記 憶 …… 15
風が淡い。けれど打ち寄せる微かな波の音はしていて、そんな浜辺に化野は今日も下りてくる。すると、いつもはその時間、あまり人気のない其処には、幾人もの人々の姿があった。
数人で集まって、他愛のない雑談をする女たち。陽のあたる岩の上に網を広げて、ほころびをなおしている漁師。採れたばかりの海藻を、日向に干している女。綺麗な貝を探しては、集めている子供たち。昨日まではこんなふうじゃなかったのに、どうして今日だけこんなに?
考えるまでもなかった。今日がぴったりひと月目だからだ。みんなちゃんと日を数えて、渡守りが戻るのを待っていたのだろう。時折顔を上げて、沖の方を見る人々の顔が、期待に満ちている。
少しばかり不思議に思えた。そんないいものが運ばれてくるわけじゃない。必要最小限の日用品が殆どなのに、何をそんなに楽しみに? まるで、外界と触れ合う接点を、一人一人が心の何処かで求めているようだ。化野にはそんなふうに思えた。
「今日、お戻りになればいいですね」
言葉を掛けられて振り向けば、声で分かった通りにそれはサナミだった。連れ立って、彼女の母のミツも彼女の傍に居る。
「あぁ、ミツさんも」
「こんにちわ。頼んでおいた紅茶が楽しみで」
「紅茶? それほどお好きなんですねぇ」
柔らかく笑んでいるミツと、当たり障りのない会話をしながら、何気なく化野はサナミの方を気にした。サナミは昨日ここで会った時のような、哀しげな顔はしていなかった。歩き辛い砂の地面を気にして、母の肩に手を添えて、転んだりしないように気遣っていた。
徐々に日は傾いて、やがて夕暮れが訪れ、殆どのものは、今日はもう来ないものかと諦めようとしている。そんな中、初めに気が付いたのは、サナミだった。彼女の目は、ふと一点に釘付けになり、ゆっくりと見開かれ…。
「…あ、あなた」
そう、サナミは言ったのだ。震えるようなか細い声で。化野は沖で揺らめくそれには気付かず、彼女の様子を先に気にして、それからその視線を追うように、自分も海の遠くを見やった。
見えたのは、舟。
心臓を跳ねさせながら、凝らした化野の目に映っているのは、確かに舟だった。…でも、そこに見える人影は、彼が待ち望んでいた相手ではなくて、少し年のいった男が一人、だったのだ。
サナミの声がまた、消え入る、ように。
「あ、あなた…。あなたなの…?」
見ている間にも舟はぐんぐん近付き、浜に居る誰の目にもその姿がはっきりと見えてくる。誰かがこう言った。
「あれは、タダハルさんじゃないのかい?」
「ほ、本当だ!」
その声を聞き、サナミは怯えたように周囲を見渡した。愛しい夫の姿が、自分ひとりにだけ見える幻覚ではなかったことに、彼女は慄いていた。そしてサナミの目は、すぐ傍に居たミツの眼差しと重なり、彼女は縋るように母親を見たのだ。
「お、おかあさ…」
「……サナミ…」
「わたし、ど……」
酷く震えた娘の声に、ミツは、こう言った。
「…い、行きなさい…! 何をしてるの、サナミ、早く…っ、行きなさい!」
そしてミツは激しく、サナミの背を海へと向けて突き飛ばした。砂を蹴立ててまろぶように、彼女は駆け出し、そのまま転びかかりながら波打ち際へと、打ち寄せる波の中へと…。
沢山の里人がそれを見ていたが、誰も彼女を止めたりはしなかった。その代わり、手助けしようと駆け寄ることも出来ないでいる。化野も一歩も動けずに、最初からの場所に立ち竦んでいたが、彼の視野で、崩れるようにミツが座り込んだのを見て、ようやっと体が動いた。
「…ミツさんっ」
支えられて、なんとか立ち上がりながら、ミツは言っていた。
「サナミ…サナミ…。どうか、元気で…」
「…いや、違いますよ。違うと、思います」
舟に乗って現れたのがギンコではなかったことに、化野は内心酷く動転していたが、それでもミツの思いが誤りであることははっきりとわかる。そうじゃない。タダハルは、サナミさんをこの島から連れ出し、何処かへ連れて行く為に来たのじゃない。
「も、戻って、きた… ? 戻ってきたんだ…! タダハルさんは…っ」
誰だかわからないが、里人の一人が、興奮したようにそう言った。ミツの目は大きく見開かれ、彼女は口を両手で覆い、零れる嗚咽を、抑えていた。
浜は大騒ぎになりつつあった。浜に居た人が、来ていないものを呼びに行き、どんどん人は増えてくる。皆一様に驚いて立ち竦み、けれどそれ以上は見守ることしか出来ない。ついさっきまでぐんぐん近付いてきていたその舟は、かなり遠くでぴたりと止まり、それ以上は少しも近付かなくなってしまっている。
サナミは一人で、波を掻き分け掻き分けして、必死で近付き、その事に気付いたタダハルも、躊躇わず海へと身を投げた。二人は波の中で一度抱き合い、それから互いに支え合いながら、足掻くようにゆっくりと、浜へと近付いてくる。
二人の足が立つようになったのを見た途端、皆はどっと、駆け寄った。押し包まれて、揉まれるようにしながら浜へとあがり、タダハルとサナミは、ミツの方を見たのだ。タダハルはサナミの手を取り、サナミはもう一方の手でタダハルの腰を支え、真っ直ぐにミツへとやってくる。
少なからず経緯を知る里人たちは、彼らの邪魔をせず、遠巻きでじっと静かになった。
「お義母さん…」
そう呼ばれて、ぴくり、ミツの体が跳ねる。
「お義母さん、すみませんでした」
タダハルはミツへと頭を下げて、そうしてこう言葉を続けた。
「戻るのがこんなに遅くなって…。サナミを置いてずっと留守にして、心細い思いをさせて、本当にすみませんでした。もう、二度と、私はここを離れません。ずっと死ぬまでこの島で、サナミとお義母さんと島の皆と、生きて、行きます」
「…ぅ…」
泣き崩れてしまいそうなミツの背を、サナミがそっと労わるように撫でて宥める。タダハルは其処に居た化野へ、ふと視線を上げると、真っ直ぐに彼を見て何かに気付いた顔になる。
「違っていたら申し訳ないが、あなたが医者の先生、だろうか。薬剤師のあの人と共にこの島に来てくれたという…」
「…ギ、ギンコと、会ったんですか」
「えぇ、彼のお蔭で私はここに戻れたんです、背中を押して貰った。正直に思っているままを告げろと、そう言われて、それで彼が渡る筈のところを」
「……」
酷い耳鳴りがし始めたと思った。目の前のタダハルの唇は動いているのに、言葉が聞こえなくなっていくのだ。上げた片手で片耳を塞ぎ、足元へと化野は真っ直ぐに視線を落す。夕暮れの色を浴びて、淡い紅色をしている砂が、急に、黒く見えてくる。
鼓動が速い。速過ぎて、すぐにも壊れてしまいそうだ。
「ギンコ、は…ギ…」
まさか、
この人に役目を譲って島へと渡らせ、
代わりに自分は、
ここには戻らないつもりで…。
真っ青になってしまった化野に気付いて、タダハルは強く、はっきりと言った。
「あの人も、必ず戻ると言っていました。準備もすべて整っていた。だから私を先に渡らせただけで、彼も、必ずすぐに」
「あ…ぁ…、」
辛うじて耳に入ってきたタダハルの言葉に、化野はその場に座り込んでしまう。ほっとしたのと、みっともなく尻から落ちたのとで、ふと笑いが込み上げた。
「は、は…参った、心臓が…どうかなるかと思った…」
心臓は無事でも、涙腺が壊れた。項垂れて見ている砂の上に、ぱた、ぱたと涙が落ちて、しばらく顔をあげることも出来なかった。
勘弁して、くれよ、ギンコ…。
残されて待つしかなくて、
どれだけ俺が不安だと…っ。
その不安を、自分はよく知っている、こんな時だと言うのに、過去の自分はいつもそうだったことが、その時はっきりと胸に響いた。不安なまま、怖いままで、待って、待って、待ち続ける、それが「化野」という存在なのだと。
「痛…っ」
ずきり、急に胸が痛んで、ギンコはおのれの心臓の上に強くこぶしをあてた。今、化野が俺のことを思っている、その事が生々しいほどに分かったのだ。自分と化野とが、何処かではっきりと繋がって、呼応していると分かる。それが嬉しくもあり、千切れるほどに痛くもあった。
傍らには、今、誰もいない。イサと白也は、見えなくなったタダハルの舟を追う様に、沖へと舟を出して行った。半分の荷と共に残されたギンコは、膝を抱えて荷車に寄りかかり、その膝の上に額を乗せ、祈るように呟いた。
「そう怒るなよ…化野…。俺だって、痛ぇよ…バラバラに、壊れちまいそうだよ」
続
想像はしていたのですが、殆どサナミとタダハルの回になってしまいました。あははは、って笑ってる場合じゃなーいっ。これが年末にあげるお話かぁ…。でもま、元旦の内にも、今書いているのをあげるから、これはこれでいいですよね(と、納得する)。
今年一年のLEAVESを応援して下さった方々、本当にありがとうございました。来年もよろしくお願いしますv (て打ってる今は既にその来年)
2015/12/31