を連れてきてくれると思うから、人手は充分ですけれど、貴方が欲しいと言ったものも、沢山詰まれていますから」  

 そう言って、荷を一つ持ちあげた白也が、何の疑問も無さそうに聞いた。

「そうそう、タダハルさんはヌシ様に…島に受け入れられたんですね。本当に良かったです」

 浜にはもう一度人が集まりつつあった。飲み過ぎて動けないものも少しは居たが、それでも沢山の人が荷下ろしや荷解きを分担し、化野も勿論手伝う。舟がカラになると、白也にだけ声を掛けて、イサ一人がその舟に乗って浜を離れて行く。

 化野はそのことに気付いていたが、あえてそちらを向かず、作業に没頭している振りをしていた。 

 

 
  
 舟が岩場に近付いてくる。ギンコは座っていた岩から立ち上がり、軽く手をあげてイサに合図を送った。

「タダハルさんはどうなったんだ? 無事に島に着いてたって? そりゃぁ何よりだな。サナミさんも、さぞ喜んだだろう」
「ギンコ」
「下りたら少し休め、イサ。荷は俺が積み込むから、その間、港の方へ行って、何か食いもんでも貰って食えばいい。イサなら顔馴染みだし、分けて貰えるだろう。俺の分はいらないから、ゆっくり食べてくれば」

 捲し立てるように、ギンコの言葉は続いた。イサは少しぱかり、強い口調で彼の言葉を止めさせる。

「こっちを向けよ! 先生の様子を教えてやる」
「…後でいい」 
「悪いけど、後は無いんだ。ここに着く直前に急ぎの仕事が入ってさ。俺もう、帰るから」
「イサ…!」
  
 荷はどうするんだ、と聞くまでも無かった。イサは残ったこの荷を積んで、ギンコも舟に乗って行けと言いたいのだろう。聞く前から首を横に振るギンコだったが、イサは小さな子供に言い聞かせるように、彼と目を合わせ、ゆっくりとこう言った。

「島の人々の話を聞いた。ただはるサンは島の人々にも、島自体にも、ヌシにも受け入れられたそうだ。ちょっと拍子抜けするくらいすんなりとね。考えても見な、ギンコ、俺が島までもう一往復したって、たった数時間、お前の渡るのが後になるだけだ」
「…俺のせいで、舟が沈んだら? 荷が無駄になる」
「沈まないさ。それに、万が一が起こって荷を失ったら、俺が責任を持って、同じものをもう一度調達する、だからギンコ」
「嫌だ」

 短い拒絶に、イサは少しの間黙った。彼はじっとギンコの顔を見つめ、その後、唐突にその体を抱いたのだ。

「お前、自分が今どんな顔してるか、知らないだろ。怖くて怖くて堪らなくて、震えてる小さな子供みたいだよ。今にもぶっ倒れそうな顔色だし、悪いけどこれ以上、とても一人で放ってはおけない。早く島に帰らせないと、見てる俺の方がどうかなりそうだ」

 選択肢は二つ。
 お前一人で荷を島に運ぶか、
 俺と一緒に荷を島に運ぶか。

「仕事が入ったんじゃないのか…?」
「あんなのは嘘だ。それより、あいつもお前みたいに真っ青だったよ。キレて俺に殴り掛かってきそうだった。想われてるな、ギンコ」

 なぁ、会いたいだろ。と、かすれた声でイサは言った。ギンコは激しく項垂れ、イサを突き飛ばすと、おのれの体を両腕で抱いた。震えが止まらなくて、息がしにくい。

「なんで、そんな、裏切りを…」
「裏切ってなんかいない。俺は仕事でも、仕事外でも、お前の喜ぶことをしてきたんだ。今回も同じだ。どうしてだと思う?」

 零れたギンコの声を、イサは軽く笑うことでいなす。そして、これまで一度も言葉にしなかったことを、言った。

「…お前が、好きだからだよ、ギンコ」

 言っても、ギンコは小さく震えただけだった。イサは悲しげに眼を細め、知っていたその反応を心の底の深くに沈める。

「もうひとつ、教えとく。先生は今度こそお前が戻ると思ってる。また俺一人が島に着いたら、きっと舟を奪ってでも、お前に会いに島を出るだろうよ」














 言い放ったセリフで続くとか、なんとなく反則技!ってこともないのか。どうしても眠くなりまして、これ以上は無理ですー。てなわけで、コメントもそこそこで申し訳ない。次に書くのはお題かなあ…。



16/02/11