記 憶 …… 16
「サナミ、待っていてくれ。ヌシ様に、会ってくる」
触れていたサナミの手を離し、タダハルは静かにそう言った。サナミの手は、タダハルを追い求めようとしたが、彼女は唇を引き結んで頷いた。
「…はい、あなた」
漕がずとも舟が島に着いたこと。島の浜に足をつけることが出来たことが、即ち、もう一度ここに受け入れられたということだとは思うが、それでも、タダハルはもっとはっきりと確かめたかった。出来うる限りの不安を拭い去り、憂いなくこの島のひとりとなる為に。
「誰かに立ち会って貰いたい。ヌシ様のいる場所へ、共に来てくれる人はいるだろうか」
何があっても心を乱さず、冷静に見届けてくれる人でなければならない。サナミは勿論、ミツも駄目だ。これは彼女自身の娘に関わることでもあるから。ぐるりと見渡す浜辺で、すい、と手をあげたものがあった。見ればそれは、カズアキだった。
「…此処へ渡って、たった13年足らずじゃあ、役不足かもしれませんが、私でもしもお役に立つなら。あともう一人、化野先生にも来て貰ってはどうでしょう」
不安げにしていたサナミが、カズアキの提案を聞いて、ほんの少しばかりだが、安堵した顔になった。母とのことで世話になった化野を、彼女は心から信頼している。
「お願いします。化野先生。カズアキさんも」
「…構いませんよ、勿論」
向かうのは、島の人間すべてが一度はヌシに「会った」平らな土地。おのれの一生の縮図のように花が咲くのを、化野も見せられた場所だ。すぐに歩き出しながら、当然のように化野は言った。
「ヌシに会うのだから、神官の白也を呼びに行かなければ、途中に家があるので、何なら俺が呼びに」
「いや、神官の彼なら」
今この島には居ない。と、そう言おうとしたタダハルを、カズアキがやんわりと、身振りで制する。
「先生は聞いていなかったんですね。だと思いましたが」
「…なにを…?」
彼は少し済まなげに、化野が知らなかったことを教えてくれた。宥める意味もあるような、噛んで含める言い方だった。
「ギンコさんは、渡守りを引き継いだ一度目で不慣れですから。その上、今回は荷が多い。どのみち一度では荷のすべてをこちらへ渡し切れない。それを分かっていて、本土との間の島まで、白也さんがもう一艘の舟を出して行っているんです」
「聞いてない」
「先生に言わなかったのは、きっと白也さんなりの気遣いだと思います。またあんなことになっては、と、思ったんでしょう」
あんなこと。化野自身も、あの痛みと苦痛の最中に口を滑らせていた。ギンコを想い過ぎると、こうなる、と。
「既に顔色があまりよくない。大丈夫ですよ、化野先生。多分、と加えなければなりませんが、戻りたいと願うものはここに戻れるのだと、たった今、わたしたちは目にしたばかりだ」
言い終えて、カズアキはにこりと笑み、タダハルに向けては眼差しで会釈をした。
戻りたいと願うものは戻れる。
此処に居たいと思うものは、
ずっとこの島で暮らしていける。
真摯な気持ちで望めば、願えば。
けれど、
願わなければ、
居られない島。
遠い記憶がカズアキの中で小さく揺れたが、もう彼の中に、一時、唯一であった女性の顔は、はっきりとは浮かんでこなかった。これは過去だ。取るに足りないただの一片。なのにあの時おのれで傷つけた手首が、今更熱い気がする。あの時、ヌシの花が蝶の姿となり、塞いでくれた傷だ。
「タダハルさん、今こんなことを言うのは余計だとは思いますが、私が立会人に挙手したのは、親切心からじゃない。機会があれば、確かめておきたかった。ヌシと島民との繋がりの『形』を」
ふと彼が其処に目をやると、幾重にも重なる傷の上に、蝶の形をした何かが見えた気がした。カズアキにとっては見覚えのある姿だった。13年前にも、同じ蝶を見たのではなかったか。
「…ここ、だった筈だ」
カズアキの言葉には何も返さず、ぴたりと足を止めた彼に、二人は頷いた。平たい石を敷き詰めたような不思議な場所だ。何をどうすればいいのか分らない。でも何か、受け入れられた証明のようなものが欲しい。そう思いながら、過去を思い出してタダハルはそこで膝を付き、地面に手を触れて頭を垂れ…。
「…っ」
目を閉じているのだろう、タダハルはすぐには気付かなかった。だから、最初に息を飲んだのはカズアキだった。その傍に居た化野も、同じものを見て言葉を失っていた。二人のみたものは、蝶、いいや、ヌシの花だ。それは白にうっすらと橙を差したような、あたたかな色をしていた。
その花が、まるでもがき出すように、地面に置かれたタダハルの腕辺りから出てきて、ゆっくりと花弁を広げて蝶に似た形となり、数回羽ばたいて、ふっと其処を離れた。と思うと、タダハルが頭を垂れたすぐ目の前まで舞い降りて。
「タダハルさん、見ていますか」
「…あ…」
言われてやっと気付いて。けれどタダハルは、何も言葉に出来ず、その蝶が土に吸い込まれるように消えて行くのを、見届けた。
「それはきっと、貴方の中にずっと居た貴方の花だ。ヌシの花は、島のものを守ってくれる存在なんだと私は思うんです。私も昔、この島で一度罪を犯しました。島を裏切ったんです。でも許された。私の中から蝶は出てきて、私を守ってくれた…。あれは、やっぱり、そういうことだったんだ」
そこまで言って、カズアキは済まなそうに笑った。
「すみません、こんな時にこんな話、自分本位が過ぎましたね。でも立会人の役目は果たせましたよ。タダハルさん、おかえりなさい、ナキ島へ。私たちがこれからの一生を暮らす、何も無い、けれど、優しい島へ」
化野も、はっ、と我に返ってタダハルに笑い掛ける。
「俺は医師としてまだ経験も浅いから、あなたが戻ってくれて本当に心強いですよ。これから、よろしくお願いします」
「あ、あぁ…」
何故かその時のタダハルには、二人の言葉がろくに届いていないようだった。彼はポケットから取り出した、小さく小さく折りたたんだしわくちゃな紙を、震える手で強く握っている。
「…それは?」
カズアキがそれをさりげなく覗き込んで、にこりと笑った。
「証明は済んだ。私たちも、あなたが島に受け入れられた証拠をしっかりとみましたし。サナミさんのところへ早く戻ってあげて下さい。そんな大事な用があるなら、早く言って下さらないと」
カズアキがそう言うと、タダハルはもう後も見ずに駆けるほどの勢いで歩き出した。唖然として見送っていた化野も、さっきの紙がなんであったかを察する。
この島では、まったく意味のないものには違いない。けれどサナミはきっと喜ぶだろう。それから二人も歩む足を速めたが、タダハルには追い付けず。
見れたのは顔を覆って泣いているサナミと、それを傍で困ったように宥めているタダハルと、そして妙にはしゃいで、お祝いだ、宴だ、なんなら祝言を、と騒いでいる里の面々。サナミに差し出して見せた一枚の紙。婚姻届を持ったまま、何やらおろおろとしているタダハルがおかしい。
「祝言、って…いやそこまで…」
困り果てているタダハルに、ミツがこう言い放った。
「そこまで、じゃあありません。せっかくですもの。娘に似合う取って置きの晴れの着物ならありますよ。タダハルさんには、私の夫のがあります。合わなくとも急いで直します」
わっ、と皆が湧く。湧いた中に巻き込まれ、カズアキも、そして勿論化野も、即席の宴の席に連れて行かれるのだった。
浜に居たいんだ、本当は。
こんなことを、している場合じゃ。
勧められた酒は、唇を湿す程度にしか飲まず、化野はぼんやりと海の方を見やった。こんな夕の明るいうちから宴に混じっているような心境じゃないのだ。
めでたいのはめでたい。タダハルが戻り、サナミやミツや、他の島の皆が全員で歓んでいる。そして簡単にではあっても、タダハルとサナミとがもう一度添い合う、これは祝いの宴なのだ。でも、化野が待っていた人は、まだ戻っていない。本当ならもう戻っていて、今だってすぐ傍にいる筈だと、化野はつい思ってしまう。
もう幾度目になるか分からない溜息を、化野は隠して吐いて、酒の盃を干す振りをした。軽く傾けるだけで、盃の中の酒は一滴も減らない。
皆へ順番に酒を注ぎながら、段々とサナミが化野に近付いてきて、彼の盃へも注ぐ仕草をし、笑い掛けながらこう言った。
「ギンコさんのことが気になるんですね。浜に居たいのでしょう、先生。行って下さい。そしてギンコさんが戻るのを、一番に迎えて上げて下さい」
化野のように表情や態度に表さなくたって、あの人も、きっと先生にずっと会えなくて、辛い思いをしていた筈なのだから。
「こんな宴より、何倍も大事な筈でしょう? 先生」
言われて、化野は盃を呷った。そして、ありがとう、とひとこと言うと、宴の席からこっそりと抜け出した。浜辺はすぐ其処だ。砂を蹴立てるようにして、彼は走って、まさにたった今、浜辺に辿り着いたばかりの一艘の舟を、見つけたのだった。
続
今回は、またしてもタダハルさんの回だったような。いや、何気にカズアキさんも目立っていたような。先生はちょっとしか喋らないし、イサやギンコに至っては、どこにもいないっっっ。なんてことだっ。早いところ続きを書かなくては、と思います。
そしてご存じのとおり、今、着いた舟は、ギンコの乗った舟じゃないんだよ、化野先生には後で惑がお詫びをしておきます。ほんとうにすみませんでした。次回はイサもギンコも出しますよ! 絶対っ(当たり前だ)。
こんなですけど16話のお届けですっ。「記憶」で終わるかどうか、不安になっている惑でございます…orz
16/01/29